第三百三話
日記は面白みに欠けるくらい丁寧に、そして業務的に記されていた。日記、という表現も少し怪しいところだ。これはエンエズさんの生活の痕跡でありながら、内容はどちらかというと錬金術についてのレポートのようだった。
「ほほー……流石はエンエズさん……うぐぐ……」
「…………随分悔しそうね、貴女」
だってぇ……と、ミラは悔しそうにこぼしながらも、日記にかぶりついていた。彼は彼女よりも高位の錬金術師だったらしい。それだけに得るものが多いのだろう、さっきからページをめくる度に目をキラキラさせながら呻いている。どうして表情と声が合致しないのだろうとは今更思うまい。未知なる発見は楽しいし、それでも自分より上だと明確にされていくのがたまらなく悔しいのだ。
「ふむ、本当に錬金術についての記述ばかりだね。もう少し日々の生活……日常の中の変化について書いてないものか」
「日常の中の……変化、ですか」
マーリンさんは僕の問いに頷いた。これだけ几帳面に部屋の中を整えている人物が、全く関係無いこの日記を、よりにもよって錬金術用の戸棚にしまったのだ。何らかの変化が、非日常があって然るべきなんだ。と、マーリンさんはまたふたりの勿体無いという抵抗を無視してページをぱらぱらと読み進める。
「…………ん、おや。この日は随分書くことが少ないじゃないか。少し前から読んでいこうか」
「少し前って……そこから読んだんじゃダメなんですか?」
暗号化の可能性もあるからねー。なんて、やっと掴んだ手応えに少しだけ上機嫌に答えると、マーリンさんは今にも泣きそうなくらい駄々をこねているミラをあやしてページを戻す。あの……すいません、うちの妹がご迷惑おかけして……
「………………ふんふん…………ふむぅ…………暗号って感じでは無さそうだけど……さて、次が問題のページかな」
「…………なになに……ええと……」
それまで一ページにびっしりと書き込まれていたレポートみたいな日記は、突然一行だけの簡素なものとなってしまった。たった一行、しかし……それが三人の術師に与えた衝撃は大きなものだったらしい。僕もそれには驚いたが…………きっと、僕だけが別のことを考えてしまっているんだろう。
「…………ゴートマンと名乗る男が現れた。これは天啓なのかもしれない。か」
「この日付……私達がまだフルトにいた時のものだわ。そうなると……あの時には既に接触を果たしていた……?」
その日付は、確かにまだ僕らがフルトで身体を休めている時のものだった。このゴートマンがあの魔竜使いなのかは、まだこの段階では定かでない。だが……少なくとも、集いはあの一件以前にエンエズさんに目を付けていたのだろう。
「……アイツはエンエズさんの名前を知らない風だった。それが演技なのかも分かんないけど、ここの情報はもう魔人の集いに渡っているって考えたほうがよさそうね」
「……そうだね。先に進むよ。筆跡、魔力痕、暗号。なんでもいい、気付いたことがあれば出してくれ」
そう言ってマーリンさんは日付を進めた。そこにはまた文字でびっしりと埋め尽くされたページが待っていた。しかし……
「……突然日記らしくなったね。ゆっくり読み解いていこうか」
先程までのレポートじみた記述は嘘のように消え、そこにはその日に起きた出来事やこれからへの願望、それに……ゴートマンについての記述がなされていた。帽子を被った優男。名乗る間も無くすぐに立ち去ってしまった、自身と同じ境遇かもしれない男。と、なんだか親近感を持っている風な書き口に見えた。
「帽子の男、ってのはレイガスのことかな。となれば、もしかしたら……いや、楽観的に考え過ぎるのも良くないね」
「……でも、なんだか…………」
ミラは口を噤んで項垂れてしまった。どうしたんだろう。さっきまであんなに興味深そうに眺めていた日記も、今は目にするだけで苦痛でしかないといった面持ちだ。
「……初めて魔人になってしまったエンエズさんと相対した時、彼は私を殺すことを……いいえ、私を殺しても良いという約束をあの男から取り付けていました。私達は、彼があの男に無理矢理変貌させられてしまったと考えていました。でも……もしかしたら……」
「っ! な、何言ってんだよ……っ! エンエズさんがお前を殺す為に……お前と出会ったからあんな奴の仲間になったって言いたいのかよ!」
だって。と、ミラはシャツの裾を握り締め、何かを堪えるみたいに呟いた。そんなわけない。エンエズさんは優しい人だった。たった一度出会っただけでも分かる。そして、街での聞き込みでその願望は確信へと変化している。それに、彼がミラを殺したがる理由なんて…………っ!
「……統括元素使い。あやつが諦めた道だの。そうか、そこまで捻じ曲がっておったか」
「そう……だね。自分がなれなかった理想の姿を、ミラちゃんに重ねてしまったのだろう。幼く希望に満ちたミラちゃんに、かつての好奇心旺盛だった神童の己を……」
幼くないです。と、ミラは言葉では抵抗したものの、また更にしょぼんと項垂れてしまった。ただ、ミラが頑張ってきたってだけで。それがエンエズさんのコンプレックスを刺激しただけで。それだけで……あんな悲劇を起こしてしまったってのか。そんなの……
「……進めよう。ミラちゃん、気分が優れなければもう見ないほうがいい。君にとっても、この一件は深い傷になっている。僕とマグルだけでも……」
「いえ。私には責任がありますから。この一件は、全部私の……」
ミラは唇を噛みながら、また日記へと視線を戻した。マーリンさんはそれを見届けると、今度は僕へと顔を向ける。僕にも同じことを言いたいのだ。つらければ目を背けてもいい。ここから先には僕の知りたくないことが多く書かれているかもしれない。踏み込むかどうかの選択権を、僕自身に委ねている。
「……大丈夫です。急ぎましょう」
「…………分かった」
その後も僕らは日記を読み続けた。暗号化された部分は無さそうだ、というのがマグルさんの見解だった。僕らと出会う直前、ゴートマンに襲われる前日までの記述が全て。そして……
「……エンエズさんは、やっぱり自らの意思で魔人化を受け入れたのね……」
「どうやらその様だ。マグル、筆跡は本人のもので間違いないんだな」
……やはりと言うべきか、そこには信じたくない現実が載っていた。非情にもマグルさんはその問いに頷いてしまった。じゃあ、なんだったんだ。あの一件は……あの時彼を守りたいと、助けたいと。助けられなかったと悔やみ続けたミラのこれまでは、いったいなんだったんだよ。頭が殴られたように痛んだ。
「私は……ゴートマンが全部悪いんだと思ってた。あの男が悪を成す為に、誰かを犠牲にし続けていたんだと思っていた。でも……エンエズさんとあの男には、何か共通の目的があった……? そうだとしたら――」
「――ミラちゃん! それ以上はいけない。アギトも勿論だけど、それ以上言えば僕も怒るぞ」
マーリンさんの制止に、ミラは怯えた顔で口を閉じた。今、ミラは何を言おうとしていた。思い返せば、ゴートマンの行動には一貫した目的があった様に感じられる。魔術師を対象とした無差別殺戮、最初はそう考えていた。魔竜と戦い、生き延びた特別な個体としてのミラに執着があるのだと思っていた。だが、それらは全部僕らが何も知らなかったからなのかもしれない。
「アギトも余計なことは考えるな。この日記はここと一緒に葬ろう。マグル、それでいいね」
「……ああ」
ばしんと背中を叩かれ、また家捜しに戻れと命令された。だけど……そんなに簡単に切り替えられるわけがない。もしかしたら……いいや、ほぼ確実に。あの男はミラだけを――
「――アギトっ! いい加減にしろ! なんども言わせるな、君の不安はあの子に伝播する。飲み込めとも割り切れとも言わない。だが、気丈に振る舞う努力はしてみせろ」
「っ……は、はい」
厳しい言葉とは裏腹に、マーリンさんは優しく僕を抱き締めてそう言った。そうだ、一番キツイのはミラなんだ。ただでさえ救えなかったと後悔し続けた相手が、よりにもよって自分を恨んでいたかもしれないなんて。そんなすれ違いを前に平気でいられる奴なんていない。ましてや誰よりも人を好むミラだ、その苦痛は僕では想像も出来ないものになっているかもしれない。
「……アギト。ごめんね、あんまり負担をかけ過ぎないようにするつもりだったけど、この件についてだけは……」
「分かってます。アイツが折れそうな時くらいは俺が頑張らないと、ですよね」
マーリンさんは僕の頰を撫でながら微笑みかけてくれた。そうだねと小さく頷きながら、彼女はまたゆっくりと僕を抱き締め…………
「…………マーリン様……私も…………」
「………………お前なぁ……」
なんて締まらないタイミングで来るんだ。さっき抱き締められてスイッチが入ってしまっているらしい。ミラは自分のことも抱き締めてくださいとマーリンさんのローブを引っ張った。勿論、この人がそれを拒める筈もない。僕のことなんてすぐに手放して、なんともまあだらしない顔で目の前の小さな甘えん坊を思いっきり抱き締めた。べ……別に悔しいとか、寂しいとか…………羨ましいとか…………無いし…………ぐすん。




