第三百四十四話
勇者の資質……か。そんなもの無くったって、とっくにコイツは誰もが…………誰もは言い過ぎか。マーリンさんも認める立派な勇者なのだ。勿論、僕だって心の底から推薦する。けれどもし……もしも、その資質というのがあるとしたら…………
「…………寝坊助と噛み癖は…………減点だな」
昨日の晩あんなに優しい言葉をかけてくれた小さな顔の大きな口は、今朝は僕の肩口を噛みちぎってやらんと言わんばかりに、ダラダラとよだれを垂らしながら噛み付いていた。これのどこが勇者だ。
「いてて……痛いんだぞ、あんまり強く噛むと。こら、ミラってば。もう……」
でもついつい甘やかしちゃうのは悪い癖というか……ねえ。じゅるりと垂れていた唾を啜り上げるミラの頭を撫で、ちょっと落ち着いてくれとその小さな体を抱き締める。ああ…………あったかぁい…………いかん、眠たくなって…………
「こら、アギト。君まで寝坊した上に二度寝なんて、許されないぞそんなの。でへ、毎朝こんな感じなの? 君達は」
「…………はい、毎朝こんな………………っ⁈ まっ⁈ マーリンさん⁉︎ なんで⁉︎」
なかなか起きて来ないし、返事も無いからさぁ。と、呆れたように僕の頭を撫でたのは、ベッドに腰掛けて僕の背後からミラの寝顔を覗き込んでいたマーリンさんだった。そんなに寝坊した⁈ 嘘だ⁉︎ いや……言われてみれば……昨晩は食べ過ぎて寝苦しかったような……? いかん……切り替わりの時には早寝しなきゃって決めてたのに。ここ数日ちょっと気が抜けてるな……
「でへぇ……可愛いなぁ君達は。なんだいなんだい、乳離れしたばかりの子犬みたいじゃないか。僕も混ぜておくれよ」
「混ぜ…………っ⁉︎ いやっ⁈ ダメでしょ⁉︎ 倫理観どうなってんだアンタ⁉︎」
えー。と、彼女は不満げにぼやいて、それでも躊躇なく僕達に抱き付いてきた。ちょっ……やめっ…………はふぅ。いえ、全然やめて欲しくないですよ。本音を言えば、いつもずっとこうしていて欲しいくらいで。けれど、それはそれとして……建前ってもんがあってだなっ! 離れい! 今はミラがいるんだよ! その………………元気になっちゃったらどうすんだ‼︎
「むぅ……なんだよぅ。ミラちゃんとはくっつくのに、僕はなんでダメなのさ。そりゃ君ら程仲良しじゃないかもしれないけど、結構打ち解けたと思ってたのに。ちぇーっ。お姉さん傷ついちゃうなぁー」
「いやいや、何言ってんですかアンタ。俺とミラは兄妹であってですね。そもそも男と女がそう気安く抱き合うもんじゃ……」
君達は血の繋がった兄妹じゃないんだけどね。と、マーリンさんは呆れたようにまた僕の頭を撫でた。う……そ、それを言われると…………いいや! 俺とミラは間違いなく兄妹だ! 血の繋がりなんて要らない、そんなの無くたって俺達は心で繋がってるんだ!
「…………俺とミラは家族だよ。血の繋がりなんて……関係無いよな。なあ、ミラ」
返事が無い、ただの寝太郎のようだ。そんな姿を見てか、マーリンさんが僕にもって顔でミラを抱き上げようとするもんだから、盗らせまいとさらに強く抱き締める。だめ! これは僕の! そんな僕らのやりとりに、ミラもやっと目を覚ましたらしい。大きなあくびをするや否や、すかさずまた僕の首に噛み付いた。起きたんなら噛むなっ‼︎
「あはは、おはようミラちゃん。アギトってそんなに美味しいの? どれ、僕も一口……」
「ッッッッ⁉︎ 何考えてんだアンタはッ‼︎ お前もいつまでも噛んでないで起きろって! ちょっ…………本当に噛もうとするな! え? 本気で噛むの……? 噛む……か、噛みたいんですか…………?」
悪ふざけでポーズだけとってからかってるのかと思ったら意外と本気だった問題。じりじりと距離を詰め、マーリンさんは真剣な顔で僕の空いてる方の首筋を睨みつけていた。いったい僕の首に何があるってんだ。美味しくないよ……? 美味しく…………美味しいのかな? いつも飽きもせず噛んでるし…………
「っ⁈ あっぶ……本気で噛みに来ましたよね今⁉︎ なんなんですか! 俺の首の何がアンタをそんなに駆り立てるんだ!」
「いや、むしろ何がミラちゃんを駆り立ててるのかを知りたくって。噛んでみたらとっても甘いとか? 魔力を放出出来ない特異体質だ、発汗時に糖分を生成するくらいはあってもおかしくないだろう」
いやいやいやいやいやいやいや⁈ おかしいって! 言ってることとやってることがリンクしててかつおかしいんだってば! だ、大体…………その、なんだ。男女で首を噛んだりとか…………な、なんだか如何わしい感じがあるというか…………
「むぐ…………ふわ……アギト、暴れないでよ。肩を動かされると顎が辛いんだから……」
「おい、なんでおとなしく噛まれてる前提で要求してんだ。起きたんなら頼むからマーリンさんを止めてくれ。抱き付いていいぞ、なんならその……揉んでもいい。とにかくあの人の注意を引いてくれ」
ミラが起きたにも関わらず、マーリンさんの興味は僕の首に焦点を当てたままだった。くそ……この人は違うと思ってたのに……っ。やっぱり術師ってのは自分の好奇心に素直過ぎるんだよ!
「でへ、おはようミラちゃん。ごめんね、僕にもちょっとだけ噛ませて欲しいな。アギトが逃げないように押さえておいて欲しいんだけど……」
「噛む……ですか。うーん……マーリン様はあんまり口も大きくないですし、大変だと思いますよ? アギト、ちゃんと噛みやすい様に力抜いて両手を下げてなさい」
おう、止めてくれや。なんで噛むことは確定した上での注意なんてしてるんだお前は。しかしこれで、ミラにガッチリと腕を押さえつけられ、にじり寄るマーリンさんを妨げるものがなくなってしまった。や、やめ……せめてミラのいないとこでやって‼︎ いやぁ! そんな特殊なプレイ、妹に見られるなんて嫌過ぎるっ‼︎
「では、いっただっきまーす。あぐ…………? あー……む…………むむ?」
「ひっ……ちょっと……くすぐった……んひぃっ! マーリンさん、噛むならいっそひと思いに…………マーリンさん?」
吐息が‼︎ 顔が近いから息遣いとか匂いとか、全部ダイレクトに伝わってくるんだけど! そして首元に息がかかると…………こう……………………すっげえやらしい感じがするな‼︎ もうちょっと頭がクラクラしてきたんだけど……と、止めても止まってくれそうにないマーリンさんに観念して目を瞑っていると、なにやら首を傾げ、噛むのをやめて僕から離れていくではないか。な、なんだよ…………噛むなら噛んでよ…………き、期待とかしてないけど⁈
「…………ミラちゃん、ちょっとあーんしてごらん」
「はい? ええと……あー…………」
あーんじゃないけど。僕のことなんて放ったらかしで、マーリンさんはミラに口を開ける様に指示をする。そして……どういうわけかミラの頬を撫でたり、自分も口を開けて指でその大きさを確かめたり…………
「…………ミラちゃんほど口開かないんだね、僕って。あんまり大口開けて鏡見ることなんて無いからさ、知らなかったよ。そっか…………なーんだ、残念。齧り付くのは無理そうだね」
「ということは…………はあ。マジでなんの時間だったんだ……」
緊張して損したよ、まったく。ごめんごめんと笑うマーリンさんには、もう噛みつこうなんて意思は感じられない。ホッとひと安心…………でも、ううむ…………ちょっと噛まれたかった願望というのも…………無くは無いわけで——
「——隙あり! あぐっ! むぐ……」
「ッッッ! いっ…………たくはないけど……っ! 何して…………本当に何してんだアンタ…………?」
隙ありじゃない。ホッと胸をなでおろし、緊張を解いて肩が柔らかくなった一瞬を狙っていたらしい。全然そんなそぶりも見せずに、マーリンさんは飛びついた勢いそのままに僕の肩をひと噛みして…………そして、なんとも言えない表情ですぐに離れてしまった。なんなの、なんだったの。いきなり過ぎたし、すぐ離れちゃったんで…………あの、もう一回ゆっくり…………
「…………固い。焼き過ぎた豚肉みたいだ」
「立場と性別が違ったらはっ倒してますよ、本当に。お前らは人をなんだと思ってんだ」
分かります。と、ミラも何故か焼き過ぎた豚肉に一票を投じた。お前らには人の心ってもんは無いのか。時間をおいてちょっと興奮してた僕のドキドキを返せ。ちょっとこう……あの………………もうそういう行為みたいなもんじゃないか、って。勝手にドキドキしてた僕の純情を返せよっ!
「アギト、肩揉んであげるから、その後でもう一回……」
「嫌ですけど⁈ 誰が豚の肩ロースだ! っていうか、お前も固いとか文句言うなら噛むな! 揃いも揃ってこいつらは…………」
別に文句は言ってないわよ。と、ミラは嬉しそうに抱き付いてまた同じ場所を噛み直した。ああ、そういえば貧乏舌だったな。肉といえば固くて臭くて、煮付けなきゃ食えたもんじゃないみたいな料理ばっかり食べてたもん、アーヴィンでは。マーリンさんは柔らかい良いお肉を食べ慣れてるから、その差が出たんだな。いえ、だからって人の首の肉を豚肉扱いはどうかと思うんですけどね。
「えへへ……いや、ごめんね。ずっと気になってて…………後でぎゅうってしてあげるから、ヘソを曲げないでおくれよ」
「ぎゅうも要らないですって…………誰が牛肉だ! ほら、ミラももう離れなさいって。今何時…………っ⁈ もうこんな時間⁉︎ そりゃ起こしに来るわけ…………あれ? マーリンさん。俺、部屋の鍵掛けた筈ですけど…………」
ああ。と、マーリンさんはさも当然って顔で、指で宙を横に撫でた。うん? そりゃなんぞ? スマホのフリック操作にも似てるけど…………まさかこの世界にそんなハイテク機器はあるまい。では……その動きはなんぞや?
「強い磁力で引っ張れば動くからね。いやいや、彼の為の低出力強化で練習した甲斐があったってもんだ。雷魔術だけはそれなりに細かく使えるんだよ」
「…………使えるんだよ。じゃ、ないんですけど? いえ、起きなかった俺が悪いですけど…………何を堂々と人の部屋に忍び込んでんですか」
数秒の沈黙の後、マーリンさんはミラもビックリなほどあざとく振る舞って見せた。くそ…………下手に美人だから………………くそう! 勇者の資格というのがもしあるのなら、こんな単純な手に引っかからずに悪事を裁ける冷静さというのは大きな加点になるんだろう。くそぉ…………




