第二百九十話
何やら顔の辺りにモサモサした感触がある。ああ、はいはい。いつものやつね。なんて、流してしまっても構わないんだけど……今日はそういうわけにはいかなかった。
「…………よしよーし、いい子だなお前は。まったく、あんなやつ爆発しちまえばいいんだよ」
困るとは言ったものの、いざ来ない日があると寂しくなってしまうでござる。なんて昨晩届いたメールの所為で、心の底から爆発しろと叫びたくなった就寝前の憤りを、腕の中ですやすや眠るセラピーアイテムに発散する。ふわふわとした髪を撫でてよし。小さくて柔らかい体を抱き締めてよし。おまけに優しく名前を呼ぶと、むにゃむにゃという寝言の合間に返事があるのもグッド。ああ、どうして神は僕の妹をこんなにも可愛い生き物にしてしまったんだ。取り合いになって戦争が起きてしまいそうだ。おいそこ、キモいとかいうな。可愛いのは事実だろうが。シスコンで悪かったな。
「さて、でも今日は調べ物とかするだろうし、起こさなきゃな。おーい、ミラってばー」
そう。この街キリエに立ち寄ったのは、厄介な事件が起きたからだった。見えない魔獣に、それを引き連れていた魔人の集い。更にはあの機械仕掛けの馬車だ。立ち寄ることはせずに、周囲を調べながら北上する予定だったのにも関わらず、こうしてここで寝泊まりしたということは、やはりここにこそ調べたいものがあるのだろう。
「おーはーよーう。ふたりとも起きてるかーい。寝てたら無理に起こさなくてもいいよー」
「…………すぐ起こしますんで、待っててください」
別にいいのに。なんて笑いながらドアを開けたのはマーリンさんだった。そう、彼女こそこの街に立ち寄り調べ物をしようと考えている…………であろう人物。いやいや、そこは疑う余地も無いだろうけど。この問題に何かを感知し、調べる為に進路を変えたいと言ったのが彼女なのだから。
「えへへぇぃ……今朝も相変わらず可愛らしいねぇ。アギト、ちょっと僕にも抱っこさせておくれよ」
「……いいですけど、倒れないでくださいよ?」
ふふんと鼻を鳴らして胸を張るマーリンさんだが、いったいどうしたことか、なにやら自信があるようだ。確かに慣れてきている、昨日だって不意を突かれなければもしかしたら…………おぐっ⁉︎ い、いかん思い出すな!
「えへへぇ……よーし、いい子いい子。んんーっ! はぁあ……可愛いぃ……じゅる」
「だいぶ慣れましたね。でも、あんまりそれで調子付かせると、また不意打ちで飛びつかれますよ? 気を付けてくださいね」
もうすっかり飼育員みたいだね。なんて呆れた顔でうずくまる僕の頭を撫でる彼女に、当分の間はミラも起きないだろうなと確信する。マーリンさんが倒れてパニックが起きれば、騒がしさにもしかしたら……と、思わないでもないけど。このままなら、半日くらいは寝ているんじゃないだろうか。だって…………ごくり。
「んふふ……ミーラーちゃん。えへぇ……見て見てアギト、返事してくれるよ。可愛いなぁ、可愛いなあぁ……」
よっぽど楽しみにしてたんだろう。思い返せば、初めて会った時から抱きかかえていたっけ。でも、あの時は今ほど密着出来なかった、ミラもまだマーリンさんに慣れてなかったし。そういう意味では、本当に遠くまで来たものだ。ミラもマーリンさんも、互いにすっかり打ち解けている。
「んふ……さあて、そろそろ返すよ。あんまり長い時間はまだ不安が…………えへぇ……そっかぁ、まだお姉さんと一緒がいいか、そっかそっか。でへ……」
「…………ほら、引っぺがすんで手離してください。色々見て回るんでしょう?」
そうだったね。なんて口惜しそうにミラを手放すと、彼女は僕に奪い取られた小さな少女をまただらしない顔で見つめていた。分かるよ、可愛いのは分かる。いつまでも抱っこしてたいのも、甘やかしたいのも、甘えられていたいのも分かる。でも、こいつは僕の妹だからな! いつまでも独占するなやい! じゃなかった、そろそろ起こして支度しないといけないでしょう。
結局まだ起きないミラを二人してつついて遊んでいると、こんこんと部屋のドアが叩かれた。おや、マーリンさんはもういるぞ? はて、誰だろう。多分……いや、まず間違いなく彼女宛の用事だと思うけど。
「巫女様はおられますか。知り合いだと名乗る不審な人物が来ています。追い返そうにも中々しつこく……」
「こらこら、追い返すな。知り合いって、名前は聞いたのかい。いったいどんなやつなんだ」
いえ、名前は聞いておりません。と、した上で、ドアの向こうにいるであろう騎士は、小柄でローブを身に纏った老人の様な……と、説明した。はて、小柄でローブで……すぐそこにいるな、老人じゃないけど。やたら距離感が近いナイスバディな……え? もうそんな言葉使わない⁈ うそぉっ⁉︎
「……小柄な老人……の、様な? なんだい、それ。男か女か分からないほど年寄りだってのかい?」
「いえ……その…………それが……」
顔が見えないのです。と、なにやら困惑気味に伝える騎士の言葉に、僕はその老人の正体に思い当たる節があるのに気が付いた。それはマーリンさんも同じみたいで、すぐに向かうと返事をして……何故かまた僕らの方へと戻ってきた。
「ほら、アギト。ミラちゃんおんぶして付いてきて。きっと君達にも関係のある話だから」
「……俺達にも……?」
それはどういうことだろうか。尋ねる間も無く急かしてくる彼女に、僕は慌ててミラを背負って部屋を後にした。
以前に僕とオックスがユーリさんに案内された部屋に向かうと、そこには確かに顔の見えないローブ姿の老人がいた。そう、老人であることだけは理解出来る。顔が見えない程フードを深くかぶっているわけでもない。しかし、顔が全く視認出来ない。そう、それは当たり前に認識をズラしてしまえる人物という話。認識をズラしていると、そんな不可解を平然と理解させてしまうような人物なのだ。
「ほら、もう僕らだけだ。解いていいよ、それ。どういう風の吹き回しだよ。こんな人の多い場所にまで、わざわざ姿隠しの結界まで使ってさ」
「んむ、なに。ちょいと調べ物でな。息災そうだな、マーリン。それに小僧っ子も。ばっはっは」
ばさりとフードを取り手を叩くと、老人は朧げだったその姿を表した。先代魔術翁。狼の様な顔を持つ獣人の魔術師。マーリンさんがマグルと呼ぶ魔術師の頂点のひとり。大きな口の端を上げて豪快に笑う姿は、かつて草原の中に佇む小屋で出会った御隠居のものだった。
「はて、あの小さいのはどうした。ハークスの娘だったか、あの小柄な……おお、お主の背中におったのか。見かけ通りまだ童だの、眠っておったか。ばっはっは! 見えなんだわ!」
あ、余計なこと言いやがって。なんて思う間も考える間も無く、首元に激痛が走った。痛いってッ‼︎ なんで僕に当たるんだ! 手近にいるからだ! くそっ、余計なこと言うんじゃないよッ!
「だーーーれが小さくて見えないよッ! ふしゃーっ! って……あれ、ここは……? ああっ、先代のお爺さん! どうしてこんな所に?」
「ばっはっは。相変わらず騒がしいな、お主らは。久しぶりだの、娘っ子。なに、ちょいと野暮用でな」
ミラは僕の首を噛むだけ噛んで、噛んだまま、拘束したままバシバシと蹴りつけた後に、急いで飛び降りてご老人の前に出た。なんだ、お前は。なんで僕に八つ当たりしたと思ったらすぐに和んでんだ。噛まれ損だし蹴られ損だし、っていうか……
「…………ミラ。言うことあるよな、先に」
「っ⁈ え、えへへー、おはようアギトー…………じゃ、ないよね」
よく分かってんじゃねえか! こいつめ! 僕は両手でぶにぶにとミラの頰を挟み込み、そのまま摘んで引っ張ったり押し潰したりして…………すごい伸びるじゃん。おまえ……ほっぺた何で出来てんだよ…………
「ごほん。さて、マグル。ミラちゃんも起きたし話を聞こう。人間嫌いな引きこもり魔術翁が、いったい今日はどういった用件だい?」
「んむ、そうさな。先のクリフィアでの一件、忘れてはおるまい。あれの……エンエズのことでな。調べ物をしておるのだ」
突如部屋の温度が下がったかのように感じられた。ぴりぴりとした空気が僕とミラのぐだぐだとしたやり取りを強制終了させる。エンエズさん……あの人も魔人の集いの被害者だ。そして先代の彼となにやら縁のある人物であった様だ。と、そこまでは知っている。果たして彼についての調べ物とは……
「…………そうだの、あれの生い立ちから説明するべきやもしれぬ。あの魔人……エンエズはな、クリフィアで生まれ育った、儂のはじめての弟子だった」
ふうと腰を床に落ち着け、老人はエンエズさんについて語り始める。かつてクリフィアで彼の元に現れた、少年エンエズとの過去についてを。




