第二百四十話
今日は花渕さんはお休み。というかもう僕らも仕事に慣れてきたから、基本的には片方しかいないのだ。毎週二日のお休みが二人ともに与えられる環境。うーん……ホワイトですな。いや、知らんけどね、他の会社がどうとかはさ。
さて。花渕さんが休みということで、僕はまず、よかった、どやされる事は無いぞ。と、なんとも不甲斐ない、そして失礼なことを考えた。うるさいなぁ。結構堪えるんだよ、歳下の女の子にめためたに言われるの。次に、花渕さんがいなくても頑張るぞ。と、先の考えに言い訳する様に、手遅れじみた考えを持った。そして最後に……
——僕が————
胸が少しだけちくりとしたのは、花渕さんがいない分、より頑張らないといけないじゃないか! なんて怠惰な考えを持った時のことだった。その痛みには覚えがある。だが……それは昨晩取り除かれたと思った筈だが……? ほんの一瞬の痛みだったし、それにそれがどういうものかも理解している。だから……大丈夫だろうと、僕はそれを放っておいた。放っておかざるを得なかった。というのも…………
「……ひぃ……疲れたね…………あ、いらっしゃいませーっ」
ようやく途切れたお客さんの列に一息つこうなんて暇も無く、僕らは忙しなく店の中を駆けずり回る。それが以前の様な一過性のものなのか、それとも知名度が上がって人気が出てきたのか。真相は分からないが、僕らは朝からひっきりなしに訪れるお客さんの相手に追われ続けた。もしもこれが人気によるものなら嬉しい限りだし、何より明日以降にも期待が持てる。それは良いんだけど…………良いことなんだけど………………
「…………花渕さん…………花渕さんはいずこ…………サボりなんてそんな不良みたいな………………」
「頑張れ原口くん! 今日は花渕さんはいないぞ、しっかりして!」
人手が足りないっ! もしもこれが当然になるのなら、もう一人……せめて常に三人体制でいられる様にしなければ。あれ……それって人件費的にはどうなんです? 三人はキツイってことなら…………これに慣れなくちゃいけないってこと⁈ 嘘ぉ…………
お昼休みをロクにとる間も無く、気付けば午後三時を過ぎていた。空腹感はそれ以上の疲労感に掻き消され、それに気付いたのはやっとお客さんの姿が店から消えた午後四時のことだった。
「……はあぁ。疲れた……でも、売り上げも結構行ったんじゃないですか? 今日ってなにかイベントあるんですかね? もし、無くてもコレってことなら……」
「そうだね、ひさびさに黒字だ。今日は……どうだったかな。町内の集まりだとかお祭りだとかは聞いて無いけど……」
花渕さんと店長の草の根運動がやっと芽を出したのだな! と、飛び上がりたい気持ちと、とてもじゃないがそんなこと出来る状態でないおっさんの体と。それからやっぱりすぐに現れたお客さんに、僕はうぞうぞと這いずるカタツムリの様にまた店の中を動き回った。明日は僕がお休み。花渕さんならこんな忙しさでもなんとかしてしまうんだろうか。そう考えるとちょっとだけ悔しくもあった。だが……それはそれとしてやはり疲れたのだ。兄さんの件も一件落着して、今日の売り上げも好調とくればもうなんの問題も無い。今日は帰ったらゆっくり眠ろう。そして明日の一日をまた有意義に使おう。有意義にって、何に使ったらいいのかはまだ分かってないんだけどさ。
「ありがとうございましたーっ」
お店が閉まる数十分前に来たお客さんを見送って、もう今日はこれで店仕舞いだろうなんて考えてホッと一息つくと、それを見越したかの様に入り口のベルが鳴った。わあ! ちょっと待って、今準備するから! 疲労からしゃがみこんでいた膝を慌てて伸ばし、振り返ればそこには何やら意地悪な顔をした花渕さんの姿があった。
「おっさーん、それはダメじゃないのー? まだお店開いてるんだし、せめてお客さんから見えないとこでやりなよ」
「うぐっ……今日はお小言は聞かずに済む筈だったのに……」
お小言ってどういうことだし! と、余計な地雷を踏み付けて僕は花渕さんに陳謝する羽目になった。うう……どうして…………
「……大丈夫そうじゃん。しかしそんな忙しかったんだ、今日。もっと早くに来れば良かったかな」
「それはもう忙しかった…………あれ? そういえば今日はどうしたの? というか、ここのところお休みでもよく顔出してるけど……」
家に居場所無いから。おっさんだってそれは分かるでしょ、同じ立場なんだし。と、涼しい顔で言われてしまってとても申し訳無くなる。申し訳無いというのは、なにも花渕さんにだけでは無い。母さんと兄さん、それにもういないけど父さんにも。よくも追い出さず、見捨てずにいてくれたものだ。いい家庭に生まれたよ、本当に…………
「…………いや、うん。お節介だったかも知んないけどさ、おっさんなんかヤバかったから。自覚も無さそうだったし」
「ヤバそう……? ああ、兄さんのこと。うん……ちょっとヤバかったよ…………」
うっ……もしかしてこっちの僕も顔に出やすい感じ……? それはもうやばいもやばい、二人にめちゃくちゃ怒られてしまったものな。帰ったら謝んなきゃなぁ……なんて。それを彼女に伝える方法は無いから、とりあえず言葉を濁す。
「でも……まあ、これでようやく自覚が持てたと言うか。本来持ってなきゃいけない責任感だとか、そういう大人の要素を手に入れたと考えれば……トータルは損だけど、悪いことばかりじゃなかったと思えるよ。うん、兄さんも健康に気をつけ始めたし」
そう、これはこれで成長出来るイベントだったのだ。そう考えれば最悪というわけでも無い。悪いことは悪いが……兄さんは無事なわけだし。向こうではまだ問題解決してないから、そこさえなんとかすれば…………
「……おっさん。それ、本気で言ってる?」
「……へ? 本気って……」
花渕さんは間髪入れずに脇腹に拳を叩きつけてきた。痛い……けど、我慢出来ない痛みじゃない…………我慢する意味ある? 僕は普通に痛いボディブローをモロに貰って、さっき怒られたばかりなのにも関わらず、さっき怒った人の所為でまたしゃがみこんでしまった。
「いいっ…………てえ…………花渕さん……そこはダメ……脂肪が薄い……」
「ふざけてないで。しゃんとして」
はい、ごめんなさい。ひどく冷たい言葉に僕はそう言う他無かった。そして少しだけ態度の冷たい花渕さんに連れられて、入り口からは見えづらい棚の陰で隠れる様に向かい合った。
「……アキトさん。そんなことで芽生えた責任感に本当に意味があると思う? それは本当に責任を持とうって、誰かを背負おうって感情だと思う?」
「え……? えっと……そりゃ、本当はもっと早くに気付かなくちゃいけないことだったと思うけどさ。でも、僕は確かに兄さんのいない家を守ろうって思ったし。それがきっかけで他のこともちゃんとしようって……」
胸に違和感があった。チクチクと刺すあの痛みじゃない。何か……引っ掛かって、イガイガする様な。例えるなら…………風邪引いた時の、鼻の奥の方がずっと詰まった様な感覚。
「それは責任感じゃないよ。おっさんは別に責任感を持ってなかったわけじゃないじゃん。責任感無かったら私にあんな話しなかったでしょ? だから、それは責任感じゃない」
「あんな……? えっと…………?」
はあ⁉︎ 覚えてないとかありえないし! と、思い切り脛を蹴られた。互いの脛の骨が乾いた音を立ててぶつかり合い、僕らは揃ってしゃがみこんで向こう脛をさすった。いったぁ…………涙出るくらい痛い…………
「〜〜〜ったぁ……と、とにかく、おっさんのそれは勘違いだから。いったぁ…………なんでそこだけはボヨボヨじゃないの。めちゃくちゃ痛いんだけど!」
「こっちも痛いよ! というかなんで慣れてないのに脛蹴りなんてしたのさ! それに……その、勘違いって…………」
別に責任感でもいいじゃないか。と、いうか責任感ということにしておいてくれよ。僕にもやっと芽生えたんだって、そう思いたいじゃないか。これが責任感じゃないなら……僕は一体何に振り回されてたっていうんだ。そんな間抜けな話…………
「……それは不安だよ。お兄さんが倒れたのがきっかけだったんだろうけど、おっさんむしろ責任感は人一倍持ってたんだよ。責任感が強かったから、その不安を真正面から受け止めたんだよ。おっさんは……余計なものまで背負おうとしたんだよ」
「…………不安……余計なものって…………兄さんの代わりに頑張ることは余計なんかじゃ……」
余計だよ! と、今度はグーで脛を殴られた。同じとこ——ッッ⁉︎ ぐおおぉ…………同じとこはいかんですよ…………っ‼︎
「……余計なことだよ。誰かの代わりになんておこがまし過ぎるんだって。おっさんはおっさんが背負えるものを、おっさんの為に背負えば良いから。自覚持ちなよ、三十路童貞の癖に」
「うぐぅっ…………なんでそんなひどいこと言うの………………」
事実なんだから酷いのはおっさんの人生だし。なんてトドメの一撃を食らって、僕の精神はノックアウトされた。だけど……不思議なことに胸のつかえが取れた気がした。
「…………あのさ。僕って……責任感本当にあるのかな。この歳まで……こんな…………」
「あるからその歳になって頑張り始めたんでしょ。大体、責任感なんて人それぞれ違うもの背負ってるだけでみんな持ってるし。価値観が違うからそれを比較しちゃうだけで」
え、なんだかかっこいいこと言うじゃん…………かっこいい……じゃん…………ずるい。そっか……花渕さんから見ると、僕にも責任感があるように見えるんだ。そっか……それは…………嬉しいこと聞いたな。
「それから、家族の不幸をそんな悪いばかりじゃなかったなんて言わない。おっさんはそういうの向いてないから、余計に気負うだけじゃん。場を和ませようとか、気を使わせないようにしようとか。そんな空気なら読まなくて良いから」
「ひぐぅ…………十六歳にかっこいいこと言われまくってる…………ぅうう…………」
ちゃんと聞け! もう勘弁して! と、拳を握りなおした花渕さんを見て僕は慌てて両手で脛をガードした。そんなやりとりもなんだか久々な気がして……ああ、そうか。そういうことか。
「……アイツの顔、ちゃんと見てなかったのかな」
「アイツ……? 何、二次元の話? 友達いないし……あ、推しとかいうやつ?」
違うやい! 三次元の妹の話だい! でも……うん。やっぱりそうだ。胸のつかえはこれだったのか。僕は……見えなくなってしまってたんだ。いつもいつも見てた、ずっと追っかけてきたアイツの背中が。目標が見えなくなればそりゃ迷うよね、なんて言っても伝わらないから……うん。
「ありがとう、花渕さん。なんか……うん。かっこよかったよ」
「…………バカにしてない?」
してないしてない。脛を隠したままぶんぶん首を振って、彼女が拳を下ろしたのを確認してからゆっくりと立ち上がった。あの、まだジンジンするんですけど…………
「……ところで、さ。その……さっきの話…………花渕さんの…………」
「違うよ、昔見たドラマの話。お涙頂戴熱血教師もの、流行ったじゃん。親が見てたから見てただけだし」
違う……なら良いけど。そう呟くとまたボディブローを貰った。あ、そこは大丈夫、肉の鎧があるから。じゃあ帰るからと吐き捨ててさっさと店を飛び出した花渕さんを見送ると、僕の退勤時間もやってきた。お疲れ様でした。絞り出した元気でそう挨拶して、僕もさっさと着替えて帰途に着く。さて……帰ったらゲームでもしますかな。デンデン氏を誘おうと開いたスマホには、一件のメッセージが通知されていた。




