第二百五十六話
出発して何時間経ったろうか。今日は空に雲が掛かっていて、道を照らしてくれるのはランタンの灯りだけ。いつかエンエズさんとゴートマンを追って一晩歩き通したこともあったが、その時に比べて随分と頼りない、薄暗い行軍となった。
「うぅ……魔術って便利なんだな、本当に……」
「あはは、失って初めてって奴だね。でも、あまり頼り切りになるのも良くないからさ」
厚いガラス越しに足元を照らすランタンの灯りじゃどうにも頼りない。明るいのは本当に足元だけで、行く先数メートルも照らし切れていない。ミラの出してくれる火球の明るさに比べては、もう無いも同然だった。更に困ったことに、それは正面の話であって、僕らの陰になっている背後はもっと酷いのだ。振り返ろうものなら、否応無く闇が押し寄せてくるみたいだった。
「…………み、ミラ……っ。ランタンもう一個無いか……? これじゃ周りが全然見えないって言うか……」
「無いわよ。ランタンも、油も、その余裕も。我慢しなさい、見張りは私がやったげるから。アンタは私の背中だけ見て付いて来ればいいの」
え、かっこいい。不覚にもキュンとしてしまった。そうだ、そもそもはそういう奴だ。このちびっ子魔術師ことミラ=ハークスとは、かれこれ…………どんなもん経ったかな? ともかく長いこと一緒にいるんだが……いつもいつもその小さな背中で僕を引っ張ってくれた。僕が彼女に憧れた最大の理由はこのかっこよさなんだから、しょうがないけど悔しいとすら思えない。本当に尊敬と…………不安とだけ。
「ミラちゃん、そろそろ休憩しようか。緊張は疲労を生む、疲労は集中を乱す。散漫な集中力で中途半端に張り詰めていると、気付くものにも気付けないよ」
「へ……? いえ、私はまだ大丈夫です!」
違う違う。と、優しく、困った様に笑って、マーリンさんは僕の肩を……っだぁからぁっ‼︎ 抱き寄せんな! 当たっちゃいけないものが当たるんだ! 疲れてる時に余計な刺激を与えるな! 歩けなくなるわ! 別の要因で!
「軽いものを選んだとはいえ、アギトはまだ鎧に慣れてない。それに、いくらミラちゃんが頼りになると言っても、見えないことへの恐怖は拭えない。ここらで休ませないと、ね」
ミラは渋々といった顔でランタンを手近な石の上に置いて、僕の服を引っ張って座るように促した。うう……申し訳無い。恥ずかしながらマーリンさんの言う通り、ちょっともう足にキている。そのまましゃがみこむと、堪えきれず尻餅をつく格好で僕は地面に座り込んでしまった。
「悪い……また足止めさせて……」
「……バカアギト。ちゃんと言いなさいって、言ったのに」
ああ、そっち。ミラは情けないくらい早く音を上げたことよりも、へたり込んでしまうくらい疲れているのを隠していたのに不満を持っている様子だった。むすっとした顔で僕の足を一通りマッサージすると、そのまま僕の背後に回っていつも通り抱き付いて…………首元に噛み付いた。これはちょっと怒ったよ、って言いたいのかな。いや、申し訳無い。
「……悪かったって」
「むぐ…………分かればいいのよ」
分かったんだから噛むのやめて貰えます……? とは言い出せなかった。マーリンさんも僕にもたれる様に……いいや、違うな。僕がもたれられる様に、身体を寄せて胡座をかいた。あの……女の子なんで、胡座はやめません……? いえ、背中を貸していただけるのはありがたいです、本当に。背中ってのが一番大きい。配慮してくれての選択かどうかは分かんないけど。
「…………うう、情けない…………」
「あはは。良いじゃないか、これからこれから。期待してるよ、男の子だもんね」
完全にあやされている。うう…………夢にまで見たおねショタシチュが、こんなにも情けなく涙の味のするものとは思わなかった。いや、おねショタもクソもおっさんなんだけどさ。
「……マーリン様、アギトをお願いします」
不意に首元がスースーしたと思ったら、ミラは突如そんなことを言ってポーチからナイフを抜いた。それってつまり……そうなんだよな。毎度恒例、うう……まだ足ガクガクしてるのに。でも、ミラ一人を戦わせるのも、それを座り込んで見てるだけなのもゴメンだ。なんとか立ち上がって……
「ああ、いや。ミラちゃん、ここは戦わないという選択肢を取ろう。君はどうも血気盛んだね。僕を頼ってくれるのは凄く嬉しいし、これからもじゃんじゃん頼って欲しいし、お姉ちゃんと呼んでくれても構わないけれど……それはそれとして、僕をアテにした行動はとらないで欲しいな。これはあくまでも君達への試験。君達のどちらかが不調をきたしたのなら、可能な限り問題は回避する。そういう手段も身に付けよう」
なんだか欲に忠実な言葉が聞こえた気がしたけど……なるほど道理だ。僕らはいつまでもマーリンさんと一緒にはいられない。となれば、あくまでも自らの力で——僕達だけの力でなんとかしなくてはならない。この最悪に近い視界の中で、本当に魔獣と戦って大丈夫か。ミラが魔獣を倒すとして、その間に無防備になった僕は自分の身を守れるのか。つまり、今は僕が自分の身すら守れないから、戦うべきではない。って言いたいんだろう。
「…………また……足引っ張って……」
「違う、それは違うよアギト。君にとって普通になり過ぎているけれど、ミラちゃんは本当に特別なんだ。強さが、では無くってね。魔獣相手に怯みもせず突っ込んでいける勇敢さは、本当の本当に非凡なものだ。まあ……ちょっと度が過ぎるきらいもあるけどね」
でも……と、ミラはマーリンさんの周りをうろちょろし始めた。完全に待てって言われた犬だな。だが、残念ながらマーリンさんの口からよしとは言われないのだろう。戦わずにやり過ごす、か。そういえばそんなやり方は一度もしてこなかった。脳筋だったんだ……やっぱりこいつ……
「息を殺して、気配を消して。自然と同化するなんてよく分かんない理屈言う気は無いからさ。ともかくジッとして。ランタンの灯は消さなくても良い。明かりや熱を感知されたとしても、視界が奪われるよりはずっとマシだ」
息を殺して……気配を消して……なるほど、かつて休み時間の教室でやっていたのと同じことをすれば良いのですな? うう……どうして僕の青春はこんなにも灰色なんだ。すぅっとゆっくり息を吐いて、座ったまま更に身を屈めて、可能な限り存在感を消す。生き残る為に必要ならやる。なんならランタンだって消して貰っても…………それは怖いかな…………
「…………行ったわね。油断は出来ないけど、とりあえずこっちには来なかったみたい」
「……ほっ。いや、すごいなお前。なんで分かるんだよ、そういうの……」
少しすると、ミラはそう言ってゆっくりと立ち上がった。相手は魔獣であって、獣であって、野生動物であるのだけれど? 動物の持つ感覚器官や本能ですら感知出来ない距離でも、ミラは平然と相手を感知していた。これもまぁ毎度お馴染みではあるんだけど、本当に人間離れしているというか…………うん、何度でも言うけど犬っぽい。警察犬になれるんじゃないかな。
「こういう時、ミラちゃんみたいなタイプは頼りになるね。フリードみたいだ」
「ええ……フリード様ですか……ううん。私はマーリン様みたいになりたいんだけどなぁ」
はは、その体では無理だろう。そんなことを考えてミラをジッと見ていると、ミラはやっぱりなにかを感じ取ったのか、さっきの様に僕の背後に回って、さっきよりずっと容赦無く首元に噛み付いた。痛いっ!
「あはは、そう言って貰えると嬉しいなぁ。うへへ……そっか、僕みたいに、か」
「……痛い痛いっ。もう……マーリンさんは噛み付かないぞ、まったく」
ミラを窘めるつもりで放った言葉だったのだが、マーリンさんのミラへの甘さを侮っていた。あ、じゃあ……と、なんだか照れ臭そうに笑いながら、マーリンさんは両手をわきわきさせながら口を開いて僕に近付き始めた。違うッ! それは違うぞマーリンさんッ! ミラがマーリンさんみたいになれなさそうなら、マーリンさんがミラみたいになればいいじゃない、じゃないんだッ! 噛もうとするな! 目標の方が近づいて来てどうするんだ!
「……でも、まさかアギトにそんな特技があるとは。ミラちゃんより上手に気配を消してたね。戦うすべを持たないからこそ、なのかな?」
うっ……それは……そうですか。じゃあ、僕のあの苦い思い出達も無駄では無かったんですね……へへ。うう、泣きそう。なんだか遠回しに、存在感無いよねって言われた時みたいだ。そんなつもりは無いだろうし、こっちでは本当に必要な能力ではあるんだけど。
「…………アギト……っ」
「……ん……っ⁈ おう、どうした……?」
またミラの抱き付く力が強く…………ああ、それには覚えがある。というか……しまったな。忘れてた、誤解を解いてないままだ。息を殺して、魔獣から身を隠して。そう、ミラの中では、僕は魔獣から逃げ延びてきた難民であるという認識のままなんだ。もう大丈夫と初めて会った時から何度も言われて、ずっと守って貰って。うん、しまった。タイミング……完全に逸したなぁ。
「……大丈夫だって。今はお前が守ってくれるもんな」
「うん、絶対に。だからもう大丈夫だからね」
はは、まだ言うか。というのも、僕の足がまだ震えているからなんだろう。ごめん、これは疲れが半分。まあ、もう半分は恐怖なんだけどさ。それから少し休んで、周囲を警戒しながら僕らはまた進み始めた。え? 進行方向はどうするのかって? 方位磁石でも持ってるのかと思ったんだけど、そんなの無くてもマーリンさんが空を見て方角を教えてくれたんだよね。星見の巫女ってそういうことなの…………?




