第二十五話
稲妻のような一撃だった。目にも留まらぬとはよく言ったものだと感心せざるを得ない。文字通り不可視の回し蹴りを、男は防ぐのでもなく避けるのでもなく片手で掴み取ってみせた。僕がその事実を視認すると、少し遅れてミラの顔色が変わる。敵意と……本当はあって欲しくはないけど、おそらく——殺意によって白くなった、ともすれば無機質であるとさえ感じる彼女の冷徹な顔がサッと青ざめ、男の手を振り払って間合いを取った。ゲン老人を警戒して、今度こそ屠らんとその鋭い視線を男の心臓へと注いでいた。
「…………なるほど良い蹴りだ」
振り払われた……いや、蹴りを掴み止めた手を見ながら男はそう言った。そして今度は僕の方へと視線を移す。その間に二撃目が繰り出されない辺り、きっと彼女への警戒は怠っていないのだろう。
「この場はその殺気納めよ。娘よ、少しそこの男と話がある。一度席を外して貰えんか」
男の言葉に彼女は全く関心を持たなかった。何か呟いている様にも見えたが、それが呪詛の言霊でないことだけを祈る事しか出来ず、僕は彼女から男の方にまた視線を戻す。
「…………これも仕方なし、か」
男は小さく息を吐いて構える。拳を握らず、まるで柔術家のような構えだ。それからすぐのことだ。彼女が何を呟いていたのかを理解する。幸運なことに男を呪う言葉では無かったが、不幸にも僕は魔獣の群れから抜け出した時のことを思い出した。
音も無くそれは始まった。いや違う、ほんの一瞬遅れて轟音はやってくる。彼女の体の周りには青白い光が漂いはじめ、それが雷であることを理解するのにそう時間はかからなかった。稲妻の様だとすら表することの出来る一撃を防がれ、彼女は文字通り稲妻の一撃を以て男を屠ろうと……だから殺しちゃマズイんだって‼︎
「……揺蕩う————」
「まっ、待ったミラ!」
気付くと僕は彼女の前に立ちはだかっていた。そしてそれを後悔した。彼女はとても、それはとてもとても驚いた顔をしてすぐに僕の目の前から消えた。次に視界に飛び込んできた彼女は、苦痛に顔を歪めながら拳をほどき、両手を広げて僕に飛びついて……否。きっとゲン老人に飛びかかろうとしたのだろう。ものすごい勢いで飛んできた彼女を受け止められる筈もなく、僕の背後の老人含め三人仲良く部屋の壁に叩きつけられる結果になった。
「——げほっ! 怪我ねえかボウズ! 全く男だな! 無茶しやがる!」
視界いっぱいに映る空の青さに、自分が仰向けであることを理解する。背後、というよりも尻の下から聞こえる男の声にハッとした。さっきまでいた小屋には屋根があった筈だった。
「ったく、やってくれたなあの子娘! ほら、ボウズも起きてんなら早く退きな!」
急かされて体を起こそうとすると、僕の腕の中でぐったりとして動かないミラの姿があった。
「ッ! ミラッ!」
最悪の結末が頭を過ぎって僕は慌てて彼女の両肩を掴んで体を起こ——
「ッッ〜〜〜〜〜〜〜ひぅい——ッ⁉︎」
彼女は目一杯に涙を浮かべて鳴き声……もとい泣き声をあげて悶絶した。息をするのもやっとといった感じで涙ながらに僕を睨みつける。ああ成る程、ドントタッチミーね。僕はもう一度だけ彼女を抱きかかえてゲン老人の上から退いた。本当に必要なことだったし他意は無いので、震えながら睨みつけるのをやめてほしいと思う。
「しかし……嬢ちゃん、何モンだ。なんであんな平和な街のお役人が俺を殺そうとする」
言いたいことはごもっともだが原因はお前だ! とは言えないので、僕から事の経緯を説明した。ミラは別の意味で話し合いも出来なそうだし。
「……なるほど、分かった。今はみんな出ちまってるが、帰って来次第若えのを貸してやる」
「あ、ありがとうございます!」
さっきまでのクソジジイっぷりからは予想も出来ない返答だった。魔獣退治の助太刀という危険な依頼にも関わらず、案外すんなり承諾してくれた。尤も、今この場にいない若者を、本人の同意も得ず送り込もうと言うのだから、やっぱりクソジジイなことに変わりはないのだが……
「まあ、あと一週間もすれば戻ってくるだろう」
「それじゃ遅ッッッ〜〜〜⁉︎ 遅いんです…………」
悲痛な叫び声をあげながら彼女は食ってかかる。普段から常々怪力だとか子供らしくないとか思っていたが、いざこうして弱々しく腕の中で臥せる彼女の姿を見ると非常に心細く感じた。
「今日中には終わらせて……遅くとも明日の昼間には帰らないと……」
「今日中だァ⁉︎ お前さん日帰りで魔獣退治に来たってのかよ⁉︎」
それは……うん、正しいリアクションだろう。というか僕も初耳なんだけど。そんな弾丸ツアーみたいな感覚でいたの、貴女。
「大体それ、痺れが抜けるまでに丸四日はかかるだろ! あんなバカみたいな出力の魔術を無理矢理停止させて、無事に喋ってるだけで奇跡だぞ⁉︎」
それも初耳なんだけど⁉︎ さっき凄い軽い感じで扱っちゃったんだけど⁉︎
「……ってそれ、もしかして俺の……」
「違ッッッ〜〜〜〜〜ぐぅぅ……違うから……」
俺のせいで、と言いかけたところを勢いよく制された。だがどう考えても僕が無茶なことをしたから……
「……確かにアンタの判断は間違ってた。でも、そもそもは私がキレなかったら起きなかった問題よ」
「おう、そうだぞボウズ。今回のは嬢ちゃんが八割、俺が二割悪い」
いやだから原因はお前じゃねーか! とも言えないので僕はとりあえず話題をそらす。
「えっと、そうだ。今は出かけている、っていう教え子たちは今どこへ?」
「教え子なんて立派なもんじゃねえ、ただの小間使いだよ」
うーん、ロイド氏の言葉の端々から感じたトゲの意味がよーくわかる。何度でも実感するがこの男はクソジジイだ。
「丁度お前らと同じ、魔獣退治に駆り出されたよ。アイツらの腕なら一週間もすれば身体の一部くらいは戻ってくるだろう」
「「——は?」」
ミラとハモってクソジジイ……いや最早ただのクソだ! このクソ野郎の言葉に驚愕した。ちょっと待て、教え子じゃないのか。教え子が何人も死地に追いやられているっていうのに、お前は何でそんな呑気に……っ!
「そしたら防具も武器もちったぁ帰ってくるさ。アイツらは掘り出したばっかの鉄で作ったいい装備を持って行ったからな。まだ年季も入ってない、誰にも馴染んでない若ぇ装備ならお前さん方にも使いこなせ……」
僕は確かに憤ったし、この男は許し難いと思った。しかし彼女の怒りがそれを凌駕するものであるとすぐに分かった。ゆっくり、僕の体を杖代わりにしてゆっくりとミラは立ち上がった。
「嬢ちゃん…………嘘だろ……? 痺れだけじゃ……いや、今は痺れで感覚が無えだけで、お前の体は間違いなくブッ壊れて……」
彼女は僕に手を差し伸べかけてやめた。それを見て僕は急いで立ち上がる。彼女はそんな僕を笑って待っていた。
「ご迷惑をおかけしました。建物の弁償は戻り次第させて頂きます」
そう言って彼女はフラフラとおぼつかない足取りで来た道を戻って行く。彼女は巣に向かうつもりなのだ。止めなくてはならない。それはあまりにも危険で、僕の目的から大きく逸脱してしまう。
「ちょっと待てミラ! そんな状態で戦うなんて無茶だって!」
「良いから行くわよ。今日中に……いえ、今すぐに終わらせないと…………」
段々達者になっていく歩みに、僕はやはり不可能だと感じた。歩くことが困難であるということは、走るとか跳ぶとか、ましてやあんなに速い動きが出来るわけもない。となれば彼女が見せた、あの岩をも砕く様な蹴りは失われ、戦う手段など残って……あれ、何か忘れて……?
「……待て、俺も行く」
背後からゲン老人の声がした。振り返るとさっきまでのクソジジイとは違う、きっと彼の騎士としての一面であろう誠意のある表情が見られた。
「あのボンクラどもが死ぬのは構わねえが、小屋の弁償の前に死なれたら困るんでな」
そう言ってゲン老人は長屋の方へ走っていった。その間にも歩き続ける彼女に寄り添いながら、その方向を何度も振り返る。どんなに口汚く罵って嫌おうと、今は彼女を守るための手段が、戦力が欲しい。
小屋の残骸が見えなくなった。と言ってもまだそう距離は進んでいない。まだ高い日の熱さと彼女の痛ましい姿に、後ろを振り向く気力が無くなっただけだ。それだけの時間は経っていた。
次第に彼女は足を引きずり始め、業を煮やしたように唇を噛んで僕の袖を引っ張った。
「……ごめん、おぶってもらっても良い?」
「ああ、わかっ……えっ⁉︎ おぶっ、おんぶするの⁉︎」
驚き過ぎた。彼女は少し引きながら、そして申し訳なさそうに頷いた。お、おんぶかぁ……
「…………じゃ、じゃあ、どうぞ」
彼女の前で屈んで背中を向ける。そしてゆっくり預けられる軽い体と、体温と、匂いと息遣いと……これはダメだ! いや、でも!
葛藤の中ゆっくり立ち上がる最中、苦痛に喘ぐ声を必死に堪える彼女の小さな悲鳴が耳元に届いた。そうだ、触られるだけであんなに痛がっていた彼女だ。おんぶなんてすれば歩くよりも衝撃が大きいのは分かっていたろうに。つまり、それよりも早く山を降りる事を優先したと言うことだ。僕は歯を食いしばって、極力揺らさない様に歩みを速くした。