第二百六十七話
「……これは…………酷いね。ミラちゃん、アギト。この傷に見覚えはあるかい?」
案内された村に着いて早々、マーリンさんは眉間にしわを寄せてそう言った。目の前に広がっていたのは、鋭利な刃物で切りつけられた様な——それもかなり乱暴に痛め付けられたらしい、ボロボロになった木造の家々だった。傷の形状、高さ、向き。それらを具に確認していく。あの時相手取った魔獣はとても大型だったとは思えない。もしも大型だったならば、僕はこうして生きてなどいない。踏み付けられても生き長らえた、叩き伏せられても凌ぎ切った。僕もミラも、アレは中型……人の子供くらいの大きさの魔獣だっただろうという結論を出した。そして……
「…………そう、か。なら……この傷の具合を見るに、ほぼ間違いなくそれの仕業だろう。まったく、レイガスの奴。後始末もせずに……」
傷が多く見られるのは僕らの腰から胸にかけての高さ、それも殆どは肩口のあたりから振り下ろしたか腰のあたりから振り上げたかといった抉れ方だった。大丈夫。いくら制限が掛かっているとはいえ、全く戦う手立ての無い状態でもミラはアイツらを捕捉する方法を見つけている。強化魔術さえ使えるのならコイツは負けない。問題なのは……僕の方。
「……見えないってことは魔弾なんて使えないよな…………ふーっ、腹痛くなってきた……」
僕はもうひたすらに逃げ回るしかない。だが、逃げ回るといってもどこへ行けば安全かというのすら分からない。ミラの足を引っ張らないことすら困難な状況が予想される。マーリンさんはどうなんだろう。街に被害が出ない様に、周りの人を……ミラを始め、住民を巻き込まない様に見えない敵と戦う手段を持ち合わせているんだろうか。
「マーリン様。相手の居場所が分かっているんですから、こちらから乗り込みましょう。ここで戦えば被害が出ます。それに……」
「…………分かってる。でも、乗り込むには情報が足りなさ過ぎるね。なら、打つべき手はふたつ。情報収集と、迎撃に備えて住民の避難だ。アギト、彼らと一緒に残っている住民を何処かへ集めてくれ。ミラちゃんはこのまま現場検証、魔獣の数と傾向を調べるよ」
何処かへ、と言われても。動きあぐねている僕に、痩せ型のふたり組は空の食料庫を使おうと提案してきた。うん……なんていうか、助けに来たのに全然役に立たなくて申し訳なくなるな。
「食料庫にみんなを集めたとして……そこからどうするんだろう。マーリンさんが結界を張るとかかな……?」
「結界……? なんだ、あんたら何処かの巫女様かい。こりゃ天の恵みって奴だなぁ、地母神様は見捨ててなんかおらんかったんだ」
地母神…………っ? なん……で……? なんでその名前が出る……っ! 背中に嫌な汗が吹き出て来たのが分かった。まさか……ゴートマンだけじゃない、あの人も……レアさんもこの一件に関わって…………っ。
「ああ、地母神様。ずっと前に王都に連れてかれちまったけんど、今でもきっとこの村のことを祈ってくだすってたんだ。そういうお方だった、慈悲深いお方だったんだぁ、あの方は」
「その……地母神様って…………どんな方だったんですか……?」
男の答えに僕の頭は更に混乱した。体は細かったけど、賢くて優しい少年だったよ。男達はそう言ってにこやかに頷いていた。まるで遠い昔の思い出でも語る様に、二人は腕を組んでその少年を褒める言葉を並べていた。
「…………少年……だった……? でも、地母神って……」
「ああ? ああ、そりゃあ母神様だからって女とは限んねえよ。父神様への祈りを、みんなの祈りを代表して届けるのが母神様だ。男か女かじゃねえ、選ばれたってのが重要なんだ」
選ばれた……? だって……いや、待ってくれ。だって、地母神様って……地母神ってのはハークスの……っ。ああ……どうなってんだ……っ? 頭の中がぐちゃぐちゃになった気分だ。そんな僕を見て不安げに心配してくれるこの人達に、地母神というのが何なのかと問うわけにもいかない。だってそれは……レアさんは…………っ。
「アギトーっ。手伝うわよ、どこへ案内すればいい?」
「おう、娘っ子も手伝ってくれるのか。めんこいなぁ。村がこんなでなければ、たらふく飯でも食わせてやるのに」
全部片付けた暁にはご馳走になるわ。と、ミラは孫でも見るような目をしている男達に笑いかけ、空きの食料庫のことを聞くとすぐに僕とは反対方向へと飛んでいった。ミラに……ミラが地母神様の話を聞いたらどう思うだろう。もうずっと前のことの様に話していたし、もしかして先代の……? となると…………っ。ミラの……姉妹の両親の…………? そういえばミラの両親は…………
村中を練り歩いて、逃げたくても逃げられなかったのだろう、足の弱い怪我人や老人ばかりの村人達を食料庫に避難させる。それが終わると、僕ら三人はまた村の入り口へと集まっていた。
これからどうするか……ここへやって来るであろう荒くれ者集団をどう捕らえるか、見えない魔獣にどう対処するかという話し合いの為に、出来るだけ住民から離れた状態で——刺激しない状況を作る必要があったのだ。
「……さて、村人には聞かれない様に、悟られない様にサクサクと話を纏めようか。立ち向かうだなんて知れれば、バカなことはやめろと言われるのがオチだからね。逆らわなければこれ以上酷いことにはならない。虐げられて麻痺した心が到達する最低の解さ。この村は放置出来ない。仮にも勇者の仲間としてはね」
「同意見です。それに、あの見えない魔獣が関与しているのなら、それは私の落ち度でもある。あの時きっちり仕留めていればこんな被害は出なかった。奪われた食料も、荒らされた畑も。逃げた人達も戻らないけど……せめてこれ以上傷付くのだけは……っ」
そうだね。と、マーリンさんは微笑んで、拳を震わせるミラの頭を撫でた。そうだ、こういう人達を救う為に、ミラは廃村や潰れた街を無視して来たのだ。その先で震えている人達の為に、薄い薄い可能性でも生存者がいるかもしれないという希望を振り払って来たのだ。その覚悟を忘れてはいけない。何より……もう、間に合わなかったという思いをさせてはならない。
「結論から言おう。この一件、君達に任せる。見えない魔獣というのは僕も見たことが無い。見えないのに見たことが無いってのも変な話けど、君達は二度それと接触していると言うじゃないか。なら、その対処は君達に委ねよう。僕は食料庫を、住民を全力で守る。これで被害者が出たんじゃ僕らはただの出しゃばり、余計なことをしただけの厄介者となってしまう」
「……分かりました、任せてください。アギト、アンタは——」
アギトも前線だよ。と、マーリンさんはミラの言葉に割り込む様に言った。分かっている、僕だってハナっからそのつもりだ。ただ……やっぱりミラはそれが気掛かりな様子で、何か言いたげにマーリンさんを見つめていた。
「もう、何度も言うけど君のそばが一番安全なんだ。それに…………いや。アギトの安全の為にも君の手の届く範囲に。そして、君の安全の為にもアギトの手の届く範囲で。お互い、無茶するときはちゃんと相手の側にいる様に」
はい……と、ミラはしょぼくれたまま頷いた。ミラの安全の為に、か。ミラを守った試しなんて無いんだけど、それでも魔力切れで動けなくなったミラを背負った回数は誰にも負けないさ。いつ来るかも分からない、出来れば来て欲しくないミラの窮地に備えるのが僕の役目、か。
「………………そうだっ⁉︎ ミラ……その…………あの…………」
「……? ど、どうしたのよ。そんなに慌てて……」
いや、あの……その、だな。どう切り出そうか。地母神様が……ミラの……両親かも知れない人が……この村に……っ。もしかしてこの村とハークスには所縁があるんだろうか。でも……アーヴィンは代々ハークスが治めてたって……? ああ、もう! ダメだ、頭がこんがらがって来た。
「……その、さ。さっき……聞いたんだ。地母神様が居たって……王都に連れて行かれたって…………っ。その…………それって……お前の…………」
「はぁ? そりゃいるわよ、地母神くらい。何言ってんのよ」
はい…………………………はい? いや、地母神くらいって……地母神くらいってお前っ⁉︎ 地母神様だぞ⁉︎ 分かってんのか⁉︎ 人造神性。ハークスの長。少年と言っていたし昔の話だろうから、少なくともレアさんではないにしてもだな…………
「…………はぁ。アギト、アンタどんだけ田舎にいたのよ。地母神ってのは、ちょっと大きい街やら信仰心の厚い……昔っからあるような村にはどこでも一人はいんのよ。本来は宗教的な存在なんだし、当たり前でしょ? こんな遠くからアーヴィンに祈ってどうすんのよ。ていうか、それなら最初から父神の方に祈りなさいよ」
「…………………………はい? あの…………えーっと…………? 一体どういう…………?」
なに、アンタそんなにバカだったっけ。なんてとても辛辣なお言葉を頂いた。えーっと……? どゆこと? というか貴女、平然と地母神様のこと呼び捨てにするじゃん。父神の“方”ってお前っ⁉︎ めちゃくちゃ口悪いっていうか……あれ? 毎朝お祈りしてたじゃん。あれ……なんだったの? お前、本当は全然信心深くないんじゃないの⁉︎ っていうか、よく考えたら地母神様……えーっと、この場合レアさんだ。レアさんと神官……ああもう! そういえばこれも身内だ! お姉さんとおじいさんの前でめっちゃ悪態ついてたわ! 信仰心皆無だこのバカ!
「……あのねぇ。地母神ってのは信仰の代表なの。そりゃあ……うちは…………アーヴィンはさ。悪用しちゃってるけど……」
「悪用。今、悪用と言ったかね⁈ え……? ちょっと……? ちょ、ちょっと待って⁉︎ 一回全部最初から説明して⁈ 地母神様って……父神様って……⁈」
めんどくさいなぁ。なんて懐かしの悪ガキフェイスで悪態をつくミラに、なぜか僕の心が痛くなって来る。え……? もしかして……もしかして、よ? お前……お風呂入る為だけにお祈りポーズ取ってたって言うんじゃないだろうな⁉︎
その後ミラの口から説明されたのは、この国の信仰体系について。一番上に父神がいて、それをみんなで崇めるにあたって、代表を各地で選出し始めたのが地母神の始まりだそうで。ハークスはそれを……まぁ、罰当たりなことに、統治に利用したのだとか。カモフラと信用の為に、地母神という名前を勝手に使った罰当たり家系。それが……
「…………まぁ、遠いご先祖様の話だし、実感は湧かないけどね。少なくとも、結界を張るようになってからは特に都合良かったんじゃない? 地母神様の加護ってことにしとけば、みんなありがたがるし。街の結束も強くなるんじゃないの?」
「……………………いつかバチ当たるぞ、お前…………」
そうか…………アーヴィンって…………結構特殊な街だったんだな。まさかこんなに離れた場所へ来て故郷の異質さを知る羽目になるとは思わなかった。ていうか、人造神性の神性って……地母神関係無かったんだ。そうか……じゃあ、あの小さな可愛らしいシスターさんも、優しい神父さんも。毎日お祈りを捧げてる街の人々……ロイドさんも含めて全員。全員…………似非宗教団体ハークスに騙されてんのか。知りたくなかったなぁ……それは…………はぁ。




