第三百二十五話
川から上がると、マーリンさんがタオルを手渡してくれた。うう……パンツまでびしゃびしゃだよ、まったく。まあ、僕の不用意さが招いた結果だけに、あんまり言えないけどさ。とにかく乾かそうと、カバンの奥底にギュウギュウと押し込まれていたのであろう固いタオルで体を拭いていると…………
「…………いでっ⁈ いてて……マーリンさん……?」
「おバカ。僕もちょっと気が抜けてたから、あんまり責められたもんじゃないけどさ。君の危機管理能力というか、その臆病さは買ってたんだよ。それなのに、こんなにあっさり手傷を負ってしまって……これが治療法の無い毒だったらどうするつもりだったんだ」
ごちんと杖で頭を叩かれ、ちょっとだけ不機嫌そうな顔で叱られてしまった。うう、面目次第もございません。いや、ちょっと待って。
「…………お、臆病……やっぱりそう見えます…………か……?」
「うん、君は間違いなく臆病だろう。でもそれの何が悪い。君は諍いを好まない、人が傷つくのが怖いのさ。だからこそ、無鉄砲なミラちゃんのお目付役としてはうってつけだと思ってたんだけど……評価を改めないといけないかな?」
うぐっ! 以後気をつけます……と、深く頭を下げると、ポンポンと頭を撫でられた。褒めてたんだ、臆病ってのも。そっか……嬉しいような悲しいような。微妙な顔をしていたであろう僕に、頼んだよ。と、小さく囁くと、マーリンさんは魔獣がいた筈の穴に視線を移した。
「…………さて、怪我の功名かな。まさかまさかの性質を持った魔獣が現れたもんだね。小型で良かった、こんなのが居るってここで知れたのは大きいよ」
「……そうですね。まさか自爆して酸を撒き散らすなんて……」
確かに、あれがもっと大型で、それこそマーリンさんまで頭から酸まみれになってしまっていたら大問題だ。さっき言ってた通り、毒ガスだったとしても同様。そして……問題なのは、それが現実的にありえるかどうかと言う話だ。
「酸を生成し溜め込む、なんらかの手段で破裂する、それらの機能を備えたまま生き物として生活する。普通の生き物なら大型化は難しいだろうけど…………そこはなんでもありな魔獣だからなぁ」
「ですね……普通ならありえない、意味が無い機能を持ち合わせているものばかりです。もしかして、全部実験途中の個体なんでしょうか……」
実験途中? それってゴートマンの魔獣の卵なんかの話? と、ミラに尋ねると、ちょっとだけ表情を曇らせてそうじゃないと首を振られた。
「もっと大きな規模の話よ。それこそ魔王の仕業なのか……それとも、魔獣という概念に植え付けられた自己機能なのか。人間を害することに特化した進化を、物凄い速さで遂げているとしたら……って。ほら、覚えてる? 水棲の魔獣がまだ存在しないって、でももうそろそろ現れそうだって話をしたことがあるでしょう?」
「お……おう。えーっと……アレだよな、あの沼地を沸騰させて倒したやつ……」
ミラは黙って頷いた。ええと、それがどうしたんだ? 人間を害する為の進化……ってのもイマイチピンとこない。生き物として不自然というか……ピンポイント過ぎやしないか? そんなことしていったい何になるっていうんだ。
「人間は確かに水が無いと生きていられない。けれど今は水道もあるし、そもそも地上で生活している生き物だから水辺じゃ襲う機会がそう無いのよ。だから……必要が無かったから、魔獣は水中への適応を後回しにしたんじゃないかしら」
「ちょっ……ちょっと待ってって。それはおかしいだろう? なんだって人間を襲うことに躍起にならなきゃなんないんだ」
それは……と、言いかけたミラの顔はサッと一気に青ざめて、オドオドもじもじし始めた。なんだか僕の方を見たり見なかったり…………あ。ああ……そういえば…………たまにやらかすなぁ……
「だ、大丈夫だからな……? 本当に大丈夫だって、今はお前もいるし……」
「で……でも……っ。ごめんね……」
魔獣が現れる直前まであんなに元気だったのに。しょぼくれた顔で僕に抱き着くと、大丈夫とかごめんねとか、それこそ雨のように浴びせながら背中をさすってくれる。うぐぐ……そろそろこの間違った認識をなんとかしないと……いつまで僕は魔獣に襲われたショックで記憶が混濁している設定を引きずらなきゃならないんだ……
「…………そうだね。端的に言って仕舞えば、縄張り争いで邪魔になるから、かな。単純な運動能力や凶暴性は普通の獣とは比べ物にならない。文字通り魔の獣だからね。熊を見て襲いかかる兎はいないだろう? だから、魔獣にとって人間ってのは、唯一抵抗してくる面倒な生き物なのさ」
「…………いや、だからってそんなピンポイントな進化がありえるもんですか? そういうのって普通、生きるのに必要な変化をするものでしょう? 戦うのに特化するって……」
そこは魔獣だからね。と、諦めたような顔でマーリンさんは肩を竦めた。いや、魔獣だからって言葉を簡単に使い過ぎでは。魔獣ならなんでもありだよね、とは問屋が卸さないぞ。
「うん、君の疑問は最もだけど……ミラちゃんも言った通りだ。魔王の仕業……要は魔獣が意図的に作られた生物兵器である可能性を考慮しなくっちゃならない。魔王自ら弄っているのか、それとも自動で最適な侵略形態へと進化するように作られているのか。生き物をそう簡単に弄くり回せるとは思いたくないけど……そう思わざるを得ない魔獣が増えてきてるって、そう言いたいのさ」
「生物兵器…………魔王によって意図的に…………あれ? そうか、魔王は人間を滅ぼすつもり………………なのか? あれ、そういえばそこら辺イマイチ理解出来てなかったというか……」
おバカ。と、ふたりに声を揃えて言われてしまった。うう……反論出来ない……っ。でもしょうがないじゃないか、この世界のことはまだまだ理解出来てない部分の方が多いんだから。全然分かんないからな……お前らのその距離感とか…………
「魔王は魔獣を使って人間を攻撃している……と、言い切れるものでもないけどね。ただ、アレの放った魔獣が生息域を人間の街まで伸ばしているから、一方的に倒さなきゃならない敵として認識されている。向こうに敵意があるかどうかは分からないけど……まあ、魔獣が人間を襲うことで魔王に直接の益があるとは思えないし、人間を攻撃することに少なからず目的があるんだろう」
「…………信じ難いけど、事実これまでにも侵略されてしまった廃村を目にしてるでしょう。ああして奪った土地をどうこうするでもない。なんらかの目的で人をさらうこともしない。ただ、私達の生きていられる場所を狭めているだけ。そうすることにどんな意味があるのかは、尋問しようにも言葉が通じないし分かんないのよね」
おい、尋問とか言うな。けど、そうか……魔王っていったら勝手に世界征服とかするもんだと思ってたけど……ううん、そこら辺どうなんだろ。王様が魔に堕ちているんであればそれもまたありえるんだろうけど……魔の王だからなぁ。人間とは価値観が違うだろうし…………分かんないなぁ。
「ま、生き物としてより良い生活環境を求めるのは当たり前だからね。そこはもう人間も魔獣も引くに引けぬ戦いさ。僕らは僕らの生活を守る為に戦う。相手の都合なんて知ったことか。君は優し過ぎるからね、あんまり考えない方がいい」
「……なんとも腑に落ちない答えですね、それまた」
生意気な! と、ニコニコ笑いながら抱き締められた。ちょっ、今びちゃびちゃだから! 冷たいですよ! 風邪引きますよ! あっ……ああっ…………水に濡れて風に冷やされた体に、マーリンさんの人肌の温もりが…………いや、日光に暖められた暗い色のローブの温かみか、これは。うう……なんでもいいけど…………あったかい……気持ちいい……
「あっ! こら! そこは私の! マーリン様っ! 私も! 私もーっ!」
「あはは。よしよし、おいで。君達は可愛いなぁ」
ちょっと……今突っ込むだけの余裕ないから……変なこと言わないで……はふぅ。ミラに押し退けられる形でマーリンさんの拘束から逃れると、悲しいかな心の底から惜しいという感情が湧いてきてしまう。うう……いかん、虜にされつつある。いや、もうなってるのか……? うぐぐ……それが嫌じゃない自分がいるのも問題…………っ
「ふふ……ほら、もう行こう。あんまり濡れたままだと風邪引いちゃう。ミラちゃんは彼の能力があるからね、ウィルス性はともかく体力低下に伴う体調不良は起こらない。でも……君の大切なアギトはどうかなぁ?」
「っ⁉︎ 急ぎましょう! ほら、アギト! もっとちゃんと体拭いて! お腹のとこにタオル詰めときなさい!」
急にどうした、お母さんか。しかし……そうか、ミラは風邪も引かないのか。ウィルス性はともかく……って言い方は引っかかるけど。僕も僕でミラを心配するのだが、ミラはまだまだそれ以上に僕を心配してくれるらしい。ま……この旅の間にも何回か体調崩してるしな。ふたりには迷惑かけてるし……言われた通りタオルお腹に巻いとくかぁ。
「へっぶし! ううー……ぶるぶる。いかん……そんなこと言ってたら寒くなってきた……」
「あはは……病は気から、だね。ここから街まではすぐだ、宿に入ったら温まるものを作ってあげるからそれまでの辛抱だよ。あ、それとも僕のローブ、一緒に入る? 暖かくすることも出来るよ?」
え⁈ それ冷やすだけじゃないの⁈ 冷暖房完備なのっ⁉︎ ズルイ! じゃなくって! そんなとこ入れるか! 分かっててやってるの、こっちも分かってるからな! もっといい湯たんぽがあるんでとその誘いを断りミラを抱きかかえると、何が今更気に障ったのか抱き着いたまま噛み付かれてしまった。痛い! けど暖めてはくれるのね。良い子だなぁお前は……あったかぁい…………ぬくぬく。




