第三十話
僕の前を走るゲンさんの足が止まった。先の火の灯りが途切れてもいない、まだほとんど進んでもいないのに、だ。
「……クソッタレめ。悪手だったかぁやっぱ」
「ゲンさん……っ!」
異変は僕にもわかった。というよりもこれは予想出来たことだ。この先、もう灯りもない真っ暗な闇の中から湿っぽい足音と隠すつもりもない呼吸音が聞こえて来る。視認出来ないそこに、間違いなくいる。それも一頭や二頭じゃない、魔獣の群れがいる。
「流石にこんなところじゃひとたまりもない。少し戻るぞ」
「でも…………っ! わかった……」
急がなくちゃいけないって時に準備の悪さが重くのしかかる。ランタンという生命線を失った僕らの視界は、ここから先完全に消失する。懐中電灯でもなんでも……くそっ、そもそもそんなものないじゃないかこの世界に!
「……アギト、もう一回鞄を開け。こうなりゃ嬢ちゃんがうっかりしてないことを祈るしかねえぞ」
言われるままに僕はすぐに鞄を下ろして中身を広げた。試験管のように細長いガラス瓶が五本、小さいのが三本。それにゲンさん曰くマジックアイテムだという短刀が一本。せめてこの怪しい薬のような液体について説明くらいしておいてくれよと、珍しく彼女を毒づきたい気分になる。
「…………そりゃぁ、なんだ? 鞄に括ってある棒みてぇな……」
棒? 言われてよく見てみれば、黒く染めてある布を巻きつけた金属製の棒……いや、片側だけ蓋をしてある筒だ。てっきり持ち手だとばかり思っていたが、たしかに細長い黒い筒が鞄に縛り付けられていた。
「……こりゃぁ……っ! もしかしたらもしかするぞアギト! 流石だなぁあの嬢ちゃんも!」
「えっと? こんな筒で何をどうしようって言うんだよ」
僕はまだ何もわかっていないと言うのに、ゲンさんは勝手にはしゃいでありがたそうに筒を握りしめる。そして空いた手で薬瓶を物色し始めた。
「ほらみろ、この長えのだけおかしな形してねえか?」
「……本当だ、って言うかこれ……ビー玉?」
火の灯りによく照らされるようにゲンさんは細長い方の瓶を顔の前に持ってきてそう言った。たしかにその瓶の真ん中はラムネ瓶のように窪んでいてガラス玉が引っかかって栓の様になっていた。下半分に無色透明な粘性のある液体が。ガラス玉に堰き止められている上半分に濁った淡黄色のさらさらした液体が入っている。瓶に蓋をしているコルク栓から何か棒が刺されていて、ガラス玉を固定しているようにも見えるが……
「わざわざ一本の瓶に分けて入れる理由なんて一つしかねえ。証拠にこの栓の形だ」
そう言って栓をゆっくり抜くとひっくり返して棒のない方でまた瓶に蓋をした。確かにコルク栓にしては両側がすぼんでいる……と言うか樽型になっていてどちら側でも密閉できる形状を取っているようだ。
「んでこの鉄の筒。ほうらピッタリだ! あとは傾けてやりゃ玉がズレて……」
これは……サイリウムか! いや、僕の知っているそれと製法が同じかは知らないけど。細長い瓶の中で混ざり合った液体は強い光を発し、筒によって一方向に絞って照射できる……つまりは懐中電灯だ! あるじゃないか! 先に言っとけ‼︎
「こんだけ強い光なら探索にも支障は出ねえ。今度こそ急ぐぞアギト!」
「ッ! ああ!」
ゲンさんはライトを僕に預けて走り出した。僕も遅れまいと走り出して……さっき感じた魔獣の群れが顔を覗かせた。
「しゃらくせぇ! アギト! 今度こそ恥じらう乙女の構えだ!」
「だからそれはなんなんだよ! それに一体なんの意味があるんだ⁉︎」
飛びかかって来る魔獣に足を止め、ゲンさんは迎撃態勢に入る。しかし依然として言っていることは全く意味がわからない。
「馬鹿野郎! それさえしてくれれば俺は心置きなくスッキリ戦えるんだよ!」
「あんた一体俺に何させようってんだ!」
魔獣は全部で五頭。一頭目を上手く体勢を整えながら斬り倒し、二頭目の攻撃を交わした所でゲンさんは足を止めた。そしてあろうことか……
「いいから見とけってんだ!」
剣を一頭目の頭にトドメついでに突き刺して手放してしまった。
「なっ⁉︎ なにして——」
追撃を仕掛ける二頭目と三頭目が、丸腰のゲンさんに飛びかかる。いくらミラの一撃を凌いだ彼でも魔獣二頭を素手で相手取るのは危険だ。だってさっきまでそれが危険だから、少しでも積もった不利な条件を覆そうと立ち回りを慎重にしてきて……
「戦いの基本は回避。まず自分の急所を守り、自分の攻め手を守り、そして自分の身を隅々まで敵の攻撃から遠ざけることだ」
挟撃となった魔獣の突進をゲンさんはその場から一歩として動かずに回避してみせた。一体なにが起こった。さっきまでのように身を翻してカウンターに転じるでも、ミラのように先手を取って叩き潰すでもなくただその場にいて敵の攻撃をすり抜けたように見えた。
「いいかアギト! まずヘソは絶対に敵に向けるな! 尻や背中は多少構わん! ともかく急所、臓腑に食いつかれることだけは避けろ!」
ヘソを敵に……尻は構わん……ってそれって……
「ヘソを、体を敵から背けろ! その上で胸や腹を覆い、兎に角敵に向けている体の面積を小さくだ!」
「恥じらう乙女の構えってそれか⁉︎」
わかるかそんな言い方で‼︎ えーっと⁉︎ ヘソは敵から背けて⁉︎ そんで⁉︎
「膝は柔らかく! 少し内股気味に、兎に角敵から離れる気持ちを忘れずに! ただし腰は引けるな! 股を隠す女はいるが尻を突き出して恥じらう乙女はいねえ! そりゃあ悪女か売女かロクな女じゃねえ!」
「だから言い方ァ! えーっと膝を曲げて相手から逃げるイメージで……」
釈然としなかったが、ともかくゲンさんの言う通りに構える。果たして本当に効果はあるのかと疑問はあったが、今は優秀だったと聞く指導官の言うことを信じよう!
「ゲンさんこんな感じ⁉︎」
「おう完璧だ! バッチリ気持ち悪りぃな‼︎」
「はっ倒すぞクソジジィ‼︎」
今すぐにその背中を蹴りつけてやりたい。と、そんなバカなやり取りをしていると魔獣の一頭が標的をゲンさんから僕に切り替えて飛びかかってきた。
「アギト! 硬くなるな! 兎に角逃げればいいんだ!」
「逃げればって……っ!」
魔獣の腕が肩を掠める。爪も無いのに肌は裂け血が滲んだ。そんなことに気を取られる間もない連続攻撃が僕を襲っ……
「そうだ! 全部避けらんなくてもいい! 頭と腹、そんで脚! 逃げらんなくならないように兎に角逃げ回れ!」
避けられ……てはいない! めちゃくちゃ痛い! けど動けなくなるほどの痛みも出血も無い。確かに恥じらう乙女の構えで僕は生きながらえているかもしれない……けど。
「ゲンさん! これ魔獣倒せない! めっちゃ逃げられるだけで倒せてない!」
ジリ貧すぎる! このままいけば疲れていつかまともに攻撃を——
「——そのために俺がいるんじゃぁねえか」
黒ひげ危機一発を思い出させるほど見事に真上に飛んだのは魔獣の首だった。中々ショッキングな映像に少々気持ち悪さを覚えたが、やけにかっこいい感じで魔獣を仕留めたゲンさんの方を向く。そこには既に斬り捨てられた四頭分の肉塊が転げていた。
「……つまりは俺は囮になったと?」
「まぁそうとも言う。だがそれだけじゃねえ……」
多少の怒りを覚え抗議しようと言う気持ちは、魔獣の腹を掻っ捌き出したR指定の入りそうな映像に瞬く間に押さえつけられる。魔獣だったものを散々引っ掻き回して、ゲンさんはとりわけ色の濃い内蔵のようなモノを引きずり出した。
「生き物の出力はコイツ、心臓の出来で決まる。魔獣だって突き詰めれば生物だ。そこはほかの動物と、もちろん人間とも変わらん」
心……うえぇ。頼むからしまってくれ、と言うと、情けねえ。と言って道の脇にそれを蹴り飛ばして話を続けた。
「心臓の出力を上げれば上げる程、肉体は限界値をすぐに迎える。要は短時間しか動けねえんだよ。特に強い生き物になればなるほどな」
なるほどそういえば。僕はその説明にチーターのことを思い浮かべる。地上最速の生物あり、その最高時速と最高速までの加速力は比類無きものであるが、反対に走り続けられる距離はそう長く無いのだという。
「逃げていれば逃げ延びるための隙が出来る。逃げ延びれば勝ちだ。戦いってのは敵を倒すことが全部じゃねえ。そんでも倒さなきゃなんねえ時は、倒すための手段を守ってやればいいのさ」
ん…………なるほど。どうも釈然としないのはあのネーミングのせいだろうか。逃げ回るだけ、と言うのがこの強い男の口から出たせいだろうか。ともかく理解はした。納得は別の問題だ。
「さて急ぐぜアギト。シンドイだろうが俺たちが守んなきゃなんねえ“倒すための手段”を、もっかい守れる状態にしなくちゃ話にもなんねえぞ」
真剣な表情を取り戻すゲンさんに気持ちがピリッとする。なんとしても——と、気持ちを締めなおして、僕らはまた暗闇の中を走り出した。