第二百四十三話
うへへ……とか、でへへ……とか。そんな不気味な笑い声……笑い声? ええっと……うめき声? ともかくこう……ちょっと人には聞かせらんない声を人には見せらんない顔で、星見の巫女様ことマーリンさんはよだれを垂らしながら発していた。と、いうのも……
「すう…………むにゃ…………」
「うぃへへへ…………かぁわいいなぁ……やっぱり君達はこうだよねぇ」
僕とミラは仲直りの証に……ってわけでは無いけど、ちょっと久し振りに抱き締め合った。目のクマだとかやたら早起きだったのとか色々察するところはあったけれど、やっぱりミラは寝不足だったらしい。ぎゅうと抱き締めるともう夢の世界へ片足を突っ込んで、しかしそのままだと眠りにくかったんだろう、いそいそと僕の背中をよじ登っていつもの場所に落ち着いて。そして、やっぱり寝息を立て始めてしまったのだった。
「これ……また魔獣とか出たらどうすんだろ」
「まあまあ、今は僕もいるんだ。そこは安心しててくれ」
それはもう頼もしい限り……なんだけどなぁ。なんだか不安になるのはなんでだろう。顔? よだれ? さっきからぐねぐねと形容しがたい動きをしているのも高ポイント。ともかく……頼りになるマーリンさんの姿とかけ離れすぎていて…………
「…………はあ。こんなのに俺は…………」
「……? おや、なんだか無礼の気配がしたけど。気の所為かな?」
気の所為ですッ⁉︎ 慌てて否定するとマーリンさんはそれを気に止めることも無くまたミラの寝顔を食い入る様に眺め始めた。なんで分かるんだ……本当に。だが…………くっ。悔しいけど………………近付かれるといい匂いがする…………っ。落ち着けリトルアギト……さっきから言ってるだろう、これはもうただの不審者だぞ。ストライクゾーン広過ぎるぞお前……っ。
「で、アギトはこれからどうするつもり? ミラちゃんが眠った今、船首の向く先は君に委ねられているわけだ。どう舵を切るつもりかな?」
「これから、ですか。って言ってもこのまま北へ…………」
のんのん。と、マーリンさんはなんだか腹立たしいしたり顔で首を横に振った。この……引っ叩いてやりたい。
「君はミラちゃんを守ることを最優先に考えてもいいんだ。ミラちゃんが眠っている間に、彼女が避けてきた選択肢を取るも良し。なんなら僕に頼み込めばザックに乗せて何処へでも運んでいってあげよう。前みたいに急行でないなら中々快適だぜ? アイツの背中の上は」
「…………ミラを守る…………ですか」
勇者候補として、憧れとしてのミラには守られると腹を決めた。同時に、今背中の上でグースカ寝ている妹としてのミラは何があっても守らなければならないとも決めた。なるほど、これは選択だ。目を覚ましたミラに何か言われるかもしれないけど、それでもミラを守る為にもっと安全で分かりやすい道を選ぶのも今の僕には重要な役目なのだ。ミラの意思を尊重するか、ミラの安全を優先するか。蛇の魔女を討伐しに行く時、僕はミラとロイドさんとを…………いや。ミラの安全と自分が傷付かないのとを天秤にかけて、結果ロイドさんに怒られてしまった。先日、マーリンさんは僕とミラとを天秤にかけていとも簡単にミラを取った。その決断力を前に、自分が蔑ろにされているだとか憤ることは無かった。だったら…………
「…………そう、ですね。ここはこいつの為にも自分の為にも。それから自分の成長の為にも。道を変えるべきかもしれないですね」
「うん、なるほど。じゃあ君はどんな道を選ぶ?」
腹は最初から決まっていた。それでもまだ足りないだろうと僕の頭は勝手に思ったのだろう。元王都騎士の厳しい顔と、隻脚の料理人の優しい顔を同時に思い浮かべた。分かってるって、間違えないよ。それはちょっとだけ……じゃないな。多分……すごく。彼の言葉は僕にとって誇りなんだから。
「このまま北へ向かいます。今度は保身の為じゃない、コイツの尊厳の為に。このバカはきっと、この道の先でもっともっと大きくなる。その機会を奪うのは、秘書としても家族としても、仲間としても失格ですから」
「うん……なるほど。じゃあ、君はその道を選ぶんだね」
はい。と、僕は躊躇無く頷いた。この弱さを僕はずっと抱えたまま生きるんだ。僕が見た中で、最も誇り高い騎士が褒めてくれたこの欠点を。
「むにゃ…………んん…………じゅるり」
「じゅるり……? い——っ⁉︎ だから噛むなってんだよ…………」
がじりといつも通り首元を噛まれた。うん、これもちょっと懐かしい。体温の高いミラのことさら熱い口が、容赦無く僕の首元をベチャベチャにしていく。別に慣れてきたから痛みは良いんだけど…………このベチャベチャだけは精神的に参るからやめてほしい。
「……アギト? 君、食べられてない? 気のせい?」
「食べられてますね…………このバカ…………」
美味しいとかおかわりとかなんとも平和で間抜けな寝言を言いながら、ミラは街に着くまで……否。街に着いた後も目を覚ますことは無かった。マーリンさんの話では、ここは危険な魔獣も出ない平和な街、だそうだ。だが同時に、この先——東に進んだ先に平和は無いとも言った。つまりはこの街もいつ危険に見舞われる分からない。長居するつもりはハナから無いが、ここにある生活がいつ崩れ去るかも分からないものだと思うと少し胸が痛かった。
「じゃあアギトもそのまま休むと良い。病み上がりなんだからね、無理は厳禁だ。買い物や晩御飯の支度は僕に任せてよ」
「う……何から何まですみません。なんだかお母さんみたいですね」
あはは、こんなに可愛い兄妹ならいつでも歓迎だよ。なんて笑って、マーリンさんは僕らと別れて商店街の方へと歩いて行った。しかし……そういうことならさ。
「…………宿屋の目の前まで送ってくれるとか。はあ、僕って甲斐性無しだよなぁ。ま、今に始まったことで無し、気にするだけ無駄だよな。はあ……」
マーリンさんは時たまぶっ壊れるけど基本的にはかっこいいよなぁ。いや、基本ぶっ壊れてるけど時たまかっこいいのかな? どっちでも良いけどさ。まだ夢の中で何かを食べているミラを背負ったまま、僕は受付でふた部屋借りてさっさと布団に入ることにした。マーリンさん来たら……もう一つの部屋の鍵を渡して…………
まだ外は暗かった。ああ、寝ちゃったのか……なんて考える間も無く僕は飛び起きた。やばい! マーリンさんに部屋の鍵渡してない! ミラはまだ夢の中……だよね、当たり前だ。起こさないように拘束を抜けて、慌てて部屋から飛び出した。どこかで待っているだろうか。それとも呆れて他の部屋を取ってしまったか。なんにしても謝らないと…………ああもう! なんで鍵かけちゃったんだ! 僕も眠かったのか⁉︎
「マーリンさ——」
「んへ? アギ——」
ゴンッ! と鈍い音がした。勢いよくドアを開けるとそのままマーリンさんがこちらに向けて倒れて来た。ああ、なるほど。部屋の前で、ドアにもたれていたのか。あの…………ごめんなさいする事が増えちゃいましたね…………
「お゛っ…………お゛ぉぉお…………」
「ご、ごめんなさい。まさかこんな事になるとは…………」
慌てていた僕の膝。くつろいでいたマーリンさんの後頭部。それらは出会ってはいけない形で出会ってしまった。その出会いは鮮烈で、そして…………酷く痛みを伴うものとなってしまったけれど。
「いや……こんなとこで寝ちゃってた僕も悪いし………………ひぐぅ……」
「あわわ……と、とりあえず冷やしましょう! ああっ、下手に動かないで……頭なんだから安静に…………」
そこまでじゃ無いから大丈夫だよ。と、僕の袖を引き、涙を堪えながら訴える姿に涙を禁じ得ない。本当に申し訳無い……が、そうは言っても後頭部に膝蹴りなんて死んでもおかしく無いんだから。動かないで、今お医者さんを……
「ああ、もう。大丈夫だってば。頭はちゃんと守ってるよ」
ずいと近付いてマーリンさんは僕の手にローブのフード部分を掴ませた。なるほど、硬い。革かな……ただの日差しよけ、顔隠しだけじゃ無かったんだ、これ。ていうかもしかして全身こんな感じの素材なんです? だとしたら……重たいんじゃ……?
「分かったかい。そして察したかい? これ、重たいし着心地悪いんだ。早く脱がせておくれよ。ほら、入った入った」
「わっわっ…………って、なんで入ってくるんですか! もう一つ部屋取ったんで、そっちで脱いでくださいよ‼︎」
ああ、ごめんごめん。と、僕から鍵を引ったくって、マーリンさんはもう一度フードを深く被って部屋を後にした。いや、そうだよね。当たり前だけど……自分の身を守る為の装備はしっかりしてるに決まってるよ。偉い人だとかそんなのは関係無く、元冒険者、勇者の仲間として当然だ。僕らよりもずっと修羅場を潜ってる、歴戦の勇士なんだ。いつもはぽけーっとしてるポンコツ魔導士だと言っても。
「……俺ももうちょっとしっかり装備を整えたいなぁ。こんなシャツとズボンで前に出るの怖いし。っていうかミラも、あの鎖帷子みたいなのなんで着てこなかったんだ……」
もぞもぞと音がし始めた。ああ、枕を探してミラが暴れ出したんだ。ごめんごめんと慌てて戻ると、途端に捕まって噛み付かれた。あ、違う。これ枕じゃなくて夢の中でご馳走追っかけてた奴だ。
「……はいはい、おやすみ。いい夢見てるんだよな?」
ぽんぽんと頭を撫でて僕も瞼を閉じる。明日も頑張れよ、僕も頑張るから。で、王都に着いたら……着いたら……? あー……そこら辺なんにも考えて無かったかも。エルゥさんに会って…………マーリンさんには悪いけど、勇者の話は断って………………それで…………………………




