第二百八十八話
一日はあっという間に過ぎ去った。お店は確かに忙しくなってきたし、前に比べて出来ることもすることも増えた。だけど……そうだな。あんな刺激的な生活を裏で送っている所為と言うべきか、ちょっとだけ物足りないと感じてしまう。そう……物足りない。どうして…………どうしてここにはむさ苦しいおっさんしかいないの……? 花渕さんがいないとパン屋にあるまじきむさ苦しさなんだよな、ここ。うん、なんていうか…………
「…………ニッチなところに需要が生まれたりするだろうか……?」
「原口くん……? どうかした? 壁なんて見つめて」
猫みたいだねぇなんて呑気なことを言う店長と、僕と。もう若いとは言えない男ふたりだけの空間のなんと、悲しいことか。そう、向こうとこっちの最大の差。今、向こうでは美少女がふたりもいるのだ。いや、まあ、片一方は美“少女”とは言えないんだろうけどさ。ごほん。そう、華やかさが足りない。とにかく、圧倒的に。画面が汗臭そうだもんね。っていうか事実汗臭いもんね、おっさんふたりが集まると。
「いえ、その……花渕さんいないと、ちょっと店の中がむさ苦しいなぁって。やっぱり女の子の方がお客さんウケは良いですよね……」
「あはは……まあ、これでかっこいい俳優みたいな店員っていうなら違っただろうけど。そうだね、うだつの上がらないおじさんよりは全然良いだろうねぇ」
ですよねぇ。はあ……そうだ、僕の友人のおっさんは、顔が良いから固定客を掴めているわけだし。うぐぐ……神はどうして同じ人間にここまで絶望的な格差を作ってしまったのだ。だが負けないぞ! 何があってもあの男にだけは負けてはならない! 爆発しろ!
「……そういえば花渕さん、最近家とは別の方向に帰って行くけど、何か知らない? 信頼してるけどまだ子供だからねぇ。危ないことしてるんじゃなければ良いけど……」
「ああ、あれは大丈夫ですよ。ハマってるケーキ屋さんに入り浸ってるだけですから。僕の友人の店なんで、何かあれば連絡も貰えますし」
そうなんだ、世間は狭いねえ。なんて店長が笑うと、丁度五時になった。ああ、ほら。一日が早いんだ。今はいい意味で、今日何をしていたかを覚えていない。忙しいと時間が過ぎるのはあっという間だ。それに…………まだ余裕が無いからね! もう全然時間とか気にしてられないもんね!
「……じゃあお疲れ様。忙しくなってきたし、そろそろもうひとりアルバイトかパートか、人員が欲しいね」
「…………人件費大丈夫ですか……? それに忙しいのは確かですけど、なんとかならない訳でも無いですし……」
そうだねと頷いて、それでも店長は僕の意見を全肯定はしなかった。うん、人件費が許すなら僕ももうひとり仲間が欲しいところだ。でもなぁ……僕のパーティって、基本的に僕含めて三人がマックスっぽいんだよなぁ。元気でやってっかなぁ、アイツ。
「……ふたりにお店を任せて配達に出るのも、ちょっとだけ難しくなってきたからさ。それにふたりの休みを考えると、配達に出られない日が出来ちゃうだろう? 折角掴んだお客さんだからね、人手不足で手放すなんて勿体無いことの無いようにしたいよ」
「うっ……免許取らなきゃなぁ……」
店長は笑って、そこまでしなくても良いよ。とは言ったが、僕のバリューを上げる為にも運転免許は欲しい。それがあれば、僕はこの店で店長の代わりに配達に行ける数少ない人間になれるのだ。そうなれば、ほら! そうそうクビにはならない! いやはや、妹のこと言えないな。僕も自分の価値を上げるのに必死なんだ。切羽詰まってるからな、こっちの人生は。
「でも目標を持つのは良いね。ただ漠然と働くよりはずっと健全だ。お金を貯めて、免許を取って。それでケンちゃん達をドライブに連れて行ってあげるとか」
「ああ、それ良いですね。免許取って、車は……兄さんに借りるしかないか。それにパソコンも買いたいし…………」
いかん、物欲が多過ぎる。買いたい物もあるしやりたいこともある。でも、やらなくっちゃいけないこともあって、その為にはまずこのお店をきっちり軌道に乗せきってしまわなければ。ふたりの活躍で上向いてきたんだ、僕が足を引っ張らないように気張らなきゃな。
「じゃあお先に失礼します。また明日」
今日はちょっとだけ寄り道をして帰ろう。というか、デンデン氏のヘルプメールを無視するわけにもいかない。別に悪い子じゃないけど、花渕さん美人だからね。あのクソコミュ障がガタガタになってボロを出す前に。あと折角だ、ケーキを買って帰ろう。友達がやってるケーキ屋さんがあるんだ、なんて会話は、ちょっとだけ胸が弾むじゃないか。
いつもと違う道を通ってまだ見慣れない店に向かうと、そこにはやはりというかなんというか……カウンター越しに楽しげに談笑する、デンデン氏こと田原伝助と花渕さんがいた。え? なんでフルネーム呼んだかって? 今から通報するからだよ、爆発しろあの野郎。
「いらっしゃ…………およ、アギト氏。来るなら来るって言ってくれればいのにぃ、もういけずなんだから」
「…………お願いだから、その子の前でそういうキャラは出さないでください」
ドアを開けると途端に見慣れた……聞き慣れた? いつものデンデン氏って感じのデンデン氏が現れた。きっと僕が来るまではそんなことも無かったんだろう、ちょっとだけ嫌そうに僕を睨みつける花渕さんにそう思ってしまう。ごめんってば。悪気は無かったんだ。
「丁度良かった、今美菜ちゃんと覆面——」
「——ッ⁉︎ わーっ! わーーーっ! そうだアキトさん! 今日お店どうだった? 最近は割と忙しい日も増えたし、今日も絶好調だったかな…………アキトさん?」
花渕さんは何かを隠そうと、慌てた様子で僕の前に立ちはだかって矢継ぎ早に何か言っていた。だが……そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ。その一事に比べたら……どんなことすらも——ッ!
「……今…………なんて言った…………っ!」
「……アキトさん……? ど、どうしたの……?」
ふう。と、頭を抱えながらため息をつくデンデン氏に、僕は怒りを露わにした。拳を握り……肉が凄い。くそっ、こっちでこんなに力一杯握り拳を作るなんてなかなか無いから、向こうの身体のイメージで握ってしまった。すげえ肉厚じゃん、僕の手。ちょっとショックだわ。じゃなくって!
「……聞こえなかったでござるか、アギト氏。拙者は今覆面——」
「——美菜ちゃんって! お前今下の名前で呼んだか‼︎ よし通報だ! 青少年育成条例違反で現行犯逮捕だ! 臭い飯食わせてやるから覚悟しろこの野郎! 爆発し——痛いッ‼︎」
脇腹に激痛が走った。見れば、顔を真っ赤にして拳を振りかざし直している美菜ちゃんこと、花渕さんがいた。あはは、照れてやんの。なんて言ってる場合じゃない! 痛い痛い! くそっ、普段殴られ過ぎた! 確実に上達している! 人を殴るという余計なスキルがどんどん成長して行ってしまう!
「…………アギト氏……いえ、拙者も最初は戸惑ったのでござるが、美菜ちゃんが下の名前で呼んで欲しいって……」
「わーーーッ⁉︎ ちがっ……違う! 違うから! 違うし! 違うじゃん‼︎ 田原さんも何しれっと……おいおっさん! 笑うな! ニヤニヤすんなーっ!」
ほう、下の名前で呼んで欲しいと言われた、と。そうか、そうかそうか。でへへ、これは頭の中お花畑にもなりますな。貴女、意外とピュアよね。少女らしいというか乙女チックというか。うふふ……かわいいなぁ。
「……そういうことなら、ごほん。いや、いいパンチだったよ美菜ちゃ——」
「本気で蹴るよ、次、下の名前呼んだら。二度と使い物にならないようにしてやるから」
なんでよッ! ひどく冷たい目で酷いことを言い放つ少女に、僕の下っ腹はぎゅうと押し潰されそうになる。いわゆるヒュンとしたというやつ。なんで……いや、そりゃそうだけどさ。いいじゃん……僕だって…………美菜ちゃんって呼んでもいいじゃん…………っ!
「……ところでアギト氏は覆面——」
「わぁーーーっ! た、田原さん! それは内緒に……」
おや、さっきからデンデン氏が何か言おうとする度に奇声をあげてらっしゃるけど、それはなんでしょう。なにやら僕を除け者にして内緒話を……ぐすん。いいよいいよ、ふたりでいっちゃいっちゃしてろよ、一生。くそう……爆発しろ!
「ごにょごにょ……ふむ、委細承知した。アギト氏。ところで今日はなんのご用ですかな? もしかして、本当にメールの件で来てくれたとか? やだ、かっこいい……抱いて……」
「違うよ、普通にケーキ買いに来ただけだよ。これでケーキが美味しくなかったら本気で通報してやるからな!」
じゃあ許して貰えそうでござるな。と、胸をなでおろす姿は、ちょとだけ情けないのにかっこよく見えた。な、なんだよ。ケーキの味には絶対の自信があるってか。おいおい、かっこいいこと言うなぁ。じゃあえーっと……どれがオススメかなぁ。花渕さんに習ったレイアウトを元に考察すると……
「あ、今日のオススメはリンゴのタルトでござるよ。まだちょっと時期は早いでござるが、昨今はいつでもいい食材が手に入りますからなぁ。いやいや大変便利な時代になったものですな」
「………………いったいいつの時代からタイムスリップして来たのさ。いいや、じゃあそれを三つください。あと今食べてくから、もう三つオススメを見繕ってください」
ええ、三つも食べるの。なんてふたり揃って怪訝な顔を僕に向けた。違うよ! 三人でちょっとお茶しようって話だよ! 察しろよ! ひとりで三つも食べないよ! 食べそうな見た目してる……? そりゃ悪かったよっ! 太っ腹。と、ちょっとだけ不安げな顔で僕のお腹を叩いた花渕さんに、余計なことしたかもしれないと思ったのは、デンデン氏がうきうきでモンブランと紅茶を持ってカウンターから出てきた時のことだった。ああ……えーっと、もしかしてもうこの子はケーキ食べた後だった……? ってなると……ご、ごめんね花渕さん。その…………カロリーとか…………




