第二十六話
ようやく下山を終えたと言えるくらいにはなだらかなところまで降りて来た。背負った少女の軽い体とは裏腹に、足取りは重く苦しい。今、僕は一人で歩くこともままならない彼女を死地へ追いやろうとしているのではないか——。何度振り払っても、二人の老人の顔が浮かんで僕に問いかける。
彼女を背負ったまま街中を抜けるのは些か人目が気になったが、そうも言っていられる事態ではない。彼女のことは勿論心配だが、ゲン老人の元で従事していたと言う若者達も心配だ。僕では彼らを救い出せないが、ミラの力ならそれも叶うだろう。彼女はそれだけの理由で戦おうと言うのだから、僕が取るべき選択は一つっきりだ。
「……ありがとう、降ろして。もう大丈夫よ」
耳元でそんな囁きが聞こえた。僕がそれを聞いて、それから彼女を降ろそうとするのも待てないと、彼女は僕から体を離して飛び降りるようにまた両足を地面につけた。
「っくぅ……ほんと失態だわ」
「本当に大丈夫か……?」
さっきまでよりは達者な出で立ちで痺れるのであろう脹脛をさする彼女に、僕はそんな気の利かないことしか言えない。きっと情けない顔をしているだろう僕に、彼女は屈伸運動しながらニッと笑ってみせた。それは強がりでもなんでもない、いつも見る無邪気な顔の様に思えた。
「勝手に怪我したんだし、痛いなんて言ってられないでしょ。大丈夫、いざとなれば秘策もあるわ」
秘策って? そう聞き返すと彼女は珍しく、小狡そうな笑い方で内緒とだけ言って歩き始めた。ああ、そうか。魔獣の群れ程度なら、あの爆撃とも呼べる炎の魔術でなんとか出来るのだろう。では……彼女が案じているのは、目的の本命——蛇の魔女への対処だろうか。魔女と言うくらいだから、もしかしたら魔術に精通している、それこそ彼女の魔術すら対処されかねない魔女なのかもしれない。と、知りもしない敵についてあれこれ思案してみる。
「ほら、急ぐわよ。なんども言うけど、今日中にはカタをつけるんだから」
そう言って彼女は少し駆け足で坂を下り始めた。さっき歩くのもおぼつかない様子だった筈だが……と、彼女の体力に苦笑を浮かべる。同時に、帰ってきたその明るさが情けないことにとても頼もしい。きっと無事成し遂げられる。と、少女の背中を根拠に考えてしまうのは悪いことの様にも感じた。
段々駆け足が速くなっていって、僕らはあっという間にまたあの門までやってきていた。下りということもあるのだろうが、僕が息切れを起こすくらいで済んでいるあたりやはり彼女は本調子では無いのか。安心と不安の間でフラフラと針が揺れるのがわかる。少女の体調一つにいつまで一喜一憂しているんだ。と、僕は少し強めに自分の両頬を叩いて気合いを入れる。彼女に何かあれば引きずってでも離脱する。彼女だけは何があっても守る。もう一度心の再認識をした。
「…………待ってくれ」
背後から声が聞こえた。振り返らずともわかる、それは息を切らせたゲン老人の声だ。僕も、きっとミラも、ゆっくりと振り返り、その姿を見るまでそう思っていた。
「…………悔しいよなぁ。昔っから、王都にいた時からそうだった」
それはあの浮浪者の様な男の姿ではなかった。髪をきっちり首の後ろで纏め、無精髭も丁寧に剃ったのだろう。随所に金属板を縫い合わせた皮の鎧を身に纏い、腰に両手剣を携えた姿はまごう事ない騎士の装いだった。僕らの前に立っていたのは、クソジジイとしてあのボロ屋に寝転がっていた男ではなく、何かを決意した老騎士だった。
「若えのを育てても育てても、お上は十把一絡げに掴んで戦地にばら撒きやがる。帰ってくるやつなんて多くねえ。帰って来ても、体も心もボロボロで。あぁ、脚をダメにしたやつもいた。」
男は震えながら心の内を吐露する。もしかしたら彼は今、さっきの僕の様に恐怖や不安に駆られる自分を奮い立たせる為に、その悲しい記憶を怒りとして呼び戻しているのかもしれない。きっと忘れたかった記憶なのだろうというのは、その震える拳と浮かべた涙から窺えた。
「恥を忍んでアンタらに頼む。俺と一緒にアイツらを、大事なヒヨッコどもを助け出してほしい」
膝をついてこうべを垂れる彼に、気付くと手を差し伸べていたのはどうしてだろう。というかこれは彼女の役割な気もしたし、少なくとも彼が頼りにしたのは彼女だろうに。勝手に出しゃばってしまった……と、考えていたのは、彼が嬉しそうに僕の手を取るその直前までだった。
「……さ、行くわよ」
落ち着いた口調でそう言った彼女の背中は、どこか上機嫌に見えた。また門番に話を通し、大きく口を開いたその入り口から僕らは駆け出し————
「急ぐわ! 二人とも食いしばって‼︎」
そう聞こえてからはすぐだった。ミラは僕とゲンさんの手を掴むと何か小さく呪文を呟いてそして……
「——うおおぉ⁉︎ ぉおおおおおお⁉︎」
「——でぇえええ⁉︎ 飛んッッ⁉︎ 飛んでる——ッ⁉︎」
間抜けな声を上げる僕らを引っ張って、彼女は空へ飛び上がった。いや、跳び上がったのか。バチバチと彼女の柔らかい髪がスパークしているのが見えた時には、僕らの体は低空飛行にも似た軌道を描いて街から一気に遠くまで連れ去られた。
「この——ッ! 相変わらずデタラメな嬢ちゃんだなぁオイ‼︎」
少女の背中にうっすらと翼の様なものが見える。これも魔法か魔術か、詳細はわからないが彼女の研鑽された能力なのだろうか。まるで空を駆けるのが当然と言わんばかりのその姿に、僕はもともとそういう幻獣の類なのではないかと、彼女の正体に大きな疑問を抱く。
「ぉおおお! 嬢ちゃん止まれ! 団体さんが——」
「——爆ぜ散る————」
僕らが、いやゲンさんは先にその群れに気付いたかもしれない。しかし僕がそれに気付いたのと、頭上に真っ白い炎球が隙間なく発生したのを確認したのはほんの僅かの差も感じさせなかった。そして僕が自分の視界の広さに……違った。地面の遠さに気付いたのは、落下を体で感じ始めてから——群れなどとうに吹き飛んだ後のことだ。
「……オイオイ、冗談だろ…………」
もはや人間爆撃機だ。空を駆り、地を焼き尽くすその姿を見て、僕はそんなありきたりな感想を思い浮かべる。彼女に搭乗、もとい運搬され始めて少しもすると街の外周を半分も来て、僕らは山の麓——幾重にも連なる迷宮の入り口を無数に開いた、さっき見た猿型狼の魔獣とは別の魔獣の巣————蛇の魔女の根城の前に降り立った。
「……ぷはっ! ほら、モタモタしない!」
ポーチから小さなガラス瓶を取り出して、彼女は薄く赤みがかった液体を飲み干してそう言った。その絵面は、どうもポーションで体の調子を整えている様にも見えなかったが、果たして……
「嬢ちゃんそれまさかエリ……」
「いいから入った入った! 時間無いわよ!」
何か言いかけたゲンさんもろとも僕らの背中をグイグイ押して、彼女は虎穴……もとい蛇穴に飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと。さっきからやたら時間気にするけど、何かあるのか?」
さっきから、と言うかゲンさんの小屋だったものの横で聞いてから、ずっと気になっていた疑問を口にする。ゲンさんもうんうん頷いて彼女に説明を求めていた。
「……早く帰らないと…………溜まるのよ……」
溜まる? 僕はいかがわしい方に頭が行ったが、それだけは口にするまいと振り払った。きっと口にすれば重い一撃をボディにもらうだろう。たった今、別に男なら連れてんじゃねえか。などと口走ってしまったゲンさんのように。
「仕事がッ! 仕事が溜まんのよッッ‼︎ アンタも他人事じゃないのよ!」
思っていたよりもしょうもない事情だった。まぁ彼女にとって……いや、違うのでは? もしかして、というか確信を持ってこう言える。
「……あー、俺のせいか」
そういえば彼女に魔獣退治と市長の両立を出来ると言ったのは僕で、出来るだけ手伝うと言ったのも僕で。忘れかけていたが、彼女がとても忙しいと言った市長の、その秘書をやると言ったのも僕だった。
彼女は彼女で多くのものと戦っている様だだ。悲壮感漂う声色からそんなことを察し、僕らは少しだけ探索の足を早めることにした。