第二百九十二話
朝食を終え、僕らはマーリンさんの案内の元で街を散策していた。こんなことしている時間はあるのか、という疑問は尽きないが……そこは巫女様ことマーリンさんを信じよう。ポンコツだけどやる時はやってくれる人だ。
「……しかし、それ本当にどうなってるんですか……?」
「ああ、あまり覗き込まないほうがいいよ、ふたりとも。狂うぞ」
狂……なんだって? 意識していなければ、それは普通の老人のように感じられる。僕とミラとマーリンさんと、先代魔術翁。そう、その問題の先代の姿がなにやら朧げというか……ピントを合わせようとするとボケるというか。
「アーギート。危ないぞ、本当に。それは認識をズラす結界みたいなものだ。気にしなければマグルはただの年寄りに見えるだろう。だが、その違和感に気付いて正体を覗き込み続ければ最後。君の中の常識を視覚から食い尽くされる。まったく、危なっかしいったらありゃしない」
「ばっはっは! すまなんだな小僧っ子。そういうわけだ、あまり気にするな」
常識を……? ちょっとさっきからなに言ってるか分かんないけど、おっかない単語がちょこちょこ混じってくるからこれ以上はやめておこう。ミラもなにやら意図的に老人を視界に入れないようにしているし、本当の本当に危ないってのか。え? なんでそんなもの平然と使ってんの?
「……しかし、この街はなにやら落ち着かんな。そこかしこに嫌な臭いがこびりついておる。なんなんじゃ、これは……」
「嫌な臭い…………あ、もしかして。ミラ、お前が前に来た時のやつじゃないのか? 魔術翁ともなると、魔術痕に臭いまで感じるんですね」
違うわよ、バカ。と、ミラに小突かれてしまった。なんでよ! お前が連れてかれた時、オックスに辿って貰った魔術痕は、ぐちゃぐちゃで気持ち悪い物だったって。術師にはそれが見えるんだし、この人ならそういうの気にすると思うじゃんか!
「うんむ、残念ながら痕跡に臭いはない。ただちょいと鼻が人より効くのでな。このナリだ、道理だろう」
「このナリって…………ああ、そうか。獣人ってことは獣の性質も持ってておかしくないもんな。いや、でも…………ミラ、お前は何か臭わないのか?」
香水の匂いくらいなら。と、ミラはなんだかキョトンとして答えた。そっか、そうか…………そうかぁ…………獣人ってすごいんだな。ミラより鼻が効くのか……この犬もどきみたいなミラより…………
「……相変わらず妙な小僧っ子だな。儂の姿を見れば、まず動物的特徴を持っていると思うはずじゃが。どうしてかおぬしはまず魔術師として考えるのだな」
「そりゃあだって……魔術翁って凄いんでしょう? そしたら………………ねえ。俺には魔術痕なんて本当にこれっぽっちも見えないし……」
そうかそうか。と、何度か小さく頷くと、老人はマーリンさんのお尻を叩いた。こらジジイっ⁉︎ おまっ! なにし……け、けしからんぞ! 年寄りだからってそういうのはけしからんぞ! くそう、羨ましい!
「いっ……たいなぁ。お前は力が強いんだから、ちょっとは加減しろっての。それと、次お尻叩いたら容赦無く焼くからな」
「ばーはっはっは! なに、おぬしの見る目も鍛えられたようだの。まるであの時の少年だな、この小僧っ子も。肩入れするわけじゃわい」
あの時の少年? え、ちょっと。誰かに似てるって、自分の知らないところにいる誰かに似てるって言われるの、物凄く気になるんだけど。え、誰よ誰よ? 僕知ってる人? 知ってる人なわけないよね、だってそもそも僕に知り合いがほとんどいないし。
「…………っ。マグル、ちょっと隠れろ。それじゃなくて、身隠しの結界を」
「……うんむ、世話をかけるな」
ちょっと! 誰なの! なんて怒る間も無く、マーリンさんは険しい顔をしてお爺さんに隠れろと言った。そしてそれに応えるべく、そこは流石は魔術翁だろう、さっきまで朧げだった姿が突如世界から搔き消える。初めて出会った時も、クリフィアで再開した時もそうだった。この老人は平然と姿を消してしまえるらしい。それもミラの直感ですら察知出来ないほどに。これで獣人の特徴を魔術よりも先に考えろとか……無理があるだろ。
「これはこれは巫女殿。どうされましたか、こんな所で。護衛も連れず観光ですか」
「……いえ、私は今も公務の最中で。大臣こそ、どうなさいましたか。こんな辺鄙な場所まで」
前方から数人の騎士を引き連れ現れた大臣と呼ばれた男は、恰幅のいい体に似合う膨れた顔を苦々しく歪めていた。さっきまでの柔らかな笑みはもうマーリンさんの顔に無く、あるのはぴりぴりとした緊張感だった。
「ほう、公務。今この時も王命で動いていると。そこな子供達と遊びまわるのが、公務と申されるか巫女殿」
「…………彼らは……いいえ、彼らこそこの国を、世界を救う勇者ですよ」
ふんと鼻を鳴らし、なにやら不機嫌そうに彼女を見下ろすその男は、どうにもミラの琴線にいつか触れてしまいそうに感じられる。だがどう見ても立場のある人間だ。もしもミラが激情して飛びかかりでもしたら…………い、いかん。それはマズイな。大臣って言ってたもんな……
「……あまり遊び歩かれるな、巫女殿。その身は王の道具に過ぎぬことを弁えよ。そして努努忘れなさるな。議会の誰も、貴女の言葉など信じてはいないのだと」
隠していた顔を引きずり出す様にフードを手で払うと、男はマーリンさんに詰め寄る形で思い切り睨み付けた。そしてすぐに、僕らなんて気にもせず、ブツブツとなにやら苛立ちを零しながら騎士に囲まれどこかへと歩いて行った。よ、よかった……最後のでミラが爆発するかと……
「…………っ! ミラ……よく我慢したな……よしよし」
「……当たり前じゃない」
もう爆発寸前だったのが分かったのは、振り向いた先で顔を真っ赤にして拳を握りしめているミラを目にした時だった。やっぱりマーリンさんが悪く言われるのは腹に据えかねるのだろう。しかし今回はよく我慢しれくれたな。なんて頭を撫でると、珍しく、バカにしないで! と、噛み付かれた。言葉にも、首にも。
「大臣なんて呼ばれてた相手に私が噛み付いて、それでどうなるのよ。罰は私じゃなくてマーリン様に行くに決まってる。そんなの、尚更腹が立つじゃない」
「……そっか。お前はなんだかんだで賢い子だったな。忘れがちだけど」
ふしゃーっ! と、鬱憤を晴らす様に吠え哮りながら噛み付いてくる様は、先代なんかよりよっぽど獣じみていた。本当、魔術の才能と野生らしさは比例するのか?
「でも、なんだか嫌な感じでしたね。嫌味ったらしいというか……自分だってこんな観光地みたいなとこに来てるくせに。それにマーリンさんを道具だとか……」
「ああ、うん。そこはしょうがない。僕は嫌われ者だからねぇ……はぁ」
珍しく疲労感を前面に押し出しながら、マーリンさんはガジガジとまだ僕の首元に噛り付いたミラを優しく撫で始めた。そして…………ひょいと僕から引っぺがして、ぎゅうとその小さな体を抱き締めたのだ。ちょっと⁉︎ 表でそんなことして倒れないでよ⁉︎
「…………君の言いたいことは分かる。でも、僕もちょっと癒しが欲しいんだよ。折角こうして嫌味な貴族連中と離れて悠々自適に旅してたってのに、楽しい気分が台無しだ。もう……」
「……マーリンさん……? あの、もしかして……」
困惑しながらもされるがままに抱き締められているミラも、僕も、少しだけ心配を彼女に向ける。嫌味な貴族とか、悠々自適とか。嫌われ者とか……
「でも、なんでマーリンさんが嫌われ者なんて……だって、勇者の仲間で、この国の為に戦った英雄なのに。それがどうして嫌われるなんてことに……」
「簡単な話だよ。この国は王と貴族達によって治められている。貴族とはすなわち成功者、なにかを成し遂げた人間だ。王様だってそう。一方で僕は何も成し遂げちゃいない。失敗したにもかかわらず、王様の一存でこうして役職に就いている。それも彼らより立場は上ときたもんだ。嫌われもするよ。もう……あのバカ王の所為で肩身が狭いったらありゃしない」
失敗——その言葉がとても重たいものに聞こえた。国の為、世界の為に戦い続けたのに……魔王という強大過ぎる問題を解決出来なかったから、失敗……? そんな話があってたまるか。この人達はたった三人で旅をしたんだろう? それで……危険を顧みず戦い続けた彼女達の冒険を、失敗だなんて簡単な言葉で片付けてしまうのか。
「……アギト、君のそのまっすぐな感情はとても嬉しい。暖かいし、励みになるよ。でも僕らは失敗した、それは事実だ。腕は確かでも、研究論文のひとつも出さない魔術師が政治に関わるだなんて、それこそ国を救いでもしなければ身の丈に合っていないと言われて当然だ」
「でも……っ! でも……それでもあんなに見下されるようなものなんですか……? マーリンさんには星見があって、それを王様が認めている。未来が見えるだなんて能力、他の誰にもない凄い力なのに。それすら信じてないって……」
マーリンさんはゆっくりとミラを離し、そして今度は僕をぎゅうと抱き締めた。心なしかいつもより手が冷たい、寂しげな姿に見えた。
「……未来なんて、連中には当たり前に見えてるよ。そうでなきゃ生き残れない。この変化の早い国で勝ち上がり、生き残ってきた。ただそれだけで証明になる。僕の星見なんて無くても、この国の政治家達には未来が見えている。経験値が違う、僕みたいなひよっこじゃ到底敵わない」
「…………でも……それでも、あんな言い方……」
ぎゅううと抱き締める力が強くなった。そして……マーリンさんは震えた声でありがとうと囁いた。ああ、この人も怖いと思うことがあったんだ。いつも頼もしい彼女の小さな体を、僕もゆっくりと抱き締め……………………るのは無理なので、手の置き場に困ったまま彼女が落ち着くのを待った。
「……ふふ、ありがとうアギト。ちょっとだけ落ち着いた。ミラちゃんがしょっちゅう抱き着いている訳だ。しかし、どうせなら抱き締めて頭を撫でて、慰めてくれてもいいのに。ミラちゃんにはいつもやってるだろう?」
「いや………………それは流石に…………」
にへっと笑って、今度はさっきまでとは違う、甘やかす為に僕を抱き締めて頭を撫でてきた。や、やめろ! こっちはギリギリなんだ! あんまり密着してくるんじゃない! やっ、やめっ! ああっ!
「よーし、元気も出たしもうちょっと街を回ろうか。マグルももう出てきて大丈夫だよ。えへへぇ、ミラちゃんももう一回ぎゅーってしてあげようね」
「………………マジで許さないからな、マーリンさん。ぐぐぐ…………」
どうして! こんな! 酷いことするの! 男の子は元気だと歩けないんだよ! どうみても確信犯なマーリンさんを睨み付けて、僕はまたその場にうずくまって再起を……いや、起きちゃまずいな。くそう……どうしてこんなことばっかりされるんだ…………そういう趣味に目覚めたらどうしてくれるんだ………………うう……




