第三百十話
重たい。苦しい。ああ、はいはい。なんだか嫌な汗をかきながらの起床にもちょっとだけ慣れた。慣れてしまった。
「…………あぐ……んむ、起きた」
「……お気に入りなの、そう……」
早起きしたら、僕にまたがって首を噛まないと気が済まないらしい。ミラは今朝も僕のお腹の上で、満足げに人の首元を齧っていた。起こさないようにと優しく噛んでくれているのだろうか、その辺の配慮だけはありがた…………くない! お腹の上は苦しいんだって!
「猫じゃないんだから、降りなさい。ほら、もう……」
「んーっ。んふふ……おはよう」
はい、おはよう。ミラはちゃんと挨拶出来るいい子だねぇ。ではない。意地でも離すまいと食いついたままのミラを抱きかかえて、ゆっくりと体を起こす。最近こんなのばっかりだ。髪梳かしてやるからと言っても離れないから、仕方なく抱き締めたまま手櫛でボサボサに散らかった髪を綺麗に整えてやる。すると、それはそれは気持ち良さそうにグリグリと…………ああっ! こら! そんなにグリグリしたらまたボサボサになるでしょうが!
「……大丈夫だよ。あいつを許す気は無いけど、それでも引きずる気も無い。ありがとな」
「……ん。こっちこそ、ありがとう。アンタ、私の為に怒ってくれるばっかりね。たまには自分のことでも怒ったらいいのに」
よーし、じゃあ今から怒るからな。なんて冗談を言うとミラはきゃっきゃとはしゃいで僕のそばに転げた。なんだよ、お腹撫でろってか。怒るって言ってるのに、しょうがない奴め。お仕置きが必要だな。
「うりゃうりゃ。朝からわがまま放題な悪い子にはお仕置きだ!」
「んふっ……あはは! くすぐったい!」
コロコロと逃げるように転がるミラをベッドの端まで追い詰めて、さっきとは逆に僕が馬乗りになってミラのお腹やら脇腹やらをくすぐった。ああ……むかし、クリフィアで眠りこけていたコイツを起こす為にも似たようなことしたなぁ。あの時と違って反応があるから、ついつい楽しくなってしまう。楽しくなって……
「…………? ミラ。お前、お腹の傷もう治ったのか……?」
「はひぃ……ふう……へ? お腹の傷?」
暴れてはだけたシャツの下に見えるミラの白いお腹には、いつか魔蠍に貫かれた筈の傷跡が見当たらなかった。治ったとか治したとかそういう話では無い。傷があったという痕跡すら見当たらない、すべすべで綺麗な白い肌がそこにあった。
「ん……? ほんとだ。まあ、昔から傷の治りは早いのよね。昔の私も知らないところで、お姉ちゃんかダリアが何か術式を施してるのかしら」
「昔の……か。体力お化けだとは思ってるけど、こんなに綺麗サッパリ無くなってるのはちょっとだけ気味が悪いな。ペンで傷跡描いとくか」
どうしてそうなるのよ。と、ミラは呆れた顔でしつこくお腹をつっつく僕の指に噛み付いた。いや、しかしお前…………か、可愛くない腹してんなぁ。もっとぷにぷにもちもちで柔らかそうな腹してろよ。少しだけ割れた腹筋と、あんなに食べているにも関わらずうっすらと浮いているあばらや筋に、そんな感想を抱かざるを得ない。まあ、食べてる量がそのまま反映されてお腹が出てるよりは……いやぁ、お腹出てる方がマシか。子供らしくてその方が可愛らしい。
「…………ねえ。いつまで人のお腹触ってんのよ。なに、そういう趣味でもあったの?」
「おバカ。人が心配してんのに。しっかし、あれだけいつも激しく暴れ回ってるのに、本当に傷ひとつ残ってないのな。やっぱり誰かがなんらかの魔術を使ってるって説が濃厚か」
私もその魔術使えたらいいのにね。と、ちょっとだけしょんぼりした声で言ったミラの目は、寂しそうに僕の体へと向けられていた。腕、脚、顔。服で隠れて見えない場所には、もっと多くの傷がある。それこそ草むらを歩いて出来た小さな切り傷から、見えない魔獣にメッタメタに切りつけられた傷が背中いっぱいに付いている。
「でも、お前に比べたら怪我してない方だよ。守られてばかりで威張れるもんじゃないけどさ」
「そう? 私をかばって出来た傷の方が多いと思うけど。特に大きな怪我は全部そう。いつもいつも無茶ばかりして……」
しょんぼりした顔で僕にもたれかかってくるミラを優しく撫でていると、不意にこんこんと部屋のドアが鳴った。ああいけない、こんな時間だ。急いで帰ってきたってのに、ここでゆっくりしてたら意味が無い。
「おーはーよーう! おやおや、今朝も仲良しだね。でも、普通は仲良しだからって、毎日毎日そうやってくっついてないと思うな。でへへ」
「おはようございます。そりゃまあ、俺とミラは世界一仲良しな兄妹ですから。普通とはかけ離れてますとも」
ねーっ! と、思い切り抱き締めて頬ずりすると、ちょっとだけうっとおしそうな顔をされた。心が砕け散るかと思った。しかし、どうやら僕の抱き着き方の問題だったらしい。グイグイと腕やら顔やらを押し退け、自らベストポジションに収まると上機嫌でまた甘え出した。
「あはは、暑苦しいほどだね。さて……だけどごめんね、そろそろ行こうか。キリエ周辺の調査もまだ終わってない。あまり後手に回りたくないからね、出来るだけ急ごう」
「はい。ほら、降りろミラ。また後でいくらでも撫でてやるから」
流石にマーリンさんの言葉には素直に従うらしい。ミラは名残惜しげに僕から離れ、脱ぎ捨ててあったシャツに袖を通すと、今朝の課題を提出した。マーリンさんの判定を待っている間に、僕も支度を済ませてしまおう。
その後、僕らは手早く朝食を済ませてキリエを出た。もともと立ち寄る予定の無かった街だけに、少々長居し過ぎた感もある。マーリンさんは頻りに周囲を窺いながら僕らの前を歩いていた。
「あの、ミラがいるんだからあんまり警戒しなくても大丈夫ですよ」
「あはは、頼もしいよねミラちゃんは。でも、だからって自分の目で確認することを怠ってはいけない。そういった細かい手抜きが、いつか大ごとを引き起こす。いやはや、身に染みてるからねぇ……」
それは昔の冒険の話? と、尋ねると、今もだよ。と、返ってきた。ミラはそんな彼女の背中に、流石! とか、見習わなきゃ! とか。そんな分かりやすい羨望の眼差しを送っている。これまで随分ポンコツなシーンを目にしても尚、こう純粋な目で憧れられるのは凄いことかもしれない。ミラが、では無く。マーリンさんが。
「……それだけすごい魔術師ってことだもんな。俺には魔力痕も何も見えたもんじゃないから、ただのお節介なお姉さんって感じだけど」
「こら、アギト。今何か失礼なこと言ったでしょう。もう……」
うげ、聞こえてたか。べしべしと背中を叩きながら不服そうに頰を膨らせる妹に、どうしてもジェラシーを抱いてしまう。うう……マーリンさんさえいなければお兄ちゃんが独り占めできるのに……と。だが、彼女がいなければ、あの時アーヴィンでミラは壊れてしまっていたかもしれない。うん、やっぱり必要。お節介万歳、マーリンさん万歳。といったところだ。それはこれからもきっと。
「さてと……うーん、気配も何もあったもんじゃないなぁ。バレてるから白状するけど、ちょっとフィーネが心配だよ。ううん、ちょっとじゃない。すごく心配だ」
「なら、星見の力で探したり出来ないんですか? 未来が見えるなら、どこに行くのかとかは分かるでしょう?」
ペットの捜索なんて個人的な理由で使ってられないよ。と、疲れ切った顔で言われてしまった。もしかして星見って疲れるの? 個人の未来を見る能力って話だし、もしかしたら仕事で見てる分で手一杯だからリソースを割けないとか。
「時間が掛かるからねぇ、未来を視るには。はあ……フィーネぇ……どこ行ったんだよぉ……」
「なかなか堪えてますね……ミラ、お前の鼻でも分からないか?」
ミラは黙って首を小さく横に振った。そっか、ダメか。ごめんな、マーリンさんの前で。しかし……ミラの鼻に引っかからないってことは、ここら辺には本当にいないんだろうな。こんなにヘナヘナになる程心配だなんて、よっぽど大切な梟なんだ。なんとかして手掛かりを探してあげたいけど……
「…………しょうがないよね」
「……? マーリンさん?」
バシンッ! と、乾いた音が響いた。見れば、マーリンさんが両手で自らの頰を思い切り叩いているではないか。くるりと振り返ったその顔は、真っ赤に腫れていながらも、もう迷いの無い表情だった。
「……フィーネはもう死んでしまったと考えよう。魔獣の襲われて食われてしまった、と。たった今目一杯悲しんだから、もう忘れる。それどころじゃないんだから、あの子も分かってくれる」
「……それで、大丈夫なんですか……?」
大丈夫じゃないけど大丈夫。と、寂しそうに笑って、マーリンさんはまた前を向いて歩き始めた。もうどこにも視線を泳がせず、名前を呼ぶこともせず。割り切るってのがこういうことなら……僕にはまだまだ無理そうだ。こんなに悲しそうな背中を見てしまったら、同じ道を選ぶ勇気なんて無い。いくつもあるタスクから梟探しを除外して、僕らはまた王都に向けての旅を再開する。




