第二百九十四話
キリエを発ち、僕らは西へ西へと進んでいた。エンエズさんの隠し工房を探し出して破棄する。魔人の集いに悪用される前に、彼の研究を保護しなければならない。ならない……は、良いんだけど……
「……ミラ。大丈夫か……?」
「…………平気」
街を出て少し歩くと、ミラの様子が変わってしまった。無理も無い。あの一件は……この先にあるものは、コイツにとって忘れられない苦い思い出だ。この先、エンエズさんのお店よりも手前で、僕らはゴートマンの工房跡地に辿り着く。魔竜を使役するあの男と戦い、問題のエンエズさんが魔人へと変化してしまった場所。そして、ミラがレヴの出現を認知している場所。
「…………アギト、ちょっといいかい」
「マーリンさん……」
笑ってなどいられるわけがない。平気でいられるわけがないんだ。それを分かっていながら、コイツはこの道を選んだ。もしかしたら、マーリンさんがこちらへ来るのを渋ったのも、キリエに入るのを避けようと考えていたのも、全部この為だったのかもしれない。
「……この先なんだね。その……」
「はい、この先に……オックスに焼いて貰ったんで、もう建物は無い筈ですけど……」
ガサガサと木の葉が擦れる度に、ミラはビクッと肩を跳ねさせて辺りを警戒していた。そして、その小さな身体が動く度に、髪がバチバチとスパークしている。きっといつでも強化魔術を使えるように身構えているんだ。
そんな嫌な空気の中を僕らは歩き続け、そして……真っ黒に焦げて禿げてしまった地面と、建物の残骸に出くわした。この姿を見るのは僕も初めてだ。ゴートマンの研究工房、魔獣の卵を生成していたであろう悪魔の巣窟の、その残骸だ。
「……ミラ、大丈夫だって。もうここには何も無い。もう……何も無いんだ」
「……分かってる、大丈夫。ありがとう、アギト」
燃え残った基礎と炭化した柱を前にしても、ミラは動揺を隠せないでいた。気丈に振る舞うことも、平気だと笑うことも出来ず、ただ呆然と……そして間違いなく、かつての恐怖と戦うようにその跡を睨んでいた。
「確かにここはレイガスの工房で間違いなさそうだ。焼け残りや地面にまでベッタリと魔術痕がある。だが……マグル」
「ああ、ここにエンエズの痕跡は無い。あやつの魔力に似た痕跡はあるが……そうさな」
それは……と、僕が口を開く前にマーリンさんが制してくれた。いや、きっと老人は彼女の制止など無くとも、それを口にはしなかったろう。きっと彼が見たものは魔人エンエズの……あの赫き竜人の痕跡だろう。
「ミラちゃん、行こう。無視しろとは言わない、乗り越えろとも言わない。ただ、割り切る為の努力をするんだ。救えなかったものに足を引っ張られて、助けられるものを目の前で失う愚を犯してはならない。出来るね?」
「……はい、進みましょう。ここからなら私も案内出来ます」
良い子だ。と、マーリンさんは悲しそうにミラの背中を見つめていた。背の高い草も焼けてスッキリしてしまった道を進む少女を追って、僕らはまた西へと突き進む。西へ向かう…………筈だった——
「——っ⁉︎ 揺蕩う雷霆ッ——改‼︎」
キリキリと空気が鳴った。そしてすぐにミラの言霊が聞こえ、それが電流に切り裂かれた大気の音だと理解する。青白い光を纏いながら、ミラは何処かを睨み付けていた。マーリンさんも慌てて杖を構え、僕も急いで銃を抜いた。だが、ここら一帯に魔獣が隠れられるような場所は無い。となると…………
「……ミラ、まさか……」
「ええ、いるわ。それも…………多い……っ」
ミラが少し動く度に、そのオレンジの髪はバチバチと雷光を発した。相当出力を上げているようだ。多い——というのは、相当な数という意味だろう、。十や二十では済まない、自分一人では不安に思ってしまうほどに。
「……ミラちゃん、少し待って欲しい。あの見えない魔獣がいるんだよね? だったら——」
「——マーリン様は退がっててください! もうあんなことはさせませんからね! 数が数です、援護をお願いします。広範囲攻撃でひと息に……」
さっきまで自分のことで震えてたクセに、ミラはあの時村で見た光景を思い浮かべたのか、怒号を上げてマーリンさんを押し留めた。うん、それは僕も賛成だ。でもね、マーリンさんは周囲を巻き込む心配さえ無ければ大丈夫だって、それはそれであの馬車から飛び出してきた魔獣を倒した時に確認したじゃないか。
「ご、ごめん……じゃないって! 違うんだ、ちょっと待って欲しい! そんなに数がいるなら、どうしてこちらを攻撃してこない? こちらを認識出来ないくらい遠くにいるわけではないんだろう?」
「……はい、このまま前方に進むと数体。そして……私が走れば数秒の場所に群体がいます。ここからなら射程は十分ですし、ここまでに民家や畑はありませんでした。動きの無い今こそ……」
だから待って! と、マーリンさんはミラを宥めた。はて、どうしたことか。あの見えない魔獣は、つまり魔人の集いに繋がるものだ。それを放っておけばどうなるか。それもミラが血相を変えるほどの数だ、纏めて倒せるなら倒してしまった方が……
「…………みんなここで待っているように。絶対に無理はしないし大きな怪我もしないから、信じて。そして……ここは僕に任せて欲しい」
「……マーリン様……?」
不安げにローブを掴んでいるミラの頭を撫で、マーリンさんは僕らから離れて、ミラの指差した魔獣のいる場所を目指して歩き出した。彼女は何を考えて、何をするつもりなんだ。先代魔術翁は黙って彼女を見守っていた。大丈夫……なんだよな……?
「……いるのかい? ビビアン、レイガス。君達の……ふたりの家族が、そこにいるのかい……?」
「……家族……? いったい何を……」
ぎぃ……ぎぃ……と、音が鳴り始めた。ミラも僕も慌てて飛び出そうとすると、マーリンさんは振り返って、待っていてと手で合図を送ってきた。だが……っ! ミラは真っ青な顔で彼女を……彼女の周囲を見つめていた。ぎぃぎぃという音がどんどん大きく、多く、近なっていく。ああ、やはりそうだ。これは……見えない魔獣の鳴き声なんだ。
「……そうか、そうだったんだね。君達は…………ごめん、ごめんね。もっと早くに気付くべきだった。レイガスと君達の関係に、もっともっと早くに気付けた筈だったのに」
マーリンさんは杖を捨て、虚空に向けて手を差し伸べた。だが、その瞬間彼女の手は何かに斬りつけられ、真っ赤な血を吹き上げた。
「ッ! マーリン様——」
「——来ないで! 大丈夫、大丈夫だから。君達も、安心して。大丈夫だ。さあ、おいで」
血の滴る腕を気に留めず、マーリンさんは両手を広げて何かを抱き締めた。頰が、首が、手が、足が。露出している肌が切れて血が流れ出る。硬い革で出来たローブが裂けていく。それでも彼女は愛おしいものを抱いているように、優しげな顔のまま、そして悲しそうに涙を流した。
「…………ごめんよ。でも……もう、こうするしかないから……」
ぎぃ。と、小さく一頭の魔獣が鳴いた。これは何が起こっているんだ。僕の理解が追いつかないまま、マーリンさんの周囲に小さな火球が無数に現れる。それがただの攻撃ではなく、他の意図を持っていることは、その表情を見ていれば分かった。
「…………っ。燃え盛る紫陽花——」
「ッ! マーリン様ぁあ——ッ!」
火球は火柱を上げ、そして彼女もろとも周囲を炎で包み込んだ。数秒すると炎は収まり、煤だらけになったマーリンさんがそこには立っていた。ミラはそれを見ると一目散に駆け寄って、当たり前に彼女の心配を口から零し続けた。
「マーリン様! 治療します、一度座ってください! 切り傷も火傷も多過ぎる……一度ローブを脱いでください! マーリン様! マーリン様ってば!」
「…………うん、ありがとう。でも大丈夫。この傷は負うべくして負ったものだ。それに治療するほど酷いものじゃない。ごめんね、心配かけて」
謝るくらいなら無茶しないでください! と、ミラは怒鳴りつけて有無を言わさずにローブを剥ぎ…………ちょっと! ミラさん! 僕らもいるんだから! 大丈夫だからと抵抗するマーリンさんを力尽くで脱がせようとするミラを、僕も慌てて止めに入った。それ以上はまずい。別にローブを脱ぐ分には問題ない。だが! 嫌がる女子の服を剥ぐというのは! ぐふふ、興奮しますなぁ…………じゃなくて! 倫理観的に良くない!
「…………事情、聞いてもいいですか? でないとミラもこのままですよ」
「……分かったよ。面白い話でもないけどね」
マーリンさんは昔話を始めた。かつてガラガダで出会った、レイガスとビビアンという若い男女のこと。そして女性の方が身重だったこと。いつか産まれた暁には、きっと抱き上げに行くと約束したこと。果たせなかった約束を果たしたに過ぎないよ。と、マーリンさんはちょっとだけ嬉しそうに語ってくれた。




