第三百一話
ミラにおぶられ、街の外周を回り始めて少しすると、僕らはじっと虚空を見つめるふたりの人影を見つけた。杖ついてしゃんと背を伸ばしているローブ姿の女性と、しゃがみこんで地面に何かを書いている老人。マーリンさんとマグルさんだった。
「マーリン様! 良かった、お爺さんも一緒……」
安堵にため息をつく間も無く、ミラは大声でふたりに呼びかける。しかし、それを受けてマーリンさんは、顔を綻ばせるでも驚くでも無く、ただ人差し指を口の前で立てて静かにするようにと求めた。いったいなんだろう、マグルさんが何かをしているから邪魔をするなということか。
「…………ふたりともいいとこに来たね。いや……悪いとこに来たとも言えるかな。その様子だと、そっちでも何かを見つけたのかな?」
「はい。これを……」
ミラはもう随分と割れてしまったが、それでも分厚く大きな魔竜のものと思われる鱗を彼女に提示した。それを見るとマーリンさんもしかめっ面で唇を噛み、そしてちょっとだけ寂しそうに僕らの頭を撫でる。優しい手つきとは裏腹に、一向に表情は晴れなかった。
「…………君達はいない方がいいかもしれない。嫌な思いをするだろうし、怖い思いもするだろう。街へ戻って休んでいるというなら止めはしないけど、どうする? 苦境を承知でここに残るかい?」
「…………何が見つかったんですか……?」
僕らの返答はハナっから決まっていた。ミラの同意を得るまでも無く、僕はマーリンさんに事情の説明を要求する。彼女もまたそれを予想していたのだろう。困った顔をしながらも、戸惑うこと無く説明に入ってくれた。
「……ここには何も無い。何も無いという情報だけがある。何も無いと、不自然なほど自然に演出された、隠蔽の形跡が発見された」
「隠蔽……? もしかして……」
まだ分からない。と、マーリンさんは首を横に振った。だが、その瞳には確信が映っているかの様にも見える。きっとこの場所に、隠蔽されているという場所にエンエズさんの工房が…………
「……マーリン。開くぞ、構えよ」
「いつでもいいよ。ふたりも少し退がって警戒を」
マグルさんはゆっくりと立ち上がると、マーリンさんの後ろまで避難した。僕とミラも彼女の背中に隠れるようにその光景を待っている。ボロボロと古くなったタイルが剥がれるように、世界はその上っ面を引っぺがされて、隠されていた本性を――――
「――っ‼︎ コイツは……ッ‼︎」
現れたのは一頭の巨竜だった。かつてフルトの大山で相対した物とも、アーヴィンに大挙して来たものとも比べ物にならない。最も大切なものを守る為にここに遣わされた、特別な個体なのだろうとすぐに分かった。ゆうに三メートルは下らない体高が地に臥せったままの姿だと気付くのには、数秒の時間が必要だった。
「…………アギト、大丈夫。今度こそ私が…………? アギト……?」
胸の奥、肚の奥からどす黒い感情が押し上げられて来た。怒りや憎しみではない、もっと単純で明快な感情。恐怖と、それに伴う拒絶。脂汗が流れ出てくる。みんなの姿が小さく見える。僕だけが遠く、危険な場所に取り残されてしまった錯覚に陥ってしまう。
「ミラちゃん、退がって…………? どうしたことだ、これは……」
「……うんむ、おぬしも気付いたか」
アギト! と、強く手を握られて僕はようやく意識を取り戻した。だが、それでも目の前の魔竜の大きさは変わらない。恐怖心に肥大化されられていたわけでもなんでもなく、本当にただそれは大きいのだ。
「…………マーリン様、いったいこれは……」
「……分からない。けれど……敵意も害意も、侵入者を排除しようという意思すらも感じない。なら、コイツはここで何を…………?」
ズズズと低い地響きを伴って魔竜は体をゆっくりと起こし始めた。だが……確かに、みんなの言う通りそれに攻撃の意思は感じられない。敵対心は無い……? でも、あの男の魔竜だ、それがどうして――
――今なら――――
「――っ! アギト……アンタ、なんのつもりよ……それ…………っ!」
気付いた時には僕は銃口を魔竜に向けていた。手が震える、足が震える、体が、脳が、思考が。恐怖に心が震える。ほんの数メートル先にいる筈の魔竜にすら照準が合わない。いいや、そうじゃない。何故、僕は今魔弾を……?
「アギト! バカ! 降ろしなさい! それが通用するような相手じゃ…………っ!」
ズンッ――と、地面が揺れた。ググッと持ち上がった巨大な頭に、それが前肢をついて起き上がったことを悟る。ああ、僕の所為だ。僕が余計な敵対心を、危険を、刺激を与えたから。こんなことも予期出来ないほどぬくぬくと安全地帯で応援してたつもりは無かったけど、現実はこの程度だったってことなのかな——
「――っ! ミラ……っ。やめろ…………ミラは……コイツだけは…………っ」
「アギト……っ! バカ! なんでアンタが私の前に出るのよ!」
魔竜はゆっくりともたげた首をこちらへと近づけてくる。頭に浮かんだのは、魔竜に叩き伏せられたオックスとミラの姿だった。そこからもまた、僕の体は僕の意思とは関係無く動いていた。ミラの前にずいと躍り出て、力一杯肩を掴まれてもそこを動かずに魔竜を睨み続ける。マーリンさんもマグルさんも、もちろんミラも。僕のそんな行動を信じられないものを見る目で見ていた。
「…………っ! ひっ……」
ばふうっと生暖かい突風が僕の顔を襲う。竜のおぞましい顔はすぐそばまで来ていた。ただの鼻息にも僕の恐怖は大きくなっていき、その眼を覗き込み続けた僕は……無様にも膝を折ってその場にへたり込んでしまった。
「…………ミラは……ミラだけは……やめてくれ…………」
「アギト……っ! マーリン様、援護をお願いします! こうなったら先手を取って怯ませます。その隙に離脱を……」
バチッという何かが弾けた音とともに、僕の背中を引っ張っていた力が強くなった。きっと強化魔術を使ったのだろう。そんな空気の変化にようやく僕の体にも力が戻って来て、そして立ち上がって戦うのだと震える心に檄を飛ばす。動かぬ足で、握ることもままならぬ手で。きっと届かない魔弾を僕はもう一度魔竜の額に向けて――
「――待って。様子がおかしい……まだ、この魔竜には敵対心を感じない。これは…………」
竜は爛々《らんらん》と煌めいた赤い眼で僕を見つめていた。そして更に顔を近付けられると、僕はもうさっき芽生えたハリボテの勇気も投げ捨てて両腕で自分の顔を守っていた。しかし……
「……っ! マグル……は大丈夫か。ふたりとも! しゃがんで固まるんだ! 吹き飛ばされるぞ!」
マーリンさんは杖を思い切り地面に突き刺して、それに縋りながら地面に臥せった。いったい何が……と、恐る恐る目を開けると、さっきとは比にならない突風が僕らを襲った。大きな大きな翼を羽ばたかせ、魔竜が飛び上がったのだ。僕もミラも反応が遅れ、耐えきれずにそのままコロコロと転がっていた。
「……なんだったんだ、今のは。ふたりとも、大丈夫か! アギト! しっかりしろアギト!」
無我夢中でミラを抱き締めながら、僕は転がった先で泥だらけの体をゆっくりと起こす。五、六メートルは転がされたらしい。駆け寄ってくるマーリンさんの不安げな顔を見て、僕はもう魔竜がどこにもいないのに気付いた。
「……マーリンさん、今のは…………」
「わっかんないよ! 僕にも! でも……目的の物は見つかった。それは確かだ」
目的の物? ゆっくりと前に振り返るマーリンさんの視線を追うと、そこには不自然に切り取られたように、地面に真四角な穴が空いていた。近付いて覗き込むと、それが地下への階段であることが分かった。
「…………ここが、エンエズの…………」
「マグル、先行は僕が。ミラちゃん、後方の警戒をお願い。アギトもしっかり気を張り直して。あんなことの後だから難しいかもしれないけど、君の前を歩くのがこの国で最高の術師ふたりだってことを思い出して」
マーリンさんはそう言って真剣な顔でその穴へと降りて行った。マグルさんもそれに続き、ミラはぎゅうっと僕の手を握り一緒に階段へと足を踏み入れた。中に灯りは無かったが、どういうわけか薄暗くとも視界が奪われることも無かった。
「…………結界……だったんですよね。エンエズさんの……」
「いいや、あれの結界では無い。蜃気楼を起こすのであれば火属性は避けては通れぬ。儂の下を離れた後にどれだけ修練を積んだかは分からんが、そんな生ぬるい代物では無かった。第三者が意図を持って隠蔽していたと考えるべきだろう」
また胸が締め付けられる。つまり……この工房は既に誰かの手に渡っているという意味ではないのか。それがゴートマンなのか、新たに現れたゴートマン達の関係なのかは分からない。けれど……マグルさんの目的は果たし切れないのでは無いかと、そう感じてしまう。
「……アギト、大丈夫……? 無理しないでって……言ったのに…………」
「…………悪い。勝手に動いてて……」
ミラを守ろうって、体が勝手に動いたんだろうか。いや。いいや違う。もっと別の感情だった。怖いから逃げ出したいとか、そんな原始的な恐怖心よりももっと深くにある恐怖。今、僕はきっと自分が許せないでいる。情けなさからじゃない、もっともっと別の――そして……きっと、それが僕の本質なんだろうと思わざるを得ない。
この感情は、嫉妬によく似ている。




