第二百五十九話
今日はーっ。バイトもーっ。おやすみなーのさーっ。ということで、だ。
「ふむふむ……これは熱い展開ですなぁ」
デンデン氏にフラれて朝からゲームというわけにはいかなかったが、ならそれはそれで好機! と、僕はデンデン氏作の携帯小説を読み耽っていた。ふんふん……ふふ。あいかわらずドロシーちゃんへの愛がうるさいね。
「……はぁ。どこかに落ちてないかなぁ……おどおどしてて、それでいて意外と芯がしっかりしてて。華奢だけど頑張り屋で活発な銀髪美少女。はぁ…………いいよね、銀髪。いや、僕は黒髪清楚お姉様がタイプだけど」
異世界に行く。という題材の物語は、とても感情移入しやすくて良い。そう思っていた時期が僕にもありました。だけどね……そう、だけれどもだよ。いないんだ、ドロシーちゃんみたいな小動物系美少女の知り合いが。だから…………だからこそなんだろうね。焦がれてしまう……っ。噛み付いたりしない、馬車馬の様に扱わない、それから自分の武器を有効的に使って人を自在に扱おうだなんて悪い考えに至らない。いえ、あれは本当にご褒美でした。ごほんごほん、失敬。こう……いいよね……っ! 小動物系…………っ。甘えられたい、頼られたい。いえ、甘えられてはいるんですけれど。そういうんじゃなくって…………もっとこう、お淑やかー、な。慎ましやかー、な。いえいえ、慎ましやかな体ではあるんですけれどね。
「ふう、流石に一気に読むと疲れるね。うーん……いっ……でててて。肩が……うう……」
体が固まるほどの長い時間、寝っ転がったままスマホの画面を眺めていたのか。うん……でも、きっとひと月前ならこれも平気だったんだろうなぁ。前に進んだ証ではあるんだ、これも。しかし……思ったより進まないな。僕は基本的に一話一話をしっかり読み込んで、伏線とかの確認の為にソコソコの頻度でがっつり読み返したりするからなぁ。うん……全然進まない。と言っても、もう半分近く進んだんだけど。
「さーて、今日のお昼ご飯はどうしようかなぁ。たまには自分で作るからって言った手前、レトルトのゴミ残しておくのもなんだか……ね」
とりあえず材料の確認だ。と、冷蔵庫を開け……さて、この食材達で何が出来るんだろうか。と、冷蔵庫を閉じ。わーい、アイスまだあったー。なんて間抜けなことを思ったのは、すぐ次に冷凍庫を開けた時のこと。小学生の夏休みか……っ!
「はー、でも今日は熱いよねー。そうめんとかうどんとか、茹でるだけだしそれくらいなら………………っっ⁉︎」
何か…………何かがおかしい……っ。なんだ……今のおぞましい気配は……っ。どこかに何かがいる……? いや違う、もっと近い……僕の中……? 何かが起きている……何か、とんでも無いことが僕に起きている……? この平和な世界にいる時間と、平和では無い世界で冒険をしている時間とは半々。もうこちらでも、気配を感じ取るだとか危機を察知するだとか、そういった妹譲りな能力は多少程度でも育っている。嫌な気配が……一体どこから…………っ。
「…………まさか……賞味期限過ぎてたとか……? いや、でもアイスに賞味期限ってあったっけ……? 冷凍だし、そういうのは………………ッッッ‼︎」
ああ……全てを悟った。全て…………くっ。そうか、これはこの生活とは関係無い、今までのツケというやつだ。秋人として積み上げてきた、ただ漫然と、乱雑に積み重ね過ぎた年月に起因する問題。二口目を食べた時、口腔内の激痛に僕は一瞬意識を失いかけた。
「————っは——くそ——っ————これは——」
僕はそのままアイスにラップをかけて冷凍庫に戻し、すぐ電話に手を伸ばした。ああ、これは必然のトラブルだったのだろう。僕は……長年をかけて積み重ねたであろう凶悪——虫歯を治療する為に、歯医者さんへと電話をかけたのだった——
アルコールのツンとした匂いが漂っている。アルコールかな……? 分かんないけど、消毒液の匂い。それと……
「はい、えー……シー、シー……一つ飛んでシー……二十八までシー。上行きます」
シー……? なんだろう、海かな? それともいわゆる男女のエービーシー的な……? もう、お盛んねぇ、なーんて。いえ、童貞ですけど。まあ、普通に考えたらアルファベットのシーだよね。ってなると……キュートのシーかな? うふふ、お兄さん可愛い歯してるね、みたいな。そんなわけあるかい。多分あれだ……いまひとつ飛ばされたやつ以外…………虫歯ってことだ…………
「久しぶりに来たと思ったら、もー……大所帯になっちゃって。アキくん、これじゃあ入れ歯になっちゃうよ」
「あ、あはは…………すみません」
子供の頃から……いや、子供の頃だけ、と言うべきか。馴染みのある先生にそんなことを言われてしまった。うう……お久しぶりです。でもね、違うんです先生。歯磨きはね、してるんですよ。ここ二ヶ月弱は。
「じゃあ、今日は奥歯だけ治療しようか。染みたのは右の奥歯でいいんだよね。いやー、これは痛いよー。深い所まで穴が空いちゃってるもん」
「うぐっ……そんなにひどいんですか。うう……お願いします…………」
麻酔打つよー。と、気軽に言ってのけ、先生はおっかない形の注射器を僕の口の中へと突っ込んだ。やめて……そんなおっきいの入んないよぉ……らめぇ! ゔっ…………うぐっ……………………
「はい、痛かったらごめんねー。すぐだからねー」
ちくりと歯茎に何かが突き刺さった感覚が走ると、すぐに口の奥の方だけがじわじわと熱くなってきた。うう……この感じ、苦手なんだよなぁ。感覚は無いはずなのに、むしろ熱っぽく感じると言うか。無いはずの感覚が何かを感じ取っている様な。あのチビ助の第六感ってこんな感じなのかなぁ。だとしたら……それは羨ましくないなぁ。
ギュイィーンなんて音が聞こえてからは、もう何も覚えていない。ああ……本当にただの恐怖でしかなかった。もう一度部屋から出られなくなるより、危険極まりない魔獣なんかより。兄さんがまた倒れたり、大切な妹が悲しむよりはマシだけど。それでも……鍛え上げられた今の僕のメンタルを持ってしても耐えられるモノでは無い、そういう根源的な恐怖。高速回転してる金属工具が口の中に突っ込まれてるんだ、そりゃ怖いって! 泣かなかっただけ褒めてくれよ!
「はい、じゃあ次回は来週の月曜日に。お薬出てますので毎食後に一錠ずつ、一日三錠ずつ服用してください。ケンくんとお母さんにもよろしくね」
「はい…………お世話になります…………」
子供の頃憧れた、綺麗な白衣のお姉さんも——もしかしたら僕のお姉さん好きはここから…………いや、普通に幼馴染系ヒロインとか、後輩系ヒロインがど真ん中だった時期もあったわ。うん、そういうんではない——単に優しいお姉さんとして認識していた受付のお姉さんも、もうオバ………………お歳を召して落ち着いた様だった。薬指の指輪跡に何か勘繰ってしまうが……単純に金属類は外さなきゃいけないんだろう。衛生面とかね、厳しそうだし。下衆な話は無しにしよう。
徒歩二十分、運動も兼ねて遠回りして家に着いた頃、もう一度地獄は襲って来た。分かっていた……っ。麻酔はまだ切れたわけじゃない、だが……っ! じくじくと……来ている…………っ! 鈍痛……っ! 奥歯から聞こえる悲鳴……その氷山の一角…………っ! 怨嗟の声……亡者の咆哮…………っ!
「おっ…………おぉぉ…………いてぇ…………笑いごとじゃないぞこれ…………」
完全に麻酔が切れたら、一体どうなってしまうんだ……? そんな恐怖を払拭するには、やはり娯楽に打ち込む他に無い。ご飯なんてもういらない! それどころじゃない! うどん? そうめん? 馬鹿っ! そんな冷たいもの食べたら…………絶対に染みるでしょうがッ!
「デンデン氏―……たのむデンデン氏―…………あーそー……べないよなぁ。うん、流石に仕事中に送るのはやめとこう」
ケーキ屋さんってどのくらい忙しいんだろう。そして、どの位儲かってるんだろう。立地的には大分不利そう……というか、うちの店も真っ青なくらい辺鄙なところにあるからなぁ。常連さんと化した花渕さんがどれだけ貢い…………ごほん。どれだけ買っているのかにかかってたりしないだろうな。それとも……案外あの黙ってさえいればイケメンなパティシエが話題を呼んで、世の奥様方、そして女子達に人気を博していたり……? ありえるな……だって…………うぐぐ。どゔじでぼぐば…………
「……いや、そうだよなぁ。十六歳って言ったら思春期だもんなぁ。花渕さんだって、そういう感情の一つや二つ……………………」
十六歳は思春期なのだ。多感なお年頃で、異性への興味だってきっと。だから…………だけど………………っ!
「………………嫌だあ! お兄ちゃんは許しませんからねっ! お前にはそういうのはまだ早い! お兄ちゃんと結婚するんだろぉっ!」
十六歳は…………いや、でも……っ。あの世界の十六歳は出会いが少ないから。いや……でも…………そういえばいつか、僕以外の男に抱っこされるのは恥ずかしい的なこと言ってたよな……っ。それってつまり……もうそういうの気にする年頃って意味で…………っ。いや、そもそも僕の裸を見て恥ずかしがったり、僕に裸を見られて恥ずかしがったり…………うぐ…………うぐぐぐぅ…………っ! お兄ちゃんは…………認めないからなぁ…………っ!




