第三十五話
僕らは遠く離れていくガラガダの大門を眺めながら馬車に揺られていた。街に着くなりミラが、馬車に乗って急いで帰りましょう! と言うから、先に到着していたゲンさんを乗せていた馬車に乗り込んだのだ。どうやら僕のことを案じてくれたようで、乗り込むや否や背中から降りて、アンタも横になって休んでおきなさい。と、涙ながらに言っていた。
「……それはそうとして、本当に大丈夫か?」
「……いたい……っぎッ! 痛い痛いいーたーいーーッ‼︎」
車輪が石を蹴り上げる度、窪みを飛び越える度に彼女はうめき声とともに大粒の涙を流していた。今僕がこうして体を起こして流れる風景を見ているのも、揺れるたび頭を打ち付ける乗り心地に寝てなどいられなくなったからでもあった。
「……枕……せめて枕が……ぃぎい!」
おっと今のは大きく揺れたぞ。きっと轍を踏み越えたのだろう。苦しむ彼女の姿を見ているのは嗜虐心がそそられて、えも言われぬ興奮を覚えたが……それはそれとしてやはり可哀想だ。
「……ぃい〜……アギト——ぎぃっ……アーギートー……」
弱々しく悲鳴をあげ続けるそのわずかな隙間に、僕を頼ろうと縋った声を出す動けない少女。これは……イイ。可哀想だけどもうすこしこのまま……
「アーギートーっ! なんでもいいから。まーくーらーっ!」
そう言って丸くなったまま手を伸ばして、腰からポーチを奪い取ろうとする。いやいや、これはダメだって。中身考えようよ。
「ちょっ! ダメだって! 刃物入ってるし、割れ物入ってるし!」
「まーくーらー……ッ! っ! ッ⁉︎」
腕を伸ばしきって体がすこし伸びて……どうやら彼女は腰か背中が相当痛む様で、そこを庇うように丸まって衝撃を逃していたらしいのだが……体勢を変えて緩衝材を失った背中に、今日一番の衝撃が走った。おそらく大きな石にでも乗り上げたのであろう。ガン! と、金属音がまだ耳に残っている。
「っ⁉︎ っっ‼︎ あぎっ! アギトっ‼︎ ぁぐっ⁉︎」
息も絶え絶えにどんどん丸くなっていく姿には流石にいたたまれなくなって、僕も何か柔らかい、頭と背中だけでも保護できるものが無いかと車内を見回した。しかし馬車の中にあるのは鎧や刀剣、それから食料の入った木箱だけで……
「…………服……とか?」
はい、冗談でもなく。別に下さえ脱がなければ……いや、うーん。どうだろう。泥だらけで汗まみれなこのシャツくらいしか思い当たらなかった。
「……そう、ね。じゃ、脱がせて」
「はは、こんなので良けれ脱がせて⁉︎」
脱がせて⁉︎ NUGASETE⁉︎ キャストオフミー(?)⁉︎ つい大きな声が出てしまったが、ユーリさんに勘付かれていないだろうかと覗き窓から外を見た。どうやら騎士の皆様は馬車から少し離れて付いてきているらしい。馬に乗った数名だけだが、改めて目の当たりにすると心強い。じゃなくて⁉︎
「…………? ッ⁉︎ なっ! 変なこと考えないでよ‼︎ 上着! 私が着てる上着を脱がせてって言ってんの‼︎」
上着……上着? 確かに彼女はいつも薄手の長袖シャツを可愛らしい小さな象牙のボタンをひとつも留めないダイナミック少年スタイルだ。が、僕は知っている。いつかの未遂事件の折彼女の上着を剥いだことがあるし、いつかの晩ノット少年スタイルで登場した彼女と一晩過ごしているから知っている。その中に着ている……なんて言うんです? もうおじさんからしたら肌着ですよ肌着。細い肩紐一本で胸元も緩いし……え? こんな公共の場(?)であんな格好になるんです? っていうか僕がさせるんです⁉︎
「……アギト?」
「おっ⁉︎ お、おう! オッケーマカセテ‼︎」
落ち着け秋人……もといアギト。お前も昂りを抑えろリトルアギト。これはあくまで医療行為(?)だ。それに彼女からお願いされて、可愛い可愛い市長様からの依頼なのであって、決してやましい行為では無い。やましい行為では、無い。大切なことだから二回言ったぞ、ここテスト出るぞ。オーケー落ち着いていこう。焦るな、感情を極力殺して、気取られるな。下心に勘付かれたらあっという間に痴漢で投獄、明日には牢獄……
「何よ? どうかした?」
いつもの服と違った。というか別に毎日同じ服着てるわけでも無いだろうし、うん。今日は危ない場所に行くって分かってたもんね。珍しく留めていると思ったボタンの下が、首までしっかり覆う薄手のぴっちりしたニットに、およそおしゃれとは言い難い鎖帷子の様な網状の防刃服の重ね着だったとは。
「……それじゃない? 痛いのって」
「……間違い無いわね……」
僕は彼女の頭をゆっくり膝の上に乗せて、慎重に。それはそれは慎重に上着といかにも固そうな網シャツを脱がせて、柔らかそうな方だけ畳んで高さがつくように丸めていく。
「…………それ、丸めないで背中の下に敷いてくれない?」
「へ? いいけど頭は? 背中だけ盛り上がって苦しくなんない?」
気を使ったつもりでそう言ったが、彼女と目が合ってようやくその意味を理解した。ああ、頭の下に敷く枕はもう解決して……待って欲しい。いくらなんでもこのままずっとは恥ずかしいんですけど⁉︎
「……だめ?」
「………………ミラが良いなら……しょうがない……」
上目遣いにねだられたから許可したわけでは無い。断じて無い。あくまで苦しそうにしている姿に見かねたから、だ。僕は丸めたシャツをもう一度伸ばして薄くたたみ直し、彼女の背中と床の隙間に滑り込ませた。
それから街に着くまで取り留めのない話をした。ゲンさんに挨拶出来なかったことや、四人の若者のしていた謎の構えのこと。逸れた後、僕がゲンさんから教わったこと、教えてくれてなかった薬や魔具のことも問い詰めた。そして彼女と魔女の戦いのこと。いつも行く店の新メニューの噂のこと、ロイドさんにご馳走になったテ……テリ……照り? すごく美味しい料理のこと。帰ってからのこと。
「お二方、着きましたよ」
いつしか馬車は止まってユーリさんが僕らを呼びに来るまで話は終わらなかった。膝枕しているところを彼に見られたのは少し気恥ずかしかったが、彼も気にしている様子も無し。急いで、それでもゆっくり。ミラをおぶって、馬車から嗅ぎ慣れた匂いの地面に少し痺れた足を降ろす。眼前に広がるのは、ひどく懐かしく感じてしまう街並みだった。
「それでは我々はこれで。またいつか」
「はい、お世話になりました。ありがとうございます。貴方達の帰路にも加護がありますよう」
背中の上でロクに体も起こせない彼女に代わって、僕はゆっくり頭を下げて彼らを見送った。帰ってきた。無事、またアーヴィンの街へ帰ってきたとようやく実感する。
「帰りましょうか。神官様には明日改めて報告に行きましょう」
そう言う彼女を連れて、軽くなった足取りで帰途につく。話の続きをしていると数十分なんて一瞬のことで、僕らはまたこの場所に帰ってきた。
「……提案なんだけど、今このまま入っても誰もいないわけじゃん?」
僕は立ち止まって、そのボロ屋を見上げながら話を始める。もしかしたら突拍子も無い、すごく恥ずかしいセリフを言っているような気もしたが、今更気にせずありのままを言う。
「だから、一緒に帰ってきた時は俺が先に一歩入る。で、ミラがただいまを言ったら俺がおかえりを言う。ほら、約束通り。待ってるって言ったしさ」
ああ、いや。いやこれは恥ずかしい。ミラが黙ってしまったせいで余計に……ああっ! 殺せ! いっそ殺してくれ‼︎
「……何小っ恥ずかしいこと言ってんのよ。ほらはやく入った入った」
「コロシテ……小っ恥ずかしいとかイワナイデ……」
きっと逆だったら彼女は耳まで真っ赤にしているところだろう。穴があったら入りたい。熱くなった顔をこれ以上屋外に晒したくなくて、僕は急いでゲンさんの家よりはマシ程度のボロ屋に入った。
「ただいま、アギト」
「っ! おかえり」
浮ついたような明るい声色で言うもんだから、やっぱりやるまいと思っていたやり取りを成立させてしまった。くっそぅ、なんで僕ばっかりわたわたして……
「えへへ。ほら、突っ立ってないで。急げ急げ!」
くう、いつか逆転の一手を打ってやる。急かされるままに僕は彼女を部屋まで送り届け、布団を敷こうと伸ばした手を意外そうな声で彼女は止める。
「違う違う、そこのカバン持って机行って」
「え? 机って……え?」
まさかね。いや、確かに仕事が多いから早く帰りたいって。言っていたけどもだよ?
「…………ねえ、アギト。私はアンタを信頼してるわ。隣人として、共に戦った仲間として、もちろん秘書としてもよ」
「ウソでしょ……? ブラック! ブラックすぎる‼︎」
首だけ振り返ると、そこには死んだ目で慈母の様な優しい笑顔を作った悪魔がいた。
「アンタが資料を捲る、私が目を通す。オーケーを出したらアンタがサインして次の要請書を出す。簡単でしょ?」
「簡単な! 量じゃ! 無いんだけど⁉︎」
見るのも嫌になるくらいみっちり詰め込まれた用紙に、既に心は折れた。無だ。無の境地で彼女の言う通りにだけ動くロボットになるんだ。
オワリ、ミエナイ。カバンノナカ、マダハンブンモヘッテナイ。オモッテタヨリ、テ、イタイ。セナカ、アッタカイ。ミミモト、アツイ。ネイキ、カワイイ。寝息?
「……ミラ? もしもーし?」
作業開始から十数分。すうすうと寝息を立てて彼女は戦線離脱した。
「まったく。お疲れ様」
無理もない。こんな小さな体であれだけ苛烈な戦いをしたのだ。文字通り精根尽き果ててなお、仕事だけは終わらせようという精神だけでも大したものだ。それはそれとして……
「……普通この状況で寝る…………?」
背中があったかい。眠っているからだろう、体温がいつもより高い。これは……どうなんだ? いいのか? いいってことなのか?
だってそうだろう。どうだろう? 今彼女は満足に身動きできない状況であって、そんな状態で男の上で呑気に寝息なんて……ああ、なんて呑気で平和で子供らしい寝息! ちくしょう! もうすこし警戒心ってものをだな‼︎
「ッッ⁉︎ 何もしてない! 何もしてないぞ⁉︎」
しがみつく腕が締まってきてひどく焦った。首でも閉められるのかと思ったが、単に寝ぼけて僕の頭を抱き寄せようとしただけのようだ。
「…………信頼、ね」
さっき彼女が言った言葉が微妙に胸に突き刺さった。これはつまり男としては見られていない、と。まぁそんなに深い意味は無かったのだろうが……いや、うん。ううん?
「……はぁ。おやすみ、ミラ」
無駄にドキドキしながらも、しっかり僕の瞼も重たくなってきた。そういえばこんなに走り回ったのなんていつ以来だろう。彼女を起こさぬ様に机の上を慎重に片付けて、僕もこのまま眠ることにした。