第三百二十三話
今朝も今朝とてミラは僕の頭を抱きかかえて眠っていた。うーん…………これは……あれか? 勇者様の力とやらで調子に乗ってるか? 大方これで守っているつもりなんだろう、親犬や親猫が子供を覆い隠すように眠るのと同じだ。
「……甘えん坊も卒業が近いのか。それともこの甘え方が今こいつの中で流行っているのか。はてさて…………起こさないとな……はあ」
何はともあれ、今朝は街を出るのだ。あんまり長いことぐーすかやってられない。手の届きにくい位置でぐるぐるといびきをかいているミラを無理に引っぺがすと、やはり甘えていただけらしく、不機嫌そうに目を覚ましてそのまま二度寝を目論んでもたれかかってきた。
「起きろっての。勇者様が泣くぞー、枕元に立たれるぞー。こんな怠け者に力を渡したつもりはなかったー、って」
「…………んん…………ふわぁ……んむ…………んん、もうちょっと……だけだから……」
もうちょっとじゃないんだよ。何度突き放しても抱き着いてくる姿に、そのうち僕の理性が負けてしまいそうだ。うう……うちの妹は可愛いからなぁ。わざとあざとく振る舞っているって分かっていても騙されてしまう。でも今はそういうわけには…………そういう……わけには…………
「…………しょうがないなぁ。じゃあ背負ってってやるから、ほら」
「……うん…………むにゃ……」
本当にダメなお兄ちゃんだと思う。でもしょうがないじゃない、まだ眠たいんだって言うんだから。よじよじと背中を登ってくるミラの小さな手が顔の前で繋がれた時、ふとその腕の綺麗さに恐怖を覚えた。まあ! なんで綺麗な肌だろう! 恐ろしいほど芸術的だ! とかではない。
「……ミラ……やっぱり…………って、もう寝てるのか。どんだけ眠たいんだ、まったく」
確かにあの白衣の男に折られた筈だった。それだけじゃない、これまで何度も何度も激しい戦闘をくぐり抜けてきた。初めて会った時、既にこの手は随分と荒れていた。誰かの役に立ちたくて頑張っていた証だった。初めて戦っている時の姿を見た時、同時に全身をボロボロにされて横たわっている姿も見た。それからも何度も何度も…………何度も何度も何度も何度も、僕を守る為に数え切れないほどの魔獣と戦ってきた。硬い皮膚も骨も甲殻も……鱗も。何もかもを突き破ってきた脚は勿論、腕も顔も、本当に全身が傷跡だらけだった。
「…………ミラ…………お前はさ…………」
それで本当にいいのか。その言葉は飲み込んだ。起きていたらどうしよう、じゃない。この言葉を吐き出して、それで僕はどうなってしまうのだろう。それが怖かった。傷が残らないのなら、女の子のミラには望ましい能力なのだ。整った顔にきめ細やかな肌。綺麗な髪も、細く白い指も。傷だらけより綺麗な方がずっといいに決まっている。だから……それを無かった方が良いなんて思うのは、ただの僕のワガママなこだわりである気がしたから。ただの女の子であって欲しいって、そんな身勝手な理由で今のミラを否定してはいけないんだ。
マーリンさんと合流すると、なんともまあニヤニヤとした顔を近付けられた。この人は本当に残念だよなぁ。良い匂いもするし、スタイルもこう……とてもよろしい感じだし。人柄もいい……ちょっと人使いが荒いんだろうなって片鱗は窺えるけど。でも本当に優しくて……暖かい人だ。
「…………どうしたのさ、そんなに僕のこと見つめて。ははーん。さては、お姉さんは本当に美人だなぁ! 抱き締めて貰いたいなあ! なんて考えてるんだろう」
「…………ぐっ……違うけど…………全部は否定し切れない……っ」
その素直さでもう一歩踏み出せばいいのに。と、ちょっとだけ寂しそうな顔で言われた。しょうがないだろう、本当に美人だし抱き締めて貰えるもんなら貰いたいし、なんならこう…………これはやめておこう。それはさておき、だ。
「…………マーリンさん、そこら中傷だらけだなって。近くで見ると古い傷跡も残ってるし……やっぱりキツイ旅だったんだなぁ……って」
「うぐっ……あ、あんまりそういうとこ細かく見るのは勘弁して欲しいかな…………僕ももう若くないのは自覚してる。ミラちゃんみたいな子と比較すると、流石にお肌が……」
いや、それはまだ大丈夫です。慌てて顔を隠しながら遠ざかるその姿は、およそ十代の若者にしか見えないものだった。そんな彼女に付いている新しい傷は、以前立ち寄った村で見えない魔獣を相手にした時の切り傷だろう。首や頰、それに手の甲にミミズ腫れが出来ていた。治癒魔術なのか化粧品の力はなのか分かんないけど、かなり薄くはなっている。が、とはいえやはりそう簡単に消えやしないのだ。だからやっぱり……ミラの腕の異常な綺麗さに不安になってしまう。ミラが人間じゃなくなってしまったような気分とでも言おうか。
「…………ミラちゃんのこと、だね。安心しなさい。この力があっても、彼は最後まで人間らしく居てくれた。いや……まあ、そうだね。こんな力を持っているのに普通の人間のように振る舞っていたというのが、むしろ人間らしさを損ねているとも言えてしまうのかな」
「……今はまだ、こいつが怪我しても大丈夫だってくらいにしか認識してないですけどね。そのうち俺の感覚も麻痺してきちゃうのかなって思うと……いつか無理させそうで……」
本当に君はミラちゃんのことが好きだね。と、呆れたように笑われてしまった。そうだよ、この世界で一番大切なんだ。アギトにとって唯一の家族、最大の繋がりなんだ。他の誰より……そう、それこそロイドさんやゲンさん、エルゥさんだって。オックスやマーリンさんですら届かない、それくらいミラは僕の中で特別なんだ。
「…………んむぃ……んー…………ぐぐぐ……ふわぁ。むにゃ……」
「ん、起きたか。ほら起きたんなら降りろって。顔拭いて襟もちゃんとして。髪梳かしてやるから」
まだもうちょっと、とかごねるかななんて思ったが、流石にマーリンさんもいるしもう出発するのは理解しているのだろう。渋々……本当に渋々、不服だが仕方ないといった面持ちで僕の背中から降り、今度は僕の前に回り背中を向けてブラッシングを催促してきた。犬かこいつ……
「本当にそれで勇者になれるのかぁ? まあ……やってやるって言ったからやってやるけどさ」
「ん……んふふ……えへへ、アンタちょっとずつ髪梳かすの上手になってきたわね。昔髪を結んで貰った時は本当に下手くそだったのに」
やめろ、そんな恥ずかしい思い出を引っ張り出すんじゃない。あの時はまだミラの距離感にも慣れてなかったっけなぁ。ちょっとだけセンチメンタルに浸りながら頭を撫でていると、マーリンさんが変わって変わってとせがんできた。こいつもこいつで……
「んっ……んへへ……マーリン様上手…………えへ…………ふや…………むにゃ……」
「おーい! 寝るな! あと俺のやつ実はあんまり気持ち良くなかったか⁈ ごめんって、練習するから!」
そんなに蕩けた顔でうたた寝しないで! うう……上手になってきたって言ってたけど、まだヘタッピなのか……? マーリンさんが櫛を手にして十数秒でミラはまた夢の世界へ逆戻りしそうになっている。っていかん、寝かせたらまずいんだってば。
「はい、マーリンさんもしゅーうりょーう。ダメダメ、お楽しみはまた今度ね。まったく……ミラのお世話は俺の……」
「お世話って……アンタねぇ。いつから私はアンタの手を借りなきゃ生活出来なくなったのよ」
いや、絶対生活出来ないだろ。一緒にいるとかじゃなくてもう生活の一部に組み込んでんだから。いや……そんな下手なこと言って、もうくっついて寝ないから。なんて言われようもんなら心が折れるから言わない、言えないけど。
「あはは、でもアギト抜きのミラちゃんは想像出来ないなぁ。反対も然りだけどさ」
「むー……マーリン様まで……もう」
怒らないで。と、マーリンさんは頬を膨らませて拗ねるミラを抱き締める。こらこら、今さっき寝かせるなって言ったばかりだろうに。そんな僕の訴えのこもった視線に気付いたのか、ぎゅうと抱き締めるのではなく、頰や首、頭を撫で回す方向にシフトしてくれた。あれだよ、あれ。大型犬にやる可愛がり方だよね。
「でへ……髪の毛ふわふわだよねえ、綿毛のようだよ……」
「えへへへ……マーリン様はスベスベしてますよね。サラサラしててツヤツヤしてて……えへへ」
おいおい、いつまでいちゃついてるんだ。いつまででもいいぞ、その代わりフィルムに収めさせてくれ。ではない。そうか……いつもこんな気分で見てたんだな、オックス。ごめんな、気付けなくって。ほら、もう行きますよ。なんてマーリンさんに声をかけるのが先か、マーリンさんが僕の視線に気付いてごほんと咳払いをするのが先か。ともかくミラは、なでなでが終わってしょんぼりしてしまった。僕らはふたりして、しょうがない子だなぁ。と、またちょびっとだけ頭を撫でるのだった。ダメな大人だ…………っ。
「えへへ……じゃあまた北ですね。集いのこと、馬車のこと。それにフィーネのこともきちんと調べながら進みましょう」
「……ありがとう。でも、忘れてくれてもいいのに」
まさか、そんなこと出来るわけないでしょう。と、僕とミラは顔を見合わせて声を揃えた。だってあんなに寂しそうに、不安そうにしていたじゃないか。それだけ大切な梟だって言うのなら……大切な仲間の大切なものは、勿論僕にとっても大切なものだから。ミラには及ばなくとも、彼女は僕の中の大切な人ランキングのトップを争う大本命だからな。あれだ……大きな声では言えないけど…………ストライクゾーンど真ん中だから、見た目は。
「それじゃ、くれぐれも無茶しないように。僕も気を付けるから、ふたりも、ね」
「はい! 行きましょう!」
僕らはまた北へ向かう。この先にはいったい何があるのだろう。出来ればもうそろそろ王都があると良いんだけどね。そして……叶うなら、もう魔人の集いが僕らの目の前に現れないと良いんだけど、ね。




