第二十七話
蛇の魔女。と、そう言うものだから、てっきり蛇の頭を持った魔獣を従えていると思った。僕はゲンさんにそう言った。俺もそうだ。まさかこんなねぐらまで来ることもなかった時分には、蛇をわらわら侍らせた蜥蜴人間みたいのを想像してたよ。ゲンさんはそう答える。薄暗い洞穴に飛び込んでからもう何十分歩いたろうか。ゲンさんが持ち込んだランタンの燃料を気にしながら、僕らは呑気に雑談を楽しみつつ四足歩行していた蛙の様な魔獣が転がっている道を進んでいく。
「しかし楽でいいなぁ、こりゃ。酒でも持って来ればよかったな」
「アンタたちねぇ……」
丸焼きになった蛙を投げ捨てながら、彼女は振り返って僕らを睨みつけた。違うんです、別にサボっているんじゃないんです。
「仕方ぁねえだろう。こんなに狭くっちゃ並んで戦うなんて出来やしねぇ。そんでもお前さんの前に出てそこらのと一緒に焼かれたんじゃたまんねぇ。この陣形が最良で最速なの」
そう、僕らは狭い洞窟の中にいる。彼女はずいぶん調子を取り戻したのか、撃つは雷霆払うは白炎、寄り付くものには殺人蹴り。と、僕らに出番など回って来そうにもない。ゲンさんの言った通り、彼女の邪魔にならない事だけが今出来る最高の貢献であった。
「……もう。いいけど後ろは見張っててよ?」
はーい。と、子供の様な返事をする。情けないとももはや思えない領域まで来た気がしたが、今は甘んじて受け入れよう。彼女に何かあった時に対処する。現状、僕に出来るのはそんな心構えを持つ事だけだ。
それから何度分かれ道を通り過ぎただろう。僕らは彼女を先頭に歩いて、歩いて歩いて歩き続けて。かれこれもう一時間は進んだ筈だ。
「…………二人とも、ちょっといいか」
流石に僕らに当初の余裕は無い。神妙な面持ちでゲンさんは僕達を呼び止める。
「何か気付くことあった?」
切らし始めた息を整えながら、ミラは僕ら後衛の元へ戻ってくる。そろそろ彼女の限界を考慮して進む必要がある。と、きっと彼も感じたはずだ。
「…………悪い、ちょっと小便して来るから待っててくれ」
轟ッ! と、炎が立ち上がった。否、これは魔術ではなく彼女の怒り…………イライラによる敵意の炎だ。ふざけている余裕がまだあったことには感心するが、出来れば時と場合はわきまえて欲しい。物陰に走っていく後ろ姿に僕はそんな愚痴をこぼしたくなる。
ゲンさんが戻るとすぐにまた歩き始めた。どうあっても似通った景色の連続で、恐らくは彼女が一番参っているだろう。もう何十頭もの魔獣を打ち倒しているというのに、角を曲がる度、分かれ道を進む度にそれは新たにやって来る。
「………………二人とも、ちぃといいか」
あれからまだ一時間も歩いて無い…………いや、歩いているのかもしれない。もう時間感覚など麻痺していたが、流石に短時間で二度目なのは見かけによらずやはり歳は歳という事だろうか。
「ちょっと、小便にな」
腰に携えていた剣の鞘で壁をほじり返しながらそう言った。なんなの、そこらには出来ないタイプなの? 意外に繊細なの? そんなことを考えていたのはそこから小さな金属片が出土するまでのことだった。
「……やべぇな。もう術中だったってわけだ」
その小さな鉄板を、彼は着ている皮鎧の、何かを剥ぎ取った様に欠けた部分へとあてがってみせた。
「……単に迷路って訳でもあるめえ。蛇の魔女の魔法か何かが作用しているってところか」
不安感からなのか、あるいは不信感か。胸が苦しい。今の僕の安心感というのがミラ一人の強さに依存したものであるが故に一層感じるのだろうが、彼女が手玉に取られているという事実に膝を折りそうになる。蛇の魔女という安直な名前の意味を、僕は理解出来ていなかったのだ。と、勘違いから来ていた余裕が、一転してプレッシャーとなった。
「……それについては想定内よ。この洞窟に細工がされてるのは予想してたし、ここに来て確証も得てた」
「ほう?」
それは僕を見かねた彼女なりの虚勢なのだろうか。つい悲嘆に暮れてそんなことも過ぎったが、彼女の姿は至って冷静に見える。
「魔女って異名の時点で結界は警戒していたわ。後はそれがどんなカラクリによるものなのか……よ」
そう言って彼女はゲンさんの手に提げられたランタンを指差した。
「あれだけ派手に燃やしまくって奥に進んでいるのに、まだ酸素が尽きる気配は無い。となれば、この洞窟は何かしらの理由で空気の回りがいい構造をしているのよ」
うん……なるほど? と言うことは、だ。
「もし空気の回りが悪かったら……?」
「アギトが倒れてるから、その時はすぐにわかるわよ」
鬼! 悪魔! 人をモルモットみたいに言いやがって! しかし彼女の言うことは一理ある。この洞窟には安定して新鮮な空気が供給されているのだから…………だから?
「酸素を発生させる何かがある。空気を取り込む何かがある。そもそもこの洞窟が幻でここは屋外である。さ、どれだと思う?」
「案外俺たちゃみんな蛇の毒にやられて酩酊している、ってのもあるかもしんねぇな」
ノリが軽い! なんだこの危機感の無さは! と、自分だけが慌てている状況にふと希望を見出した。そうか、もう二人は答えを分かっているんだ。僕があんまり不安そうにするもんだから、からかって緊張をほぐそうとしているんだな! ははっこいつらめ、にくいことするじゃないか! そうだよね? からかってるんだよね? 本当に追い詰められたりしてないよね⁉︎
それは突然の出来事だった。二人の言葉に不安を問い合わせようとした時、洞窟が——いや、もっと大きい。山全体が揺れている様な衝撃が走った。
「……マズイッ! 噴火か⁉︎」
「…………違う、これは……ッ⁉︎」
地鳴りはどんどん大きくなり、僕の視界は真っ二つに割れた。足元が押し上げられている……? 違う! ミラと僕らの間で地面が裂けて、向こう側だけ沈んでいっている!
「〜〜ッ⁉︎ ミラ!」
彼女を引っ張ろうと伸ばした腕をゲンさんに止められる。地滑りか⁉︎ そんな筈がない、これが……これこそが洞窟の謎だ!
「組み替えてやがる! 離れろ! 地面に食い千切られるぞ!」
ゲンさんに抱えられて諸共に尻餅をついた。僕達はなすすべもなく分断されてしまったと言う訳だ。
「急ぐぞ坊主! なんとしても嬢ちゃんと合流するんだ!」
そうだ、彼の言う通りだ。ともかく彼女と合流しなくては。僕ら二人であることも十分に問題だが、彼女一人であることの方が一大事……だ……?
「いそげ坊主……おい、坊……アギト?」
ガチガチと耳元で何かが煩く鳴っている。地鳴りの残響だろうか。ならばこの震えも地響きの名残か。なら問題ないはずだ。さあ早く彼女の元へ急ごう。
「おい大丈夫か! アギト! アギトッ‼︎」
さっきまで蒸し暑かった洞窟の中が、急に凍える様な寒さに変わる。ゲンさんの声は聞こえる。僕を揺さぶっている、肩を掴んでいる手もわかる。ならばなぜ、僕に彼の姿が見えない。
足音が聞こえた。べちゃべちゃと砂をまとわりつかせながら近づいてくる、湿った太い脚が地面を叩く音だ。一瞬にして視界は取り戻され、僕はやっと理解する。ミラとはぐれてしまって直面する死の恐怖と、恐怖の本当を理解していなかったこととを。
「——ァアギトォッ‼︎」
ガーンと文字通り金属を叩いた音が洞窟の中にこだまする。視界に映るのは老騎士の大きな背中と、さらに大きな魔獣の姿。遅れてやってきた頭の痛みに、やっと自分が殴られた時の音であったと理解する。
「切り抜けるぞ! 俺じゃあ嬢ちゃんの様には行かねえ。自分の身は自分で守れ!」
ばしゃっという水音にも掻き消されない男の声が耳に届く。一太刀で真っ二つに割られた魔獣が僕の両脇に、沼にでも落ちた時の様な音を立てて墜落した。そうだ、彼こそはミラを激昂させ、あまつさえ歩くこともままならなくさせた…………そっちじゃない! 彼女の本気の一撃すら容易く受け止めてみせた歴戦の騎士。あの時はいろんな意味で目を疑ったが、これほど頼りになる存在はそうそう居な…………
「まずは花も恥じらう乙女の構えだ! 尻は構わん! 胸と股を、体の正面を可能な限り覆い隠す生娘の心になれ——ッッ‼︎」
こんなクソジジイが頼りになってたまるか——っ! 無情にもゲン老人の何度も聞きたくないどうしようもない教えが、この死地にこだまする——