第二百五十三話
やはり仮説は正しかった様だ。背中に暖かい、小さい生き物の息遣いが感じられることの、なんと落ち着くことだろうか。
「……でも、このサプライズは本当に要らない。心の底から」
今朝も今朝とて僕の首元をしゃぶり続けるミラを叩き起こす。もう慣れたとはいえ、やはりこう……シンプルに気持ちいいものでは無いのだ。べっちゃべちゃなんだもの……もうちょっと可愛げのある、指とかを咥えてるくらいなら良いのに。
「んんーーーっ。んん…………むにゃ……」
「ほら、起きろ。噛むぞ」
ぶにぶにと頰を両手で挟んで、未だ夢の世界を行ったり来たりなミラの間抜けな顔を物理的に歪める。はあ……かっこいいのになぁ、戦ってる時は。そういう意味であの男とは近しい。甘えていなければ、妹属性全開でなければ、とにかくヒロイックなんだ、コレは。ただまあ、こうやって甘えん坊なくらいで良い気もする。辛い思いもしてるんだし、寂し思いも一杯したんだ。だから……うん、でも。
「噛むぞー。噛むからなー。良いんだなー?」
「んー……起きたから…………起きた…………むにゃ」
この寝坊助は看過出来ない。未だに僕から離れようとしないミラの耳を優しく噛んでみた。こ、これはあれだな……なんだかイケナイことしてる感じになるな。だが、甘噛みくらいじゃ全然起きる気配が無い。でも……跡が残るほど噛んだら痛いよなぁ。それは可哀想だし……
「アーギートー。入る……入っても良いかーい」
「ああ、やっと学習してくれた。ちょっと待ってください、今叩き起こしますんで」
こんこんとドアを叩いたのは、勿論マーリンさんだった。このクソ間抜けなミラをあまり見せたくはない。本人の尊厳の為にも、マーリンさんの鼻の粘膜の為にも。だから……しょうがない。手荒な手法で悪いけど。
「……起きろっ。おバカ」
「んぐっ⁈ んん…………っ」
ミラの鼻にちょっと強めのデコピンをかました。流石にこれなら起きるようで、涙目になりながら鼻を抑え………………鼻を抑えて縮こまってしまった…………ご、ごめんね? 痛かったね、ごめんね。やりすぎたかな……
「おーい。アーギートーっ」
「ああ、もう。子供じゃないんだから……はいはい、もう良いですよ」
誰が子供だ! と、子供みたいな文句を言いながら、マーリンさんはズカズカと乗り込んできた。そういうとこだぞ、このクソポンコツ。だが、そんなマーリンさんも蹲っているミラを見ると、すぐに顔色を変えて慌てて駆け寄ってくる。一体なにしたんだ、とか。大丈夫? とか。ともかくこの人もこの人でミラを甘やかしてばかりいるから……? おや、なんの匂いだろう。ぱたぱたと走ってきたマーリンさんから、なんだか甘い……いつもとは違うタイプの匂いが…………
「もう、アギト! ダメじゃないか、ミラちゃんに乱暴しちゃ。よしよし……」
「いや、乱暴って程じゃ…………じゃなくて。マーリンさん、何か持ってます……? 何か……お菓子とか……」
お菓子? ああ、うん。と、ローブの内側からクッキーの入った袋を取り出すと…………マーリンさんはミラに襲われた。完全に野生のハイエナの行動だ。寝ぼけて見境の無いミラに押し倒されて、マーリンさんはなすすべもなくクッキーを奪い取られてしまった……のだが…………
「うわっぷ……こら、ミラちゃん……っ⁈ もう持ってない、何も持ってないよっ⁈ あ、こら……そこ……だめ…………近い………………っ! ぼはぁ——っ⁉︎」
「ま、マーリンさん…………」
美味しそうな匂いがしたんだろう。ミラはマーリンさんのローブの内側に潜り込んで、文字通り全身の匂いを嗅ぎ回った。もう完全に犬だ、フルトでティーダがやってたのと全く一緒だ。そうしてお腹やら腕やらを嗅いでる間はいかがわしい光景程度で済んでいたのだが、まあ…………そこはこのバカのことだから。首元にまで登って行って、結果そこで落ち着いてまた眠ってしまった。これ、どうしたら良いんだ……? せっかく起こしたのにまた寝るし、せっかく耐えてたのに決壊して倒れちゃったし。クッキー散らかったままだし。これ……どうしたら良いんだ…………?
「…………あほらし。ご飯でも食べよ……」
僕が選んだのは放置だった。ミラが起きるか、マーリンさんが失血死するか。復帰はあり得ない、だって完全にホールドされているんだもの。ああなったらミラは絶対に離さないし、マーリンさんでは剥がせない。詰みだ、これは。僕に出来るのは現実逃避からの優雅な朝食だけ。さあて、ご飯だご飯。今朝は昨日買っておいたパンとかぼちゃのクリームだ。まだ季節的にはちょっと早いから身が硬いんだって、商店のおばちゃんが説明してくれたなぁ。うんうん、この自然な甘さ。こういうので良いんだよ。
結局、僕はご飯を食べ終えてからミラをもう一度叩き起こす羽目になった。どうしてそうなってしまうんだ、お前は。無理矢理ひっぺがすと、なんだか名残惜しそうにマーリンさんを見ているもんだから、ちょっとだけ寂しく感じてしまう。なんだよ……僕じゃなくても良いのか、布団。それはそれでちょっと傷付くんだけど。
「……はあ、はあ……た、助けるのが遅いんじゃないかな?」
「いえ、随分幸せそうでしたんで」
それはもうこれ以上無い程の幸福だったよ! と、憤慨するマーリンさんにぽかすか殴られながら、僕はクッキーを拾い上げては口に運ぶ行儀の悪いミラを諌めた。どうして子供が増えているの……? どうして……僕は……保育士になった覚えは無いんだよ……?
「ところでマーリンさん、このクッキーどうしたんですか? こら、拾ったものを食べるんじゃないってば」
「ああ、うん。今朝厨房を借りてね、作ってみたんだ。久々だから、上手く出来たか不安だけど」
美味しいです! と、食い気味に反応したミラから埃のついたクッキーを没収すると、マーリンさんもそれは良かったと笑っていた。そうか……マーリンさん、お菓子とか作るんだ。へぇー…………ミラ、これが女子力だぞ。食うばっかりじゃなくて、たまには女の子らしくだな……
「さて、今日は何が出るかなー。もうあんな結界は懲り懲りだけど」
「むぐむぐ……ごくん。大丈夫ですよ。一人じゃなければ」
もしかして根に持ってる……? いえいえ、とんでもない。と、なんだか珍しく静かな怒りを笑みに浮かべるミラに、マーリンさんは戦々恐々として懐から新たなクッキーを取り出して上納した。まだ出てくるのか…………っていうか、そのローブ内ポケットあるんですね。内ポケット……ですよね……? その……まさかとは……思う…………ん、ですけど。た…………谷間とかから出してないですよねっ⁉︎ もしそうなら、一枚くらい僕にも分けろこの食いしん坊! っていうか内ポケでも間接的に触れてるから、それはもう実質そういうことだろ(錯乱)! 後生です、僕にもその人肌に温められたクッキーを……っ!
「ああ……全部食べやがった……っ」
「もぐもぐ……ごくんっ。アギト……なんかアンタ…………変なこと考えてないでしょうね……?」
ぎくぅっ⁉︎ な、なんのことだね、ハハハ。なんてくだらないやりとりもそこそこに、僕らは宿を後にした。買い物は済ませてある、今日はとにかく進むだけだ。また僕らは北へと進む。進むんだけれど……
「…………その、マーリンさん。あの子は……あの林は、恐怖の再現だったって言ってましたよね……」
「うん……? ああ、うん。そうだよ。あれは、あの場所でかつてあった悲劇の抽象的なイメージを繰り返す結界だった……んだと思う。ただ、術者の意図は別にあった様だけどね」
そう、問題はそこだ。あの林に僕らが駆けつけた時、マーリンさんは誰かと対峙していた。だがそれが誰なのか、なんなのかも分からないうちに今度はゴートマンが出て来て……それで……
「……その、恐怖の再現だって言うのなら、どうしてあのゴートマンは俺達に何もしてこなかったんでしょう。いや、俺達の恐怖心を映したもので無かったって言われたら、それまでなんですけど……」
「あはは、そうだね。あのレイガスは、僕の記憶よりも君達の記憶を元に映された物だろう。事実、僕はあそこでかつてのビビアン……あの男の伴侶を見た。だが、あの男はついこの間会った時の姿だった。となれば、だよ」
となれば……? 相変わらず勿体ぶるマーリンさんを急かすと、ミラに失礼なことしないと脇腹をつつかれた。どの口で……お前……っ。
「……君達がレイガスの本質をうっすらとだけでも理解してくれているんだろう。勿論、だからってアイツを許せとかは言わないよ。くどい様だけど、君はアイツを恨んでいてくれ。そうでないと……アイツも報われない」
「…………アイツが報われるくらいなら、俺はアイツを許す方がマシですけどね」
あはは! その意気だよ! と、ニコニコ笑って僕の頭を撫でた。あ、やめてください。本当に本気にしますよ。いいんですね? いいんですねっ⁈
「…………ゴートマンの本質、かぁ」
「なに難しい顔してんのよ、似合わないわね」
なんて失礼なやつだ! と、悩みごとも忘れて、ミラの頭をわしゃわしゃと撫でくりまわした。この先にもあんな許せない悪人が出て来るんだろうか。それとも……その度にその人達を許していくのだろうか。ゴートマンのこと……ミラはどう思っているんだろうか。そんなことを考えるのは、昨日友人が言ったセリフの所為だろう。正義……か。ただ、分かっているのは、僕の周りを嬉しそうにぴょんぴょん跳ね回っているこの小さな生き物は、間違いなく正義の味方であることだけだ。じゃあこいつは、いつかあの男も許すのだろうな。そんな未来を考えながら、僕は、鬱陶しい! と、跳ね回るミラを取っ捕まえて抱き上げるのだった。




