第二百七十二話
むう……今日は冷えるな。そろそろ秋物を出さね……………………買いに行かねばと本気で思案するべき日が来たか。しかし、だ。そんな悲しくも俗物的な考察は一回忘れて、だよ。我々(?)は重大な事実を観測することに成功したと言えよう。こうしてアラームよりもずっと早くに目が覚めたとことと昨日の出来事とを照らし合わせれば、それは一目瞭然。確定的に明らかなのだ。
「…………妹は…………おっぱいよりも強し…………っ」
あ、これ今の僕が口にすると通報されそうですね。昨日あのクソポンコツの所為で悶々と眠れない夜を迎えるもんだとばかり思っていたのだが、そこは流石僕の可愛い妹。察してかそうでないかは一度置いておくとして、慣れ親しんだぬくぬく湯たんぽを抱きしめていたら寝落ちしていた、なんて事実を観測…………観測…………? はて……? 僕は眠っていてその事実を目にしていない、つまり観測はしていないな。だがしかし、こうして目を覚ましたということは眠ったことの証左であり、眠らなければ目を覚ますことも無いという事実より眠りを観測したと言っても過言では無いのでは? いや、待て。果たして眠らなければ起きないと誰が定義した。これまでの長い長い人類史において、自らの眠りと覚醒をその目で観測、研究出来た人間がいるだろうか。いや、おるまい! 多分。つまりはまだ僕は眠っている可能性もあり、また同時に起きている可能性もあり、いわゆるシュレティンガーのおっさんでありながら、また睡眠という人間の生まれながらにして持っている欲求の一つを観測するにあたってまずは人間がどこから現れどこに消え行くのかというところの定義から…………
「…………何やってんだ、朝っぱらから。早く支度しよ……」
小難しい(?)話はここまで。今朝も今朝とて快晴。予報では曇りって書いてあるけど、雨が降ってなきゃ快晴なんだよ、僕からしたら。むしろ日が照りつけてる方が全然快く思えないんだから、曇りこそ真の快晴と言って差し支えないだろう。だからなんの話だ。
「行ってきまーす」
朝食後すぐに僕は二人に見送られて家を出た。うん、やはり快晴だ。なにせ歩いていても汗をかかない。いや、部分部分は滲み出てるんだけどさ。滝の様に流れ出ないのは有難い。おっさんの汗とかなんの価値も無いから…………
「おはよう、原口くん。一段と涼しくなったねぇ」
「おはようございます。そうですねぇ……もう秋になるんですもんね」
秋、か。秋と言えば僕の季節だ。はい、秋人だけに。だが何も名前に引っ掛けたダジャレだけでは無い。秋と言えば食欲の秋、美味しいものが増える増える。秋刀魚にキノコに、栗系スイーツや焼き芋……ああ、スイートポテトなんかもある。それから……ふふ。うちの可愛い妹はアップルパイがご所望かな? ともかく美味しいものが増えるのだ。いえ、僕は食欲の四季なんで春夏秋冬いつでも美味しいものはウェルカムなんですけど。ではなく。
「秋……だね。栗や芋の商品も考えなくっちゃねぇ」
「そうですよ。ケーキ屋さんならモンブランに芋タルト。色味もいつもには無い独特さが出て目を奪われますからね。ああ……帰りにケーキ屋に寄ろうかな……」
友達に顔出すのも兼ねて、ね。いやしかし、ここはこの店にとっても重要なポイントだ。間違いなく人気に火をつける着火剤に成り得る。今時はほら、SNSでこう、写真映えする商品なんかを扱うと一気にお客さんも増えたりなんかして。今の時代、ただの食欲の秋に留まらず、ハロウィンだのなんだのと大きなイベントもあるわけでございますから。いえ、僕はそんなの窓から見たかどうかくらいなんですけど。ハロウィンの仮装パーティのゴミ問題とかは見たかも、ネットで。
「もしアイデアがあればバンバン出して欲しいな。もうおじさんになるとね……流行って分かんないから……」
「ああ…………っ。なんでそれを僕に振っちゃうんですか…………っ。僕も大概流行とはズレにズレてるってのに…………」
はあ。と、おっさん二人のため息を引き金に、僕らは談笑モードから仕事モードへと切り替わった。いえ、仕事モードになってもお客さんが来ないことには、なんだけど。
その日は久し振りに暇な一日となった。しょうがない、そんな日もある。人気が出てきたとはいえ、それには限度がある。この街の人口の数パーセントがうちのファンになってくれたとして、その誰もが毎日うちのパンを食べたいなどとは考えないし、考えても実行に移さないのだ。というか色々厳しいだろうしね、お金の問題とかあるし。だから仕方ないのだけど…………うぐぐ。
「……こういうの、久し振りですね。ほんのちょっと前まではこれがデフォルトだったのに……」
「はは、まあね。忙しさを体験すると落差を感じるよ。そして……ごめん。これも久し振りだけど、今日は早めに上がって貰うことになりそうだ」
まあ、そうですよね。はあとまた店内におっさん二人のため息がこだまする午後三時、カランカランと入口の呼び鈴がそれをかき消す様に鳴り響いた。現れたのは……流行に強そうな若者の姿だった。
「おっす、アキトさん。店長、もしかして今日暇だった? 随分淀んだ空気が流れてるし」
「あれ、花渕さん。今日はまたどうしたの、随分と……もこもこしてるけど」
いや、普通に寒いじゃん。と、僕を睨み付けたのは、もこもこしたニットのカーディガンを羽織った花渕女子だった。やめろ、おっさんは暑がりみたいな偏見はよせ。いや、たしかに暑がりだけどさ。
「…………丁度いいや。アキトさん借りていい? またちょっと聞きたいことがあって」
「原口くんを? ああ、うん。もうじき上がりだから、本人が良ければ」
え? 僕? なんてとぼけるのは止そう。分かっているとも、デンデン氏のことだろう。全く甲斐甲斐しいものだ、あの野郎許せへん。憧れのパティシエさんがバイト先のおっさんの知り合いとなれば、なんとかしてそこから情報を引き出そうとするものだ、マジで許さんあの見た目だけ男。十六歳の少女のなのだからこういう乙女チックな側面も見せてくれたって良いだろう、本当に覚悟しとけよあのダメ人間。うう……花渕さんに特別好意を寄せられたいとか、そういうわけでは無いけど……羨ましい。僕なんか初対面で結構グサグサ刺されたってのに……
「……だってさ、アキトさん。ケーキのひとつくらいは奢るから、ちょっと良い?」
「いや、そんな……いいよ、この間の約束も果たしてないし。控室でいい? それともどこか別の場所にする?」
ここで良いよ。と、花渕さんは僕の背中を押して、そのまま控室に押し入った。出会ったばかりの頃ならきっと蹴飛ばされてたんだろうなぁ、なんて考えると……仲良くなれたなぁ。
「……さて、と。いや、しかし寒いじゃん……ここ。明日からTシャツ重ね着しようかな……」
「あはは……そんなに? っとと、そういえば聞きたいことって?」
分かっているとも、あの男のことだろう。はあ、まあ……友人だし株を下げる話はしないつもりだけどさ。なんていうかこう……不公平だよなぁ。同じおっさんなのに、かたややっと名前を呼んで貰える様になったばかりのおっさん。かたや最初から高感度マックスでキラキラした視線を送られるおっさん。どうしてこうも差が付いた。顔か……っ。やっぱり顔なのか……っ!
「…………あの、さ。その……本当はあんまりこういうの聞いたらいけないとは分かってるんだけど、さ。どうしてもアキトさんにしか聞けないこと……だったから……」
随分溜めるじゃないか。聞いたらいけない……となると倫理観にそぐわない質問か? えっと……てなると……電話番号を教えて、みたいな。そういうパーソナルについて聞きたいんだろうか。それは教えられないぞ。だって…………僕も知らないし。いや、知ってても教えたらいけないんだけどさ。うう……でも、花渕さんに凄まれたら割と簡単にゲロってしまいそうだ。
「………………ごめん! やっぱいい! やっぱ……ダメな気がしてきた……から…………」
「え、ええ……ここまできてそれは逆に気になるやつ。いったい何が知りたかったのさ。せめてそれだけでも……」
おしえてよー、うふふ。おいそこ、キモいとか言うな。乙女心に揺れる花渕さんを見て楽し……げふん。心から応援しようと思っているからこそ、それこそ本人にさりげなーく、さりげなーく色々聞いて情報を横流しするくらいはやってやるさ。可愛い後輩の頼みとあれば仕方ない。おい、舎弟とか言うな。パシられてるだけとか、逆らえないだけとか言うな!
「…………わ、分かった。その……ごめん、アキトさん。嫌だったら……何も答えなくて良いから」
「あはは、分かってる分かってる。答えられる範囲ならなんでも答えるから、ドーンと来なよ」
じゃあ……と、花渕さんは俯いて、ゆっくり息を整えるとまた僕を見上げて少しだけ辛そうな顔をした。
「……アキトさん、さ。学校に行かなくなって……家に引きこもってた間、どうやって時間を過ごしてた……?」
「…………え……?」
ぎゅうと胸の前で両手を握って、彼女は肩を震わせながら僕に問いを投げかける。だがそれは、思いもよらぬ質問だった。




