第三百十八話
お店に着くと、そこにはお休みだった筈の花渕さんの姿があった。そして……そんな彼女に、歯医者に行って心と歯の表面を削られたばかりの僕は、更に心の一部分をも削り取られることとなる。
「おはよ、アキトさん。ちゃんと働いてるか抜き打ち調査に来たし」
「…………な…………なんで……っ」
なんで。って……そりゃあ……と、なんだか花渕さんは驚いた顔で言葉を濁した。違う、僕が聞きたいのはなんでここに来てるのかって話じゃあない! なんで…………っ。なんで……っ!
「なんで…………髪…………うう、花渕さんが不良に…………っ」
「いや、そもそもおっさんと初めて会った時から抜いてたし。ってかなんだそれ、おかんか。誰目線だよ」
そこには、頭頂部から耳のあたりまで髪色が黒に侵食されつつあった花渕さんが、それに抗うかのように……ライトブラウンって言うの? こう…………またまあなんとも明るい髪色に染め直して立っていたのだった。ぐすん……絶対似合うのに……黒髪清楚…………
「流石に接客業だし、いつまでもプリンじゃカッコつかないじゃん? かといってまた金ってのも芸が無いし。秋っぽい色合いにしてみたんだけど」
「…………あっ、なになに? えっ? もしかして髪染め直したから見せに来てくれたのっ! いやあ、でへへ。なんだか嬉しいような恥ずかしいような……」
なんでいちいちおっさんに見せびらかしに来なきゃならないんだし。と、冷酷無比な一撃で斬って捨てられた。分かってますぅ! 別に用事があったことくらい分かってますぅ! 昨日のお休みに髪染めて、それはそれとして別件で今日来たってことくらいは知ってますぅ! ぐすん……そんなに強く否定しなくても…………
「……ってか、アキトさんまだ黒髪によく分かんない幻想抱いてんの? あんなもん男何人も連れてる性悪以外やらないっての。今時流行んないし」
「うわぁん! そんなこと無いやい! きっといるよ! お淑やかな大和撫子がどこかにいるよぅ!」
花渕さんはおろか店長までドン引きだった。や、やめてよ……そんな顔しないでよ……っ。言われてみれば、あっちの黒髪美人もなかなか強かというか……男を手玉にとっているというか。いや、手玉に取られてんのは僕だけかもしれないけどさ。でも…………やっぱりいいじゃん、黒髪清楚。
「…………ところでその……髪型も変えた? 気のせい?」
「お、アキトさん赤点回避―っ。女の子が髪型変えたらちゃんと気付くこと、ギリギリだけど合格じゃん」
あっ……どうしてだろう、胸がキュンってした。なんだろう、このトキメキにも似た感情。ああ……これって…………
「……赤点回避って言葉にとても安心してる自分が居て悔しい……」
「ま、優等生ってわけでもないからね」
いえ、そういうんじゃなく……そういうのもあるのかな。こう、あれだよ。赤点回避って言われた時点で……あ、怒られなくて済むな、って。とりあえず落第は避けられたんだ、って。すっかり花渕さんの犬です、ワン。無意識な感情にまで刷り込まれている…………ッ!
「ほら、飾り付け考えなきゃいけないでしょ? 最近忙しい日も増えたし、手隙で作れる物なら今のうちに作っちゃおうと思ってさ。忙しい忙しい言ってる間に時間は無くなってくわけだし」
「うっ…………あはは、なんて言うか……僕ら大人ももうちょっと頑張らないとだね、原口くん」
僕に振らないでくださいよ。店長はどうだか知らないけど、僕は花渕さんがここに来て以来ずっとそんな感じだよ。ずっと劣等感というか…………威厳も何も無いというか。凄い子が入って来たなぁ、僕クビにならないかなぁ。なんて考えてばっかりなんだから。
「……はあ。まあ、今更でも意識はしっかり持ち続けないとだよね。花渕さんに頼りっきりじゃ意味無いもんね」
「ん、なんか殊勝なこと言うじゃん。アキトさん、ちょっとずつ頼もしくなってくよね。いやいや、それもこれも私の指導の賜物かな」
そうやって否定しきれないこと言うのやめてよ。そうですよ、花渕さんがいなかったら、多分まだレジ打ちとか全然ポンコツなままだったよ。というかポンコツでもなんの支障も出ないくらいお客さん少ないままだったと思う。店長も頑張ってるからあの時のままだなんて思わないけど、それでも彼女の働きがなければもっと時間が掛かっただろう。ううむ、そう考えたらやっぱり……
「……ぐっ、やっぱり否定出来ない。必死に考えたけど、どうあがいても花渕さんのお陰で成長した感じになる……」
「ぷっ。いやいや、そんな本気に取らないでよ。冗談だって冗談。ジョークですよ、アキトさん」
だってぇ……ぐすん。そりゃあのバカ妹の功績もバカデカイよ? 僕の今があの最悪からここまで持ち直した根本的なきっかけはアイツだもの。でも……それでも、やっぱり兄さんと母さんの為に頑張ろうって始めて、頑張り方を教えてくれてるのは花渕さんだ。うん、やばい。考え始めたら感謝で胸がいっぱいだ。これを……まっすぐ伝えたら、やっぱりからかわれるかな? 根はまっすぐで良い子だし、ちゃんと聞いてくれるかな? うん、でもやっぱり…………
「……じゃあ、せっかくオシャレしたことだし、デンデン氏にメール入れとくね。今日もまた行くからって」
「な——っ⁉︎ べ、別にいいよ! そんなわざわざ……見せに行くもんでも…………無いじゃん……」
からかわれる前にからかってしまえ。はっはっは、デンデン氏が有効打になる間は幾らでも活用していこう。ちょっとだけ短くしてくるんとなった毛先をイジイジする花渕さんに、優越感よりも虚無感がこみ上げてきた。はあ……ほんと虚しい。めっちゃ虚しいってか悲しい。僕なんてまだたまにおっさん呼びされるってのに、デンデン氏ばっかり…………ぶつぶつ……
「……ま、でも今日はもともと行く予定だったし。前に言ってたでしょ、敵情視察ってね。別にお客さんを取り合う関係でもない気はするけど、取り入れられそうなとこは取り入れてかないと。アキトさんはなんか軽く見てるけど、あのお店結構有名だからね? 閉店間際だからあんだけ好き勝手やれてるけど、早い時間とかすっごい混んでるから」
「あっ、早い時間にも行ってるんだ。もうすっかり入り浸ってるね」
おっと、勝手に自爆したぞ。それもかなり盛大に。花渕さんは僕のスマートでインテリジェンスな切り返しに、火でも吹くんじゃ……ってくらい顔を真っ赤にして俯いてしまった。あら、あらあらあらぁ。でへぇ……可愛い反応するなぁ。これがなあ……あの男が絡んでさえいなければなぁ。はあ……
「と、とにかく! お客さん来るまでしっかりレイアウト考えるし! それから新作と子供用の企画もちゃんと詰めてかないと! 時間無いよ! おっさんどもが思ってるよりずっと!」
「はーい。秋っぽい季節限定品ってことなら、ついこの間良いサンプルをいっぱい見て来たからね。パクって……もとい、参考にして良いかもきちんと了承を貰ってあるから、試せるものは試してみよう」
朝早くから元気いっぱい、板山ベーカリーの三人の和気藹々とした声は、すぐさま怒号と謝罪の応酬に変わった。勿論、フレッシュで可愛らしい怒鳴り声と、もうすっかりハリの無くなった情けない陳謝なわけだけど。あの……僕はともかく店長までボロボロにされてるのはどうして……?
目が覚めたのは午前三時のことだった。いい加減慣れないものか。と、通知の来ていないメッセージボックスを見る。そして……寂しさからついつい過去のやり取りを遡ってしまう。マルッペ氏、鬼龍氏、それに最近は疎遠気味になってしまってるギルドの仲間達。いろんなゲームの仲間達。そして……最近一番やり取りが多いアギト氏。
「…………寂しい……寂しいでござるぅ…………どろしぃたそ〜……」
一番キャラクリが精密なクラサガを起動してキャラクター選択画面に移行する。けれど、どろしぃたんは今はプレイ出来ない。アギト氏が何か……嫌なことがあったんでしょうな。ミラちゃんと遊ばなくなったから、拙者も出来ればそれに合わせていたい。ほら、どろしぃたんを見てミラちゃんのことを思い出して。それでちょっとでも嫌な気分が戻ってしまったら……そんな最悪な展開は御免こうむりますからな。
「仕込みしなくちゃでござるよぅ……寒いでござるぅ…………助けてどろしぃたそ…………」
どろしぃたんはここにはいない。ここはデンデンではなく田原伝助が頑張らないといけない戦場なのだから。最近アギト氏も来るようになったし、かっこ悪いところは見せられないんですな。第一、美菜ちゃんが来ますし。ああ……うう…………今からもう胃が痛いでござるぅ。どうしてあんな美少女が拙者に懐いてしまったでござろうか。理由は単純、拙者とあの子は同じ志を持つ仲間であったからですな。
「ふんふーん…………戦う勇気〜……勝ち取れ未来〜……デュフッ」
自分の音痴っぷりについ吹き出してしまいながら、拙者は今日もせっせと戦う準備をする。林檎を煮て、クリームを作って。昨晩仕込んでおいた生地はどんな様子ですかな? これでべしょべしょだったら…………秘技、試作品検討のため青森へ行ってきますの看板を立てる、しか方法はありませんな。お願いどろしぃたん! 今日も美味しいケーキのために良い生地を作っておいて! いえ、作ったのは昨晩の寝不足の拙者なんですが。
「…………どろしぃたそ……」
流石にもう生地作りをそう酷く失敗するなんてことも無くなりましたな。理想にはほど遠いので、まだまだ……まだまだまだまだ精進が必要ですなぁ。いやはや、あの時食べたあの味にはいつになったら辿り着けるのやら。ヘルプミーどろしぃたそ〜っ!




