第二十八話
飛びかかってくる魔獣は三頭。少し距離を開けてこちらを窺っている個体が二頭。そして既に切り倒されたものが二頭分。その剣さばきは素人目に見ても見事なものだった。
目線の高さに構えられた剣をそのまま真っ直ぐ、何の飾り気も無い素直な突きを繰り出す。何の工夫も駆け引きもない、ただ最速で繰り出されたと言うだけでそれは必殺の一撃となって、魔獣の滑らかな皮を突き破りその喉を穿つ。体を翻して抜いた剣を、勢いそのままに首めがけて振り抜いてまた一頭がそこに臥した。この男もまた尋常ならざる強さで魔獣を討ち倒す者。だと言うのに……
「ちげぇもっと腰をひねれってんだ! 乙女の気持ちになりやがれ!」
「あんた一体俺に何させたいんだッ!」
この男はどうして口を開いてしまうのだ。黙って剣を振るう姿は流麗とすら表せようものであるというのに。
「言ったろ! 俺は嬢ちゃんみたいにはできねえ、数には対処が効かねえんだよ!」
そんなことを聞いてからやっと気づいたことがある。ゲンさんはあれだけの強さがありながら、彼女の様に先手を取って魔獣を掃討しようとはしない。それは戦闘力を一切持たない僕からあまり離れないようにする為のものと思っていたが、もしかしたら違ったのかもしれない。
「娘っ子と一緒にいるんなら、どっかでスケベしに部屋に乗り込んだこともあんだろ! そん時の嬢ちゃんを思い出せ!」
「なっ⁉︎ やんねえよそんなことっ!」
やりたくてやった訳じゃない。あれは事故だ。だからノーカウント! 心のどこかでそう叫びながら、枯れてんなぁ! と、理不尽に怒鳴るゲンさんの姿を目で追い続ける。やはりそうだ。彼は仕留める為のもう一歩をあえて踏み込んでいない。
「いいから恥じらう乙女の気持ちになれってんだ! 湯浴みを覗かれた生娘がどんな反応をするかぐらい分かんだろ!」
分かんねえよ! こちとら伊達に三十年童貞守ってねえよ! とは叫ばないでおいた。しかしその反応には見覚えがある。もっとも直後に投擲を行うタイプの生娘だが——
「おいバカ早く……後ろだアギト!」
正面にばかり気を取られすぎた。そうだ、この洞窟は自由に組み替えられる。ならば敵を殲滅しながら進んだとして、後ろから追ってくる敵がもういないとは限らないのだ! 振り向きざまに魔獣の太い腕が伸びてくる。足をもつれさせ、僕は足元に転がっていた半分の魔獣の体に蹴躓いて後ろ向きに倒れることで、運良くそれを回避することが出来た。そして彼がもう一歩を踏み込めない本当の理由を確信する。
「アギトォ!」
バクンッと目の前の魔獣の上顎が吹き飛ぶ。さっきまでの流れるような太刀筋ではない、ひと振りで確実に仕留めるための荒々しい一撃。体重が残っていない。足下は硬く滑る乾いた砂に、たった今撒き散らされた血潮が浮いて……マズイ! ガラガダの町に入った頃彼女が危惧していたのはこれか! 今、ゲンさんの身体は背後から現れた一頭の方に完全に流れてしまって、本来相手すべき二頭へ一太刀を浴びせるどころか防御もままならない姿勢だ。そんなことはきっと考えるまでもなく、野生の本能で察知したのであろう。二頭はとっくに飛びかかってきていて、奥で待ち構えていた二頭もこちらに向かって勢いよく飛び出してきている。
「〜〜〜〜ッ! 伏せろアギトォッ‼︎」
声の方を見るまでもない。がしゃんという音と共に、僕の目の前で魔獣に何かが投げつけられた。
「くたばれクソッタレ——」
すぐにもう一発の投擲が放たれた。一つ目は液体の、ランタンの予備燃料が入ったガラス瓶だった。そして二つ目は——
Bang! と、効果音を書き入れるならそんな、洋画の爆発シーンのような効果音が入るだろう。音など聞こえる間も無く僕の耳はキーンという耳鳴りしか捉えられなくなって、目の前は真っ赤に燃え盛る轟炎に包まれた。洞窟を進まなければならない僕達にとってそれは大きな痛手ではあるものの、ランタンを犠牲にしただけで死の窮地を乗り切った。
「ッッああクソ! 頭がカチ割れそうだ!」
ゆっくり体を起こして元気な悲鳴の方を見ると、後頭部を抑えて転げ回るゲンさんがいた。おそらく投擲の際にそのまま倒れたのだろう。というより、倒れながらでも出来る対処法が投擲だけだったとも言えるか。
「大丈夫、それだけ元気なら多少割れてても平気さ」
どこか彼のオーバーなリアクションに影響されて、そんな似非洋画じみたセリフを吐いた。さっきまで苦痛に歪めていた顔を機嫌良さげな笑顔に変えて、馬鹿野郎と言いながらゲンさんは起き上がる。
「しかしどうしたもんか。明かり無しでこの洞窟を進むのは自殺行為だぞ」
そうだ。と、現状の道を塞ぐ問題を思い出す。少数の魔獣が相手であれば彼ならなんとでもしてくれる。問題はあまりに対等から離れてしまった場合だ。数の不利、地形の不利、そしてここから先の視界の不利。たった半身の死骸に蹴躓いた時、僕はその質量に驚いた。体格が違いすぎる。彼が持てる技量を全て注いで屠っていくのに対して、魔獣はその不自然なまでに発達した肢体を振り回すだけでこちらに致命的な一撃を与え得る。彼が下手に踏み込めなかったのは、その理不尽過ぎる差によるものだ。
「そうだアギト。お前さんの鞄になんか飲めるもん入ってねえか。流石に老骨には堪えるよ」
鞄、そういえば出発前に彼女から受け取った荷物があった。確か短剣と、きっと何か回復薬のような薬瓶の入ったポーチ。彼の言葉にようやくそのことを思い出して、急いで留め金を外して中身を確認する。
「どれどれ……ってこりゃあ……」
細く小さな薬瓶は意外にも割れずにその姿を保っていた。とりあえず剣は身に付けておこうと取り出した手を掴んで、ゲンさんはまるで子供の様なキラキラした目で短剣を見つめていた。
「こいつぁたまげた。あの嬢ちゃんやり手だとは思ってたが……まさか錬金術もこのレベルとは…………」
「えーっと……? これはただの短剣じゃないってこと?」
僕は特になんの説明も受けていないが、どうやらこれは特別な逸品らしい。ミラと錬金術についてはボガード氏からも聞いたし、図書館では彼女の黒歴史とも言える著書も見つけている。その際に触りだけ彼女の口から教わりもした。だから錬金術という単語が彼の口から出た時、短剣がスペシャルなのだろうというのは察することが出来る。
「マジックアイテムだよ。魔具とも言うか、とにかく錬金術師の奥義の一つだ。ただ属性を付与したんじゃない、魔術と同等の魔力と属性を込められた道具。携帯型魔術師とすら呼ぶやつがいる程だ」
「携帯型魔術師? 魔道書とかじゃなくて?」
彼の言葉に感じた疑問を素直に口にする。ゲンさんはどこか興奮気味で……うんむ、まさしく新しいおもちゃを前にした子供だ。
「魔道書なんて俺達が持ってても尻拭く紙にしかならねえ。だがこいつぁ違う。お前さんにすら込められた魔力を使うことが出来るんだよ」
「俺にも……?」
それはつまり、俺も足を引っ張らずに戦えると言うことだろうか。実感は中々湧いて来ず、随分時間をかけてから僕は歓喜に震えた。
「……しかし嬢ちゃんも過保護だな。これがあれば嬢ちゃん自身で楽することも————」
「……? ゲンさん?」
さっきまであんなに明るかったゲンさんの顔色が、みるみる青ざめていくのがわかった。彼がぼうっと見つめる先を警戒しながら振り返るも、別に魔獣の姿はない。もう一度彼の方を振り返ると、急いで立ち上がったゲンさんは僕の腕を引っ掴んで歩き始めた。
「ちょ、ちょっとゲンさん! まだ明かりの問題が解決して……」
「うるせえ急ぐぞ! 早く! 早く嬢ちゃんと合流しねえと‼︎」
そういえばそんな話もしていたような。しかしそれは、自分達の身を守ると言う意味での発言では無かったのか? ゲンさんの技量なら魔獣程度は相手にならないし、僕にも魔具という頼れるお守りが……と、口にしたところで、ゲンさんは歩みを止めた。そして歯を食いしばってこちらを振り返った。
「……違う、こっちじゃない。やばいのは嬢ちゃんの方だ」
「ミラが……?」
たしかに彼女のことも心配だが、彼女があんな蛙の化け物にやられるとは思えない。蛇の魔女とやらが大変な強敵であろうことも推測出来るが、彼女が自分の身一つ守るだけでいい状況で負けることなど想像出来なかった。
「いいか、あの嬢ちゃんの魔術は大したもんだ。きっと負けやしねえよ。だけどな、嬢ちゃんも人間なんだ」
「まあ人間離れしてるとはいえ……そりゃあ……」
分かってねぇ! と、ゲンさんは怒鳴った。彼女が人間離れし過ぎていて、僕もそれに過信しすぎている。だからその認識を改めろ、と言うのなら確かに反省すべきかもしれない。しかし、それでも彼女が人間離れした強さなことに変わりは……
「……そういえば、ミラって灯り……」
「灯りは魔術で火を出し続ければ問題ねえよ。限りある魔力を、それもとっくにすっからかんで薬に頼ってる魔力を消費し続ければな」
背中が一気に冷えたのがわかる。魔力を失うと……彼女は死ぬのか? いや、死ななくとも。視界を奪われ、数に対処する為の手段を奪われ、このどこまで続くかもわからない前後不覚の洞窟で、一体どれだけの間戦い続けられる。自分で老爺に対して抱いた筈の感情を今更思い出す。あんな幼い少女に、一体どんな危険を冒させようと言うのか。
「とにかく急ぐぞ。嬢ちゃんも危ねえが、嬢ちゃんが倒れれば次は俺達も危ねえ」
ゲンさんに腕を引っ張られるまでもなく、僕は彼に続いて走り出した。