第二百九十八話
バタバタと疲れて上がらなくなってきた足で、ぜえぜえと切れた息で走り続け、林を抜けた先でやっとミラとマグルさんに追いついた。なんのことはない、ふたりが立ち止まって何かをぼうっと眺めていたのだ。
「ぜえ……ぜえ……やっと追いついた…………ミラ、お前なぁ…………?」
「ミラちゃん、マグル……? どうしたん…………っ!」
汗の滴る地面ばかりを映していた視界をぐいとあげると、そこには例のモグラ型の魔獣の死骸があった。僕らが倒したものと同種のものだろう。だが……その死骸は…………
「……うぷっ…………なんだよ、これ……」
「……食べかけ、ってとこね。それも相当大きいのに齧られてるわ。血の匂いが強過ぎてあんまり判別出来ないけど…………お爺さんはどう?」
ミラの問いにマグルさんは首を横に振った。目の前の死骸は腹回りをごっそりと齧り取られていて、他に大きな外傷もないことから、抵抗も許さぬまま即死させられたのだろうと予想出来る。だが…………この大きさの、それも危険極まりない鉤爪をもった魔獣を、こうもあっさり倒して食らってしまうとは。
「ふむふむ、食べかけとはいい例えだね。きっと内臓だけ先に食べたんだろう。腐りやすいからね、それに脂も乗っていて栄養価も高い。もしかしたらグルメな魔獣で、硬い肉はあまり食べないのかも」
「もしくは、これの臭いに引き寄せられた獣を食らうのやもしれんな。なんにせよ手早く調べてしまおうかの」
そう言ってマグルとマーリンさんはズカズカと死骸のそばに近寄っていった。うう……僕はとても近付きたくないんだけど。っていうか、ミラでもないのに血の臭いが濃過ぎて他の匂いが分からない。そんな僕をひとりには出来ないと言うことか、ミラは不安げな顔でひょこひょこ駆け寄ってきた。うう……可愛い……情けない…………
「…………あんなに苦戦した相手なのにね…………もしかしたらいつかの巨大蛇でも出てくるのかしら」
「巨大…………古代蛇って呼ばれてたやつか……うう、それもかなり苦戦したやつじゃないか…………」
思い出されるのは、いつか路銀稼ぎの為に討伐に向かった魔蛇の、その親個体とも呼べる超特級の大蛇だった。それ自体は討伐対象にいなかったのに、お金に目が眩んだのと、蛇に対するフラストレーションとがあわさって、ミラが無茶をした一件だ。あの時の噛まれ傷はまだ全身に残っている…………いててて……思い出しただけで痛い……
「ミラ、お前は大丈夫か? その……あんまりいい思い出もないし、つらかったら言えよ?」
「大丈夫、ありがとう。嫌な思い出は全部不調で戦えなかった所為だもの、今は平気。むしろあの時の借りを返してやるわ! って、意気込みたかったんだけど……」
ミラはぎゅっと握った拳をすぐに解いて、そして遣る瀬無さげに魔獣の死骸を眺めた。借りを返す相手はこのザマだ。もっともっと危険な魔獣が出るかもしれない。そう考えると胸の奥の方が凍りついたように冷たく痛む。早いとここんなとこオサラバしたいんだけど……
「マグル、そっちはどうだい?」
「ばっはっは! これはいい! あの辺ではなかなか見ない種だ! 傷が少ないおかげて血もまだまだ出てくるわい! ばーっはっはっは!」
ちゃんと調べろボケジジイ! と、マーリンさんの怒号が飛んだ。本当にその通りだ、ちゃんとやってくれ。っていうか、自分で手早くって言ったくせに! どうして術師ってのはこうも好奇心に抗えない奴ばかりなんだ。はあ。と、大きなため息をついたのは、そんな楽しそうなお爺さんのイキイキした姿に触発されて飛び出していったミラの背中を見送った時のことだった。まあ……よく我慢したよ。僕は平気だから存分にサンプルをとっておいで。
「…………アギト、平気かい。君のその反応を見るとちょっとだけ安心するよ。ミラちゃんみたいなのが世の子供達のスタンダードだってなら、僕も彼も泣いてしまいそうだ」
「あ、あはは……情けないです、本当に」
大丈夫だよ。と、マーリンさんは背中をさすってくれた。彼……というのは、きっと勇者様のことだろう。たまに彼女がこぼすことのある、子供が笑って平和に暮らせるように戦った、という意味の言葉には少しだけ憧れる。僕も彼女達のようになりたい、という憧れではない。僕もそれを目指したいという願望。詰まる所ミラが戦わなくても済む世界を、僕はいつだって望んできた。
「僕が調べた限りでは特に痕跡らしい痕跡も無し。フィーネはこの魔獣とは関係なさそうだ。というか、このサイズに傷付けられたらあの子じゃひとたまりもない。やっぱり見えない魔獣って線が濃いかなぁ……」
「…………嫌そうですね。やっぱり、あの魔獣とは戦いづらいですか?」
マーリンさんは僕の問いには答えず、ただ黙って僕の肩を抱き寄せた。座りなよ。と、促されるままに手近な岩に腰掛けると、マーリンさんは背中からのしかかるように抱き着いてきた。
「出来ればレイガスの遺したものとは戦いたくない。けれど、集いにはきっとアイツの遺した研究が、成果がある。見えない魔獣もきっと沢山いる。流石に魔竜はどうだろう、君達がフルトで出会ったのが成功一号目だとすれば、東へ向かってレポートを残すほどの時間はなかった筈だけど」
ゴートマンのことを彼女はレイガスと呼ぶ。それがあの男の本名だというのは別にどうだっていい。ただ……どうしても、僕はあの男を許せなくて。それなのに、なんだか悪い奴じゃなかったんじゃないかなんて考えてしまう自分がいて。その原因が、この人があの男を語る時に見せる辛そうな顔だと思うと……少しだけ嫉妬に近い感情を覚えてしまう。
「……マーリンさんは、ゴートマンやビビアンさん……でしたっけ。旅先で、ガラガダで出会ったって言ってましたよね。その時のことをもっと詳しく教えて貰えませんか?」
「残念、これまでに話したので全部だ。出会って、少しだけ打ち解けて。けれど、不幸を予知してしまって、何も出来ずに別れた。君達が語る旅の思い出の中にも似たものはあるだろう。ミラちゃんの言う“間に合わなかった”苦い思い出。それと同じさ」
ぎゅうと抱き締められたのに、ちっとも甘やかされている感じがしない。振り返ればきっとまた悲しそうな顔をしているんだろう。分かっている、この人にとってかつての勇者様との旅は代え難い宝だ。けれど……ミラと僕と、今こうして旅をしていることも同じくらい大切なものだと思って貰いたい。良い思い出として笑って語って貰いたい。いつか僕らにしてくれたように、この先でまた誰かに僕らの話もして欲しい。欲張りだろうとは思うけれど、僕にとってこの旅はそれだけ楽しいものだから。
「…………さて、そろそろあのバカどもを叱りつけてくるよ。まったく、これだから術師ってやつは」
「あはは……手加減してあげてくださいね」
最後にぎゅうっと力強く抱き締められたのは、甘やかされた証だろう。うぐぐ……やっぱり子ども扱いなんだよな、しょうがないけど。マグルさんを名指しで怒鳴りつけ、マーリンさんはミラを抱きかかえてまた僕の方へと振り返った。ああ、いかんいかん。僕も行かないと怒られる。
「なんじゃい……歳甲斐もなく心の底から楽しんでおったのに。のう、ハークスの娘っ子や」
「うっ…………でも、マーリン様の言う通り急いでますし。でもやっぱりもうちょっとだけ……」
未練がましく死骸を見つめているミラを追いついたばかりの僕の背中に預けると、マーリンさんは杖でお爺さんを小突いてまたお説教を始めた。こうしているとユーリさんとマーリンさんみたいだ。いや、今はマーリンさんがユーリさんで、マグルさんがマーリンさんって感じだけど。
「大体お前はいつもそうだ。自分の好奇心や興味を優先するばかりで、人の迷惑を顧みない。久しぶりに会ってちょっとは変わったかと思ったけど、微塵も改善されていないじゃないか。そんなんだと本当に死ぬ時ひとりっきりだぞ」
「ばっはっは! 何を言うか! 死ぬ時には魔術書と陣に囲まれて死ぬのだ、それの何が悪いか! ばーっはっはっは!」
おっと、なんだか独身貴族っぽい発言が飛び出したぞ? でも分かります、その気持ち。僕も死ぬ時は推しグッズに囲まれて死ねたらそれだけで本望。結婚なんて、三次元なんて別に一ミリも興味ありませんな。あ? 相手がいないだけだろって? っていうか相手されないだけだろって? 本気で傷付くからやめろ………………っ!
「ふあぁ……んむ…………さっき変なふうに起こされたから眠たくなってきた…………アギト、ちょっとこのまま…………ぐぅ」
「ちょっと、ミラさん? 寝ないで、こんな物騒なとこで寝ないで。っていうか、どうしてそんなに血まみれの血なまぐさい格好で眠れるんだ。鼻良いのか悪いのかどっちなんだ」
ミラは眠るしマグルさんは戻ろうとするし、マーリンさんはそれを引き留めるのに精一杯だし。はあ……これ、大丈夫か……? 少なくともあのモグラの魔獣よりずっと強い魔獣が出てくるかもしれないってのに、この緊張感の無さ。はあ…………胃が痛くなってきた。ひとり不安を抱えながら、僕らは西……ルーエイの街を目指した。




