第二百四十五話
服の下に着込んだ鎧の具合は悪くない。多少はゴワゴワするけど、普通にしてる分にはそこまで気にならない。どこかにもたれたり、寝転んだりすると流石にちょっと硬いなって感じるけど……って、これなんか通販の感想言わされてる人みたいだな。
「しかし……流石にちょっと暑いな。着込んだんだから当たり前だけど……」
「あはは。そもそもとしてアーヴィンは涼しい街だからね。冬季には雪も降る。むしろこの国の中では寒い方だろうね」
そうなんだ。と、ミラの方を見てもなんだか初めて聞きましたって顔をしている。しょうがないんだけど、ミラもアーヴィン以外はよく知らないのだ。海を人工物だと思っていたりしたこともあったっけ。とにかく、世界の基準があの街になっていた。が、まあそれは当然で、かくいう僕だって生まれ育ったあっちの世界のあの街が基準になってるわけだ。
「…………? ねえ、なにか…………声が聞こえない? 子供の……」
「子供の声? はて、こんな何も無い場所で子供なんて…………」
キョロキョロと辺りを見回しながら、ミラは唐突に立ち止まってそう言った。子供の声が聞こえる……? 街を出てもう結構歩いた。子供が一人で来られる場所では無い……となれば、もう街が近いのかな? それとも……
「…………っ! やっぱり聞こえる! これ…………林の方から……っ!」
林って……と、舗装された道から少し離れた場所に見える針葉樹林を眺める。確かに林はある、そしてミラの聴力なら聞き取れたっておかしく無い距離だ。だが……そっちは…………
「…………東から逃げてきた……? そんなバカな、あっちにはもう人の住んでいる街は無い筈だ。何度も訪れて探し回った。生存者を見つける為に僕の部隊を——ユーリを遣わせたんだ。そんなわけは……」
考えるのは後だ——。そう言わんばかりにミラは道を飛び出した。僕もマーリンさんも慌ててその後を追う。今回ばかりはミラの勘違いだとありがたい。林の中——魔獣の住処になりやすい場所から子供の声が聞こえただなんて、そんな物騒な話があってたまるか。それ以上に、そうなってしまった経緯がどうあっても危険過ぎる。もし本当に子供がいたとして、そんな場所にいるのが不自然過ぎるのだ。
「っ! 血の匂い……ミラちゃんはそのまま走って! アギト、強化をかけるよ。一度止まって」
「はい! 揺蕩う雷霆・壊!」
ばちばちと甲高い悲鳴の様な音を残してミラは更に速度を上げて林に突っ込んで行った。すぐにもう一度、今度は純正の強化魔術の言霊が唱えられる。相変わらず高揚する、自分の肉体が想像を遥かに超えた運動を可能にしているという全能感。マーリンさんと顔を見合わせこくんと頷くと、僕も彼女を置いて林へ向かって駆け出した。僕をミラともマーリンさんとも離れさせたということは、恐らくだがマーリンさんも子供の存在を探知したのだろう。或いは、ミラの感覚を信じたか。どちらにせよ、別れて早期に発見、救護すべきだと考えたのだ。
「……っ! 流石にここまで近寄ると……」
ツンと鼻をつく生臭い腐敗臭がした。血臭だけじゃない、肉の腐った臭い。子供の声がしたと言っていた以上、まだ肉が腐る程時間が経っているわけは無い。となればこの臭いの元は……ずっと前に…………
「アギト——っ! ボサッとするな! 急いで! 子供の救出も勿論だけど、あの子をあまり危険地帯に長居させるな! 危険は——窮地は制限を簡単に破るキッカケになる。あの子にレヴちゃんの力を使わせちゃダメだ!」
「レヴの……っ! はい!」
後方からすぐに声が迫ってきた。マーリンさん、結構足速いな……なんて考えてる場合じゃないんだった。僕はミラが飛び込んで行ったであろう痕跡を——焦げた葉を目印に出来るだけ反対側を捜索することにした。無論、気を抜ける状況になど無い。子供の救出、ミラの退避も大切だが、何より僕の安全が一切保証されていないのだから。
「————っ⁉︎ くそ……バカアギト! 怖気付いてんじゃねえよ……っ!」
足が震える。膝の力が抜ける。ああ、これはよく知っている。よく知っているんだ。初めて蛇の魔女と対峙した時にも感じた、魔竜を引き連れたゴートマンと出会った時にも。これまで何度も感じたこの絶望感と恐怖感。一度だけ……たった一度だけしか振り払えなかったそれが、またしても僕の体を縛り付ける。
「————っ——————」
遠くで声が聞こえた。音が聞こえた。多分、ミラが魔獣と接触したのだろう。ゴロゴロという雷鳴が、木々の間を縫ってこんなところまで届いている。急がないと……この林の中には本当に魔獣が——
「——っ! 今……泣き声が…………っ! こっちか!」
ミラが聞いたと言っていた子供の声だろうか。それとも他にもいるのか。分からないが、助けなきゃという義務感が僕の背中を押した。情けないくらいよろけながらだけど、ちゃんと前に進める。歩き出せる、走れる。あの時ミラを……レヴを守りたいと心の底から湧いて出たものと似た感情が僕を突き飛ばす。急げ、急げ! 絶対に間に合わせろ! もう二度と、間に合わなかったと絶望するアイツの顔を見ない為に!
「っ! いたっ! マーリンさん! ミラっ! 子供を見つけたぞ!」
走り続けた先に、岩陰で震える少女の姿を見つけた。ああ…………っ! 間に合ったんだ! 大丈夫。助けに来た。街へ連れて帰るから。いつか出来なかったことを今、目の前で恐怖に震える小さな子供に。安心を届ける為の言葉をありったけ振りかける。
「もう大丈夫だよ、しっかり掴まってて。ちょっと痺れ……チクチクするかもしれないけど、ちゃんと掴まってるんだよ」
ビクビクと怯える子供を背負って僕は出来るだけ慎重に、そして迅速に林を離脱する。杉だろうかなんだろうか、分からないけどまっすぐに伸びた幹の間を大回りに縫って全力で西へ。とにかく安全な————
「——嘘だろ……っ」
西……西……っ! 西ってどっちだ! えっと……今来た道は…………道なんて無い! 焦るな、怯えるな、不安がるな! 僕の動揺はこの子にも伝染しかねない。落ち着け、冷静に考えろ。強化を貰ったのだから、ミラの様に僕が走った場所は電気で焼け焦げて……無い! ダメだ、マーリンさんの魔術の精度の高さがアダに……
「——きゃぁああ——ッ!」
耳元で悲鳴が聞こえた。まさか魔獣がっ⁉︎ 慌てて振り返ってもそこには何もいない。周囲を注意深く見回しても気配は感じられない。大丈夫、魔獣はいないから。と、何度声をかけても少女は泣き止まなかった。ああ、違う。魔獣を見つけたんじゃない。僕の背中から不安を感じ取ってしまったんだ。だから……パニックに————
「——伏せろアギト‼︎ 燃え盛る紫陽花!」
突然聞こえたマーリンさんの声に慌ててしゃがみ込むと、僕の頭上を青白い炎が突き抜けていった。遅れて訪れる熱気から子供を守る様に、僕は急いでその場を離れる。助かった、これで帰れる。だが……一体何に火炎魔術なんて……っ‼︎
「走れアギト! 全速力だ! この木は……いや——この林そのものが魔獣なんだ‼︎」
「木が……魔獣…………っ!」
振り返れば、身を焼かれてのたうちながら倒れていく巨木の姿があった。ああ、そうか。だからこの子は岩陰に隠れていたんだ。僕がそれを知らずに林の真っ只中に——魔獣の群れの中に連れ出したから……パニックに…………
「ミラちゃんと合流したら最大火力で吹き飛ばす! 君はとにかく全力で撤退しろ! その子を絶対に傷付けるな!」
「分かってます! くそ……バカか俺は……っ!」
こんな姿の魔獣もいるのか……だとか、この子はどうしてこんな場所に……だとか。色々頭の中には浮かんでくるけど、それは全部後回しだ。今は全力で生き残ることだけを考えろ。でないと、あのバカにまた心配かけるハメになってしまう。
僕が林を抜け、ミラが僕らの元へと戻って来た時には、もうマーリンさんは特大火炎魔術の準備を終えていた。言霊だけでは無い、魔術陣まで準備しての全力。その威力がどれ程のものかなんて、僕には予想がつかなかった。
「みんな退がって。ねえ、君。もう一度だけ確認するよ。君の他に一緒に林に入った人は居るのかい?」
念を押すマーリンさんに、少女はゆっくりと首を横に振った。それに間違いだとか勘違いが無いと判断したんだろう、マーリンさんは杖を掲げて言霊を……いいや、違う。これは……
「東に大翼、北に爪牙。瞳は一つ、首は二つ。満ちるは熱、果てなく中天に——」
それはクリフィアで見た火炎魔術の最高峰。竜人であるエンエズさんを、文字通り焼き滅ぼす為に唱えた術式だった。
「大輪、ここに咲け————燃え盛る紫陽花————」
僕らは熱というものを感知出来なかった。それは一瞬で林という地形を一つ消し去ったのだ。残された真っ黒に焦げた土を見て、ようやくそれが燃え尽きたのだと理解した。




