第二百五十五話
もう日が暮れてしまう。長く長く伸びた影に不安を抱きながら、僕らはまた危険な夜道へと足を踏み出そうとしている。
「食べ物よし、飲み物よし。それからランタンの油も持ったし、解毒薬ほか薬の類も準備万端だね。よしよし」
「マーリンさんは本当にお土産買ってきてくれたらよかったのに。ちゃんとしたものばっかり……」
もうそれは効かないぞ! と、マーリンさんは膨れっ面で僕の胸を小突いた。なぁんだ、楽しかったのに。というか、この人に対して強気に出られる部分が他に無い以上、なんだか一方的に弄られる関係になってしまいそうだな。いや……そういえば、何か忘れている様な……?
「……アギト。無理はしないで、辛くなったらすぐに言うこと。私もなるべく無茶はしないけど、アンタは特に」
「…………おう。分かってる、頼りにしてるよ」
もうあんな顔はさせるものか。不安げに僕を見つめるミラの頭を撫でてやると、嬉しそうにぐりぐりと僕の右手に甘えてきた。そうだ、この小さな恩人をもう泣かせるわけにはいかない。もう……あんな嫌な気持ちは懲り懲りだ。さて、それはそれとして…………思い出したことがある。
「うぇへへ……相変わらず甘えん坊さんだねぇ……むふふ」
そうだ……このクソだらしない顔で全部思い出した。僕はこのポンコツに約束をしたのだ。本人が覚えているかどうか、またそれを振りかざすつもりがあるかどうか。その点は僕では分からないけれど。そう、僕はこの人に取り入る……なんだか言い方がやましいな。マーリンさんの信用を得て、共に旅をする為に交換条件を提示した。それは………………ミラの色々な側面を見せるというもの。正直に言って、僕の持っているミラの顔の切り替えは打ち止めだ。この人はあんまり可哀想なのは好みではないらしいから、そうなるとあとは甘えてきている時の顔くらいなものだろう。だが……それはそう簡単に見せられるものでも無い。見せられるものでは無いのだ……っ。
「……? アギト? どうかしたかい?」
「っ。い、いえ……」
そう、ミラは人懐っこいし甘えん坊だし、人目を憚らないし甘えん坊だし、甘えん坊で甘えん坊だが……その中でも特に酷い、だらしないと言って差し支えないくらいの甘えっぷりを披露するタイミングがある。かつてエルゥさんに指摘された通りだ。コイツは僕にしか見せない、家族にしか見せない顔がある。いつもとは違う、唯一隙だらけなタイミングと言ってもいい。だが……それはあくまで特別なんだ。特別…………そう、唯一甘えられる相手にだけ見せる顔。そうだ……もうそれしかないんだ。もしも……
「………………あ、アギト……? な、何か変かな、僕……? なんでさっきからジロジロ見るのさ……」
「……あ、いえ…………」
この人がその約束を忘れているのなら問題ない。だが……今になって新しいものを見せろと言われると、それはとても困るのだ。ミラはあくまで僕ありきと評していた以上、僕が置き去りにされるってことは無いだろうけれど……もし、僕にミラのお守り以外の用途が無いとバレれば、扱いがぞんざいになりかねない。というかあれだ…………ミラにバラされたくないことをバラされるかもしれない。いや……本当に。それだけは避けなければならない。僕はマーリンさんと対等な、ある意味お互いに利用価値のある状態を維持しなければならないのだ…………っ。あの一件だけは…………あれがバレようもんなら、お兄ちゃんの尊厳も威厳も全部地に落ちてしまう…………っ!
「…………アギトさーん……? おーい……ミラちゃん。僕、変かな……? やっぱりどこか変かなぁ?」
「へ? い、いえ……そうは思いませんけど……こら、アギト! マーリン様をやらしい目で見るんじゃないの!」
ッッッ⁉︎ や、やらしい意味は無いのだけどっ⁉︎ あ……あ、あああああれはっ! 生理現象の一つであってだなっ! けけけけ決してこのクソポンコツ魔導士にその…………こ、興奮したとかそういうんでは一切無いから! 多分、そういう勘繰りとは縁遠い場所からの、やたらと的確に急所を突いてきた言葉に、僕はつい動揺してしまう。そうだ…………お兄ちゃんとして、妹にそれだけは知られてはならない……っ!
「……アギト、言いたいことがあるなら言ってくれていいんだよ? うう……そんなに変かなぁ……」
「い、いやいやっ⁉︎ 別にそういう意味で見てたんでは無くってですね⁈ あ、ほらほら。マーリンさんは、ミラを勇者にする為にこうして一緒に旅をしてるじゃないですか? なのにミラを弱くすることばかり教えてて、それはなんでだろうなーって…………」
おっと、余計なこと言ったかもしれない。ミラはきょとんとしたままだったが、マーリンさんは僕の言葉に少しだけ表情を暗くして俯いてしまった。ま、まずったか……? 変な地雷を踏み抜いてしまっただろうか……? ミラにはそれを伏せていたとか……いやいや、ミラが自分に施されている規制の意味に気付いていないわけが無い。だったら一体……?
「……それはまぁ、うん。不審がられても仕方ないよね。でも、信じて欲しい。僕はミラちゃんをただ弱くしているんじゃない。ミラちゃんの体に合ったやり方に矯正しようとしているだけ。これはまだ、準備段階なんだって」
「準備……ですか?」
だが……ミラは魔力が少ないから、今までの様な大掛かりな魔術は使うべきでは無いと言った。その為に出力を調整した魔術を教えて……と、ここから更に何か発展があるということだろうか。
「この夜行もその一環だと思ってくれたまえ。極限に近い状況下では、人は慣れた、染み付いた行動を無意識にとってしまう。その時にもきちんと自らを律していられるかどうか。この旅は、確かにミラちゃんを見定めるという意味もある。あるが、それ以上に、歪んでしまっているミラちゃんの魔術を真っ直ぐに戻したいという僕の個人的な願望も入っているんだ」
そう言って、マーリンさんは恐る恐るミラの頭を撫でた。ステイ。待てだぞミラ。抱き着くんじゃない。よし、いいぞ……そのまま大人しく撫でられているんだぞ。ふむ、そうか。マーリンさんは……本当にミラを想ってくれている、と考えていいのだな。この人は信用してもいい。ミラがそう言った、そしてこうして甘えている。なら……信用していいんだろう。
「……そりゃあレヴちゃんの力を持った……以前のミラちゃんの強さは魅力的さ。役割が無いとは言ったけれど、アレはあくまで例え話。魔獣の群れを吹っ飛ばしてくれるだけでも僕らは大助かりなんだからね。でも……それでミラちゃんの身体がどんどん悪くなるなんて、嫌じゃないか。そんなの我慢出来ない。そんな悲しい子供が生まれないようにって……僕らは戦ったってのにさ」
「…………マーリン様……っ」
慈しむ様な顔でぽんぽんと頭を撫で、マーリンさんはミラの肩を掴んだ。優しい……いいや、甘いのだな。この人は非道になりきれないんだ。以前、僕とミラとを天秤にかけてミラを取った……様に見せた。僕に、ミラの為に全てを投げ打てと言ったその口で、僕の心配も零した。魔の林で少女達の遺骨に向けていた辛そうな顔を今も思い出す。この人は本当に……
「さて、湿っぽくなってしまったね。そろそろ行こうか。ここらは夜になると魔獣が多く出る。その為の柵や防壁なんだから当たり前だね。だから、気を抜かない様に」
「………………はい?」
前言撤回! 鬼だ! 超スパルタだ! なんだってそんな危ない場所で……もっと安全な……いや、安全な場所なんてそう無いことは分かってるよ。でもさ! もうちょっといい条件の時にやろうよ‼︎
「あはは、アギトは本当に顔に出やすいなぁ。魔獣の脅威も無い街道で野宿しても仕方ないだろう? これはあくまで試験。僕の心配とは別件さ」
「うう……どうしてそう自分の心と使命とをきっちりかっきり区別してしまうの……」
大人だからね。と、半ば諦めた面持ちで、マーリンさんは僕を抱き締めた。大丈夫大丈夫、いざとなったら二人とも守ってあげるから。なんて甘い囁きでは騙されないぞ! それから…………なんども言うけど近いんだってばっ‼︎
「でえい! 抱き着くな! やめてください本気にしますよ!」
「あはは、元気になったね。君達はいっつも抱き合ってるからさ、やっぱりこうするのが一番なんだね」
それは! 兄妹! だからであってッ! そういうわけにはいかないの! 違うとこが元気になったらどうするんだ……まったく。ミラはミラで、そんな僕らをなんだか羨ましそうに見ているではないか。なんだ……お前も本当に隠しごとに向いてないなぁ。
「…………分かった分かった。ほら、おいで」
「っ! えへへ」
私もーっ! じゃないんだよ。これから危険な場所に行くってのに、どうしてこいつらはこんなにも緊張感が無いんだ。というかそれ、マーリンさんにはやるなよ……? フリじゃないからな⁉︎ 野宿してる最中に、マーリンさんに飛びついたりするなよっ⁉︎ 僕らはなんともぐだぐだとした空気と一緒に街を後にした。うう……なんでこんな危ないことしなくっちゃならないの……?




