第三十二話
足取りは依然重たいものだった。師弟の再開に水を差すつもりは無かったし、本当に嬉しそうな彼らを見て僕も悪い気分になどなる筈もない。だがそれ以上に、彼女の安否が気掛かりでならない。明るい表情で一緒に走っている五人が、どこか遠い存在のようにすら感じられた。
「……さっきも言ったがそう気負うな。嬢ちゃんは些か無茶が過ぎるとは俺も思うが、無茶出来るだけの力もある」
「……わかってるけど…………」
一度イメージしてしまった最悪の光景が拭い去れない。彼女に限って、とか。彼女なら、なんて。考えれば考える程、胸が締め付けられていった。
「……オイ野郎ども! 急ぐぞ! 姫様だけは死んでも助け出せ!」
ゲンさんは縮こまっていた僕の背中を叩いて、更にペースを上げて走り出した。わかっている。彼も彼なりにミラのことを案じてくれているし、本気で助けようという心構えでいる。彼は彼の目的の為だけを達成して、彼女を見捨てる様なことはしないとわかっているのに……
それからも僕達はひたすら走り続けた。四人から聞いた話では、僕らと同じく迷路の中をぐるぐると走り回らされて、疲れ果てた頃になって引き入れられるみたいにあの部屋に辿り着いたという。もしかしたら、彼女も同じ様な部屋で大型の魔獣と戦っているのかもしれない。
「とにかく、魔女さんは俺達を閉じ込めて殺すって趣じゃないみたいだ。あくまでも生かして、疲れさせて、戦えなくなってからあのクソガエルの餌にしようって魂胆だろう」
もしそうなら本当に悪趣味な魔女だ。さしずめこの洞窟に飛び込んだ時点で丸呑みにされていたのだろう。あとはゆっくり溶かすだけというわけだ。“蛇”の魔女の名に恥じぬ残忍さだ。
励まし合いの言葉も少なくなった。行けども行けども部屋どころか分かれ道すらなく、無尽蔵に湧いてくる魔獣を倒しながら進み続けてもうどれだけ経ったのか。焦る気持ちとは裏腹に、息は切れるし足も重い。なんでもないような段差に蹴つまずく回数も増え、滑る足下に奪われ体力も底をつきかけていた。
「…………っ! 明かりだ! 部屋かもしれねえ!」
ゲンさんの言葉に、地面しか映さなくなって久しい視界を前に向けた。確かに、そこにはさっき通った部屋への入り口と似た景色が見える。
落ちていたペースを上げた五人に必死でついていこうと、顎を上げて思い切り地面を蹴る。もうすぐそこ——五十メートルも無い距離の筈なのに、何かに後ろから引かれているかの様に遠く感じながら、やっとの思いで部屋の中へ飛び込んだ。
「…………嬢ちゃんっ!」
彼の叫びが聞こえたのは、その光景を目の当たりにする直前だった。広いだけの何も無い空間の真ん中で突っ伏している少女の姿を、描いていた最悪の光景を。目にしたのは——誰もが黙ってしまってからだった————
「…………ミラ……?」
酸欠で霞む視界の中、その姿だけははっきりと見える。白い肌は至る所が裂けて血を流し、明るい栗色の髪は毛先を焼き焦がされた様に黒く染め、穏やかな表情で彼女は倒れている。
「——ミラッ! ミラぁッ‼︎」
僕は脇目も振らずに駆け寄った。さっきまであんなに重たかった足が嘘みたいに前に進む。鼓動の音だけが頭の奥からガンガン鳴り響いて、痺れて感覚の無い手は触れた彼女の体温さえ感じられない。視野もどんどん狭くなって——僕は彼の叫び声を聞き取ることが出来なかった。
僕が初めに抱いたのは、生暖かいという温度に対する感覚だった。次に、強い力で突き飛ばされたという衝撃を。彼女を抱いたまま部屋を転げて、視界の中にそれが映り込むまで何が起きたのか——何を引き起こしてしまったのかを理解し得なかった。
「——先生————っ!」
最後に得たのは、聴覚からの情報。四人の若者が師の名を呼ぶ、悲痛な叫び声の音。鱗に覆われた太い尻尾に貫かれ、だらりとその手足をぶら下げるゲン老人の姿を見つめる彼らの姿に——僕がしでかしたことの重大さに、ようやく意識をはっきりさせる。
「——ッ‼︎ ゲンさんッ‼︎」
彼の腹を貫いていた尻尾がずるりと動き出し、するすると天井に向かって戻っていく。僕がそれを尻尾だと判断した理由が天井に、正確には天井から吊るされたシャンデリアのような燭台に絡みついていた。
「——あぁ————クソッタレめ——」
「はじめましての挨拶はもう必要無いわね。代わりに言わせてもらいましょう——」
ガパっとそれは顔を半分に割い、てゲンさんにゆっくりと迫っていった。鱗に包まれた肌と冷たい瞳。大きく開かれたその顎と鋭い牙、そして伸びる舌に確信を得る。これこそ蛇の魔女————
「やめろ! 離れろ‼︎」
オックスと言っただろうか。ブロンドヘアーの青年がボロボロになった剣を振りかぶって魔女に向かっていくのが見えた。魔女はそんなこと意にも介さずゲンさんを丸呑みにしようと口をどんどん大きく開いていく。バキバキ、ゴキゴキと骨格が彼を飲み込むための変化をしている音がした。続いて飛びかかった三人も纏めてその太い尻尾で薙ぎ払われる。
「やめろ…………」
僕は……震えているだけだった。動かなくなった彼女を抱いたまま、ただその光景を見ているだけだった。
やめてくれと心で叫んだ。彼から離れろと頭の中で飛びかかった。戦う力が無いのだからと、仕方が無いと。そんな言い訳を、心の奥底で何かが繰り返す。
熱を感じた。手の甲に触れる暖かい感触があった。それがなんなのかは今となってはわからない。僕は既に魔女の懐に飛び込んでいたのだから。
「——ッッ! うぁああああ‼︎」
握りしめた短刀を魔女めがけて振り下ろす。だが、その刃は鱗の一枚すら傷つけることなく、僕の体は宙に舞った。脇腹を鈍痛が襲う。尻尾だ。彼ら同様、僕もあの丸太の様な尻尾に薙ぎ払われたのだ。
「クソっ! クソッ! クソ——ッッ‼︎」
二度目の突進は振りかぶることも出来ぬうちに叩き伏せられ、起き上がりざまをまた吹き飛ばされた。ブチっとなにかが千切れたような音がした。軽くなった腰の辺りに、ポーチが千切れ飛んだのだと理解した。足は付いている。動ける。戦える。なら繰り返す他にない。たった一撃でもこの刃を突き立てるために——
『——穿つ雷電————』
女の人の声が聞こえた。そしてそれはすぐにバケモノの悲鳴にかき消される。振り抜くのではなく突き立てようとしたナイフは、バチバチと音を立ててスパークする。
「——先生‼︎」
地面に叩きつけられたゲンさんの元にオックスが駆け寄り、すぐに四人揃って彼を担いで魔女から距離を取っていた。魔女、そう魔女だ。さっきまで僕らなどには一瞥もくれず、ただ彼を喰らおうとゆっくりその骨格を捻じ曲げていたあの化け物。たった今悶え苦しみながら右目を抑えてこちらを睨みつけている強者の額からは、赤黒い血が流れ出していた。
「何——ヲシタ、貴様ァ!」
さっきまで流暢に喋っていた時の品のある女性の声の様な音ではない、人間の声に寄せて発せられているだけの異音で魔女はそう言いながら僕に向かってまた太い尾を伸ばしてくる。
「——お生憎様。形成逆転ね————」
尾は僕に届こうかというところで、七度に渡って輪切りにされた。断面は焼け焦げ、その悍ましい血液すら流さず周囲に落下する。
「揺蕩う雷霆——」
言霊は轟音に変わり、暴風とともに稲光が魔女の首元にその矛を突きつける。
「——部屋に穴を空けたのよね。圧力を——渦の目をズラす為に————私の後ろ、お前と私を一直線に繋ぐ様に——」
「……オまエ……ッ‼︎ 動けル筈ガ——」
雷光は部屋全体を包み込み、その姿を僕が捉えることはなかった。だが確信を持って言えることがある。それは——
「——なら直接叩き込めば関係無いわよね‼︎ 私の腕が焼け落ちるより先に————ッッ‼︎」
目も耳も利かないが、確かに感じる。彼女は最大出力を叩き込んでいる。部屋全体が砕けて落盤しかねない程のエネルギーが、たった今少女の腕からバケモノの喉へ突き立てられているのだ。
断末魔は聞こえなかった。或いは上げていたのかもしれないが、そんなもの雷が落ちる音にかき消されただろう。せっかく綺麗な髪をバサバサにして、勝者は焼け焦げた地面の上にへたり込んでいた。
「ッッッ! ミラッ‼︎」
もう何度目かもわからないが彼女の名を叫んだ。歓喜に舞い上がって僕は駆け寄って彼女に抱きついて——
「…………ッ‼︎ 今は駄————」
バチンッ! と、季節外れで規格外の静電気に僕らは見舞われた。