第三百五話
この感情が気持ちの良いものじゃないって、嫌なものだってことくらいは理解出来ている。ただ、それでも……僕にはそれを無視するなんてできない。安心感からか、何からかは分からないが、僕のそばで笑みを浮かべるミラの姿を目にすれば、余計にその気持ちが強くなる。
「……これ、アイツが……ゴートマンが…………持ち去ってたってことなんだよな……」
「……? アギト……?」
ぼつりと呟くと、ミラはちょっとだけ不安そうな顔で僕のことを覗き込んだ。ああ、そうだ。これはあの男の仕業で間違いない。あの男が……エンエズさんの工房を、研究を…………
「……守ってた、ってことなのかしらね。アンタのことは随分買ってたみたいだし、魔竜にアンタが来るのを待たせてたのかも」
そうだ。この状況はどう見たってそう捉えるしかない。もしもこれを罠だと思う為には、少なくともあの男の目的を全然別のものにすり替えてしまわなければならない。死してなお術師を恨み続けているのなら、魔竜に食わせてしまえばいい。こんなもの、さっさと魔人の集いのアジトにでも運んでしまえばいい。それでもこうして工房に守人を遣わせ、研究を秘匿していた理由なんて……もうひとつしか浮かばなかった。
「……あの日記の通り、アイツは本当にエンエズさんに協力する為にあんな真似をしたってことなのかしら。なら……アレで案外筋の通った、良いやつだったのかも――っ!」
気付いた時にはミラの肩を掴んで壁に押さえ付けていた。異変に気付いたマーリンさんも、すぐにこちらに駆け寄ってくる。ああ、そうだ。そうなんだよ。これじゃまるで――
「――お前が…………っ! お前だけはそんなこと……言わないでくれよ…………ッ!」
「……アギト……?」
ボロボロと涙がこぼれた。ああ、そんなのは我慢ならない。お前の口からだけはその言葉を聞きたくなかった。そして何より、その結論にだけは至りたくなかった。
「アイツは……ゴートマンは大勢の人を殺した。その中にはダリアさんだっている。俺達だって……何かひとつ間違っていれば死んでいた。なのに…………一番辛い思いをしたお前が、あんな奴を許すようなこと言うなよ……っ!」
ミラは僕から目を背けなかった。それは抵抗でも、慰めでも無かった。真っ直ぐで力強い目をしていた。ああ、そうだ。コイツはきっとあんな奴でも許せてしまう。そこにのっぴきならない事情があったのなら、たとえ大切な家族を殺した相手でも許せてしまう。自分の心を圧し殺してでも、他人を尊重することを優先してしまう。それで自分が苦しむことになっても、どんなに下らない理由だったとしても。そこに正義を感じてしまったらこいつは……
「……分かってる。アイツが実はいい奴だったんじゃないか、なんて。そんなうまい話がある訳もない。ダリアのことも、大勢の術師のことも、絶対に許せない。でも……それでも、私は人を信じたい」
「……っ! それが……自分を殺そうとした相手でもかよ……っ!」
ミラは黙って頷いた。分かっていた。だからこそ憧れた。人の清濁を合わせて飲み込む器の大きさを、それの意味を履き違えていたとしても、その真っ直ぐな生き方をするコイツに……憧れたから……
「……アギト。君もちょっと難儀な家族を持ったものだね」
「マーリンさん……」
ポンと背中をさすられた。暖かい、小さな手だった。振り返れば、そこには困った顔で笑うマーリンさんの姿があった。この人もそうだ。あの男の過去を知っている。道を踏み外す前のレイガスという男を。でも……やっぱり僕は……
「…………やっぱり、無理です。マーリンさんが、ミラが。みんながアイツを許したとしても、俺には無理だ。みんながあんな奴にも良い所があったなんて言うのを、涼しい顔してなんて見ていられない! 俺にはアイツを許すことなんて…………っ?」
マーリンさんはポンポンと自分の胸を軽く叩き、そして両手を広げて微笑みかけた。
「ほら……おいで」
「おいで…………って……」
鈍いなあ。なんて笑ってじりじりとにじり寄ってくるその笑顔には、なんだかこう…………騙されてはいけない空気を感じた。あ、あれ……? ちょ、ちょっと待って欲しい。今、僕結構シリアスというか…………あれ⁈ え? 今これギャグパートでしたっけ⁉︎
「なんだよぉ、いっつもミラちゃんのこと羨ましそうに見てるから、君もギュってしてあげようと思ったのに」
「なっ⁉︎ み、見てないですけど⁉︎ そんな羨ましとか……は、はあっ⁉︎ 全然そんなの…………じゃなくって! 俺は割と真剣に……」
両頬に熱い痛みが走った。マーリンさんが広げていた両手でビンタするようにそのまま僕の顔を挟んだのだ。そして……また、今度は無邪気に笑った。
「……アギト、何度も言うぞ。君のその感情は何も間違っちゃいない。君はそれで良い。君がミラちゃんの痛みを慮ってくれるから、ミラちゃんは君の憧れるカッコいい正義の味方でいられる。大丈夫、君は間違ってない。君も、ミラちゃんも。形は違えど正義の心を持っているよ」
「…………っ。でも……っ。それでも、みんながアイツを許したようなことを言うのは……」
ぶにぃと顔を挟む手をさらに狭められ、そして今度は両頬をつままれて思い切り引っ張られた。いっ、いでででっ! それ! 僕が! ミラにやる奴!
「あはは! いいじゃないか、我慢しなくて。こうやって我慢出来なくなって、吐き出して。いいんだよ、それで。その度に僕が受け止めてやる。ミラちゃんだって絶対に放っとかない。安心しなよ。君がそうやって優しさに悩んでるうちは、みんな君の力になってくれるよ」
「…………でも…………」
まだ言うか! と、今度は耳を引っ張られた。だから! それは僕がやる奴! っていうかシリアスな空気返せ! ああもう!
「いでででっ! ちょっ……ミラと違って俺の皮膚はそんなに伸びないですから! ちょっ……ああもう! 返せ! 俺の真剣な悩みを返せ! ちょっと振り絞った勇気を! 利子付きで返せ!」
「あっはっは! 調子出てきたじゃないか。そうだよ、シリアスなんて似合わない。君達はこうやって笑ってる方がずっと似合ってる。俯かないでよ、笑っててよ。僕はそんな君達を見てたいんだから」
うう…………うううぅ…………どうしてこうなった。はぐらかされた……わけじゃない。あの時クリフィアでも同じことを言われた。僕は間違ってないと。この感情は間違ってないと。けれど気持ちの良いものじゃないって思ったから、僕はここでケリをつけたかったのに。
「本当にこれで……こんなんでいいんですか……? こんな感情を抱えたままでも、勇者の隣にいていいんですか……?」
「ああ、いいとも。誇れよ、君のその心の真っ直ぐさを。君は今、自分も含めた誰かの為に怒ったんだ。ミラちゃんよりも自分ひとり分だけ多くの人の為に、だ。じゃあ君も立派な勇者だよ」
ばしん。と、最後に頰を叩かれ、マーリンさんはまた調べ物に戻った。マグルさんはこちらなど御構い無しに……いや、もしかしたら気にするまでもなく収束すると思ってたのかもしれない。マーリンさんのいう経験値による未来予測かな。また振り返れば、そこにはにこにこ笑う可愛らしい勇者様の姿があった。
「バカアギト。ちょっと痛かったわよ」
「うっ……わ、悪い……」
良いわよ。と、言うのが先か、抱き着くのが先か。小さなヒーローは、満面の笑みで僕を許してくれたらしい。はあ。シリアス……どこ行ったんだ…………
調べ物が終わると、書物のいくつかをマグルさんが懐に納め、残りを工房ごと燃やしてしまった。研究成果もレポートも、研究の痕跡も。エンエズさんの何もかもがこれでおしまいなのだと思うと、少しだけ寂しい気もする。でも……きっとこの方が良かったのだろう。悪い奴らに使われるのなんて彼は望んでない。それに……もしかしたらいつか許せる日が来るかもしれないあの男も、きっとそれを望まなかったから隠したんだろう。
「さて、じゃあ今日はもう休もうか」
宿に着くなりマーリンさんはそう言って、しかし言葉とは裏腹に自分の部屋ではなく僕らと同じ部屋にやってきた。うん、休めよ。自分の部屋で、さっさと休みなよ。まだ体力回復してないだろうに……
「……アギト、優しさが足りてないぞ、表情に。休むよ、これが終わったら」
「これ……? 今からなんかするんですか?
マーリンさんは小さく頷くと、視線を僕の腕の中でゴロゴロ転がってるミラの方へと移した。ああ、はいはい。抱っこしたいのね。しょうがないなぁ、もう。
「いやいや、違う。それも惜しいけど今はミラちゃんじゃない。と、言うわけだ。ミラちゃん、ごめん。ちょっとだけアギトを借りても良いかな?」
「…………はい?」
両手を顔の前で合わせて頭を下げる彼女の姿に、ミラは驚いて僕から飛び退いた。今のところまだこいつの中のこの人への敬意は失われていないようだ。頭を下げられるなんて畏れ多い、みたいな。よかった……最近ずっとベッタリだったし、もう尊敬なんて残って無いものかと……
マーリンさんに連れられて、もうひとつの部屋……彼女の部屋に招き入れられた。うう……だからホイホイ男を自分の部屋に、それもふたりっきりの状況に引き入れるなよ……
「……さて、アギト。さっきの話ともちょっとだけ繋がる大切なお話だ。心して聞いてくれ」
「……っ。はい」
浮ついた心は彼女の放つ厳格なオーラに咎められる。もうそこにはさっきまでのふにゃふにゃポンコツ魔道士はいない。背筋を伸ばし、しっかりと彼女と正対して話を待った。
「……よろしい。そうだね、いつか言ったミラちゃんの未来について。僕の星見の結果については覚えているかな?」
「えーっと、はい。ミラに悪いことが起きて、心が折れてしまうとか……」
うんうんと頷いて、マーリンさんは部屋の椅子に腰掛けるように促した。が……流石に僕ひとりが座るわけにはいかない。この部屋にひとつだけの椅子には悪いが、この場においてこれの出番は無さそうだ。
「その未来、残念ながらまだ終わっていないようでね」
「終わってない……? それはどういう……」
未来が終わるという言い回しも変なものだ。しかし、彼女が言いたいことは分かる。まだ、その未来が訪れていないのだ。バッドエンドを回避したのでは無く、まだそのイベントチャートに辿り着いていない。そう言いたい……のだろう。
「……あの子の未来はどうにも視えにくい。きっと、アーヴィンでの一件がターニングポイントだろうと思っていたんだけどね。まだ視えるのさ。あの子が何かに絶望して、心を折られてしまう未来が」
「……それは、防げるものなんですか……?」
分からない。と、首を横に振って、マーリンさんは大きくため息をつく。だが……それを聞いて、いったい僕に何が出来るのだろう。マーリンさんにも分からない未来を、僕に防ぐなんて出来るんだろうか。
「良くも悪くも、鍵は君になりそうだ。だから、ある程度の自覚をしておいて欲しい。君の身の振り方ひとつであの子の未来が簡単に動く。だから……ふふ、今日は百点満点だ。君は君の思うまま、君の望む正義を貫いてくれ」
「…………はあ」
よしよしと頭を撫でられた。うーん……シリアスな話じゃなかったんだろうか。どうにもこう……締まらないなぁ、この人は。ま、変に暗いよりは良いけどさぁ。
「……さて、と。じゃあもうひとつ」
「うえっ、まだ何か……」
こっちも大切だから。と、笑う姿に、ちょっとだけ嫌な予感がする。だって……たった今シリアスな空気はぶち壊されたでしょう? ってことは……ロクでも無い話が飛び出すんだろうなぁ、って。ミラをもっとぎゅっとしたいとか、ミラにもっとぎゅってされたいとか。そういうしょうもない……
「おいで。ほら、さっきはミラちゃんもマグルもいたし、甘えづらかっただろう。いつもいつも羨ましそうに見てるのは分かってるんだ。さあ! お姉さんに存分に甘えると良い!」
「…………馬鹿野郎ですか……貴女は…………」
こっちは大真面目だよ! と、踏ん反り返ってまたマーリンさんは両手を広げた。はあ……この………………………………大馬鹿者が…………ごくり。
「……あの、分かってます? 俺は男で、貴女は女性で。それもこんなふたりっきりの部屋で。ほんと…………襲われたらどうしようとか、無いんですか」
「無い。だって、君より僕の方が強いんだもの」
チキチョウッッッ‼︎ 言っちゃならないことを言ったぞこのッッッ‼︎ そりゃまあ確かに、僕じゃマーリンさんには敵わないさ。でも、でもだよ! 仮にも男と女。身長だって体重だって僕の方が上だ。ミラにだって腕相撲で勝った。調整の効かない魔術で焼き殺されたら知らないけど、それは多分出来ない…………と、思う。から! 取っ組みあったら僕の方が有利…………………………でも、ないか。うん。普通に運動神経の差で負けそう。
「……分かったよ、これが最後だから。もう二度とこんなことしてからかわないから。というわけで、ラストチャンスだよ。いつも目で追ってる大魔導士マーリンさんの魅惑の身体に抱き着けるのは今だけだ!」
「ッ⁉︎ べ、別に追って無いですけど⁉︎ じ、じじじじじ自意識過剰ってやつですけど‼︎ 別にマーリンさんなんかに興味ないですけど⁉︎」
え、傷付くなぁ。と、なんとも白々しい顔で言われてしまった。くそう、全部バレてたんかい! スカートから覗く脚をチラチラ見てたのも、その先の短パンに覆われた柔らかそうなお尻を凝視してたのも、こう…………いっつもふよふよしてるお山をガン見してたのも! 全部! バレてたんかい! 殺せよ!
「……ま、今日はからかいたいわけじゃない。吐き出してくれてありがとう。君の心は顔に出やすいからよく分かる。けど、僕から踏み込んだんじゃ解決しないことだってある。だから、今日ああして心の内側を吐露してくれてありがとう。キツかったろう、堪えたろう。僕はそれをちょっとでも癒してあげられたらと、僕の知ってる数少ない方法を提示しているに過ぎないよ」
「………………いや……でも…………」
ほら。と、また両手を大きく広げて迫るその笑顔は、確かに悪戯ばかりのマーリンさんのものではなく、優しい慈母のような暖かさだった。いや…………でも…………ごくり。え? 本当に…………良いの……? いやいやいやいやいや⁉︎
「……アギト……目が血走ってるよ」
「…………はっ⁉︎ い、いやいや! 流石にそんな…………」
耐えろ! ここは耐えろ! これでもしうっかり谷間にダイブとかしようもんなら…………もんなら……………………? あれ? これ、僕にデメリット無くない? いや! でも! 僕はそういうのは……ちゃんと手順を踏んでから…………
「…………はあ」
とても目を合わせられる状態じゃ無くてそっぽを向いていると、大きなため息が聞こえた。あっ……もしかして、度胸のない男は云々というあれ? もしかしてサービスタイム終了⁉︎ なんて考えていると、細い両腕が伸びてきて、甘い香りに包まれ――
「――――はぅあッッッ⁉︎ はあっ…………はあっ…………夢…………いや、夢オチではないんだけど……」
気が付いた時には秋人の部屋にいた。そうか…………そういうことか…………っ。これまでが全部甘い夢、そして夢オチ……という話ではない。これはつまり……
「…………なんで…………何も覚えていないんだ…………ッッッ!」
きっと抱き締められたんだろう。そして……瞬殺されたんだろう。あのバカ妹をもう笑えない。僕は……俺は…………っ! なんの柔らかさも感じられぬうちに、興奮のあまり気絶してしまったのか…………ッッッ! あんまりだ――ッ‼︎




