第二十四話
門番に事情を説明し砦の門を潜ると、僕は先の景色の意味を理解した。この街は背後に山脈、手前に深い森とその間に人が通るために切り開かれた道があった。僕達が魔獣と遭遇したのは、手入れすることが難しくなってきた、自然に飲まれ始めているその通り道だった。少し遠くからではこの街を囲む砦は見えない。この街は山の麓に作らられているのでは無く、その脇の窪地から山の斜面を這い上る様に家を建て、工場を建て、炭鉱を掘り進めてきたのだ。何故こんな不便そうなところに居住しようと思ったのか分からなくなるが、街は奥に行く程上にと広がっている。大丈夫なんだろうか、噴火とか。
「それじゃ探すわよ。例のゲンって老人を」
彼女は張り切ってそう言った。いつも通りずんずん進んで行く彼女に僕は必死でついて行く。この街は普通に歩くには勾配がきつすぎて、そして多すぎる。すぐについて行けなくなる僕を見かねてか、彼女は笑いながら戻って来てまた僕の手を取った。違う、そうじゃないんです。さっきあんなに走ったばっかだから膝が……そんなに引っ張——膝が!
笑う膝とは対照的に、笑えない程情けない。彼女はピンピンして今にも飛び回らんくらいに元気をありあまらせていると言うのに。知らず知らずに下がっていた視線を上げ、それでも視界の下の方に主張してくる地面が鬱陶しくて堪らず天を仰ぐ。すると突然立ち止まった彼女に気付かず後ろからぶつかった。体重は僕の方がずっと重たいはずなのに尻餅をついたのは僕だった。
「何してんのよ、ほら」
どこか不服そうに少女は僕に手を差し伸べた。その手を取って立ち上がろうとした時、彼女は目を丸くして、あれ? と、間抜けな声をあげた。どうかした? なんて聞く間も無くその意味を理解する。彼女が僕の方に向かって、つんのめる様な格好で倒れそうになったからだ。
「っ! この!」
咄嗟に右足を僕の足の間まで伸ばして、崩れた姿勢を立て直した。半ばムキになったのか、いつもより力を入れて乱暴に引っ張り起こされる。立ち上がりかけた時、僕はすぐに後ろから引っ張られたような錯覚を覚えた。
「……街のすぐ側と山の中はずっとこんな調子でしょうね」
走って疲れているからシンドイんじゃない、この街……と言うよりも、ここら一帯の斜面が見た目より急なんだ。それにさらさらと乾いていて硬い砂の地面は踏ん張りが効きにくい。彼女が危惧しているのはきっと戦闘への影響だろうか。草の根にしっかり支えられ、多少水分を含んでいた草はらとはきっと勝手が違うのだろう。いえ、僕は歩くのがシンドイくらいにしか理解してないんですけどね?
「ともかく探しましょう。それから……」
「それから?」
彼女は言い淀んでそのまま歩き始めてしまった。早速見つかった不安材料と他にも何か気がかりがある様子だが、キョロキョロと物珍しそうに辺りを見回す子供らしい姿にひとまず安心する。鮮明に焼き付いている戦闘の記憶、苛烈な彼女の姿を忘れさせるそのあどけなさだけは今周囲にあるもので唯一知っているものだったからだろう。
街行く人にゲン老人のことを聞き込みながら、もう街の中腹……というか五合目の方が言い方としては適切な気がする所までやってきた。老人のことも、勿論例の絵のことも収穫はなく、或いはもうこの地を離れたかこの世を離れているんじゃないかと考えているとどうやらミラの方で収穫があった様だ。お互いの姿が確認出来る範囲で別々に聞き込んでいた彼女が、少し顔色を明るくしてこちらへ駆け寄ってくる。
「街のはずれに居るそうよ。若者を集めては剣術を仕込んでるっていう偏屈な老人が」
「街のはずれ……か……」
そう言われて僕は今まで登ってきた道を振り返った。遠くに見える門とその外に広がる樹海。ずーっと視線を左に旋回してまた彼女の方を、つまり山の頂上の方を向いた時、彼女は両手で僕の手を取った。
「そう。そうよアギト」
彼女も彼女で嫌そうな顔をしていたのだが、きっと僕はその何倍もうんざりした顔をしているのだろう。街のはずれとはつまり、この街で一番高い場所を指していた。
「……さ、行きましょうか。時間は惜しいわ」
「……そんなぁ……」
僕らの視界の先にはもう建物は少なく、それがこれから進む道の物理的な険しさを物語っている。どうしてそんなにも不便な場所に隠居しているんだ。と、毒突きたくなってきた。
彼女の手を借りながらようやくたどり着いた場所には、小さなボロ小屋が一件と、もっとボロな長屋の様な石造りの建物が一棟。そしてロイド氏から預かってきた絵の意味を理解させる鉄屑が転がっていた。近付いて観察してみてわかったのは、それがまごう事なく鉄塊であるということだけ。初めて絵を見た時にラッパの様だと思った部分も、本当に絵に書かれていた通りに横に広がっているだけ。というか奇怪な形に切り抜いた極厚の鉄板と言うのが正解だろうか。正直言ってゴミにしか見えないし、打ち捨てられているも同然なこの姿はまさしく粗大ゴミなのでは…………?
まるで意味も意図もわからない鉄屑の前で立ち止まる僕は、背中をミラに押されながら小屋の方へ進んだ。こちらも近付いて再認識するが、相当にボロい。長屋はもっと酷い、と言うかこちらは手入れされている形跡もない。
「ごめんくださーい。アーヴィン市長のハークスです。こちらにゲンというご老人はいらっしゃいませんかー?」
ドア……と呼ぶにはもう役目を成していない、開きっぱなしのそれを叩いて彼女は呼びかける。しばらくすると、老人の代わりに何か金属製の鍋でもひっくり返したような物音だけ顔をのぞかせた。
「……ごめんくださーい…………アギト、行くわよ」
面倒臭いという態度を露骨すぎるほど顔と声と態度に表して、彼女は僕の手を引いて小屋の中へ入っていく。玄関……もなにも無さそうなので、無遠慮に土足で上がり込んだが……こう泥だらけゴミだらけの床だ、そもそもこの世界で土足厳禁の文化を見たことも無し。構わないだろう。
入って少しも進まないうちに音の出所がわかった。ここだけやたらボロボロ……と言うかベコベコに木の壁が凹んでいる。そしてすぐ足元にはロープを括り付けたバケツ…………いや、これは兜……?
「おう? なんだおい、客人じゃねえか。珍しいな、大体デカイ音立ててほっとけば帰る奴ばっかりだってのに。余所モンか?」
老人、と言うには随分若々しい。筋骨隆々という言葉がぴったりな褐色の肌に、癖の強い暗い茶色の髪を伸ばしっぱなしにした大男がロープの先の部屋に寝そべっていた。
「貴方がゲンさんですか」
「なんだ嬢ちゃん、名乗りもしねぇで。年上は立てるもんだぜ?」
ああ、ミラの機嫌がどんどん悪くなる。なるほどこれは偏屈なクソジジイだ。顔を見て、そのシワの多さにようやくこの男が老人であると紐付けるポイントが見つかった。無精髭が所々白いのも年齢を多少感じさせるが、それにしても老人と呼ぶには表情も肉体もあまりにも若々しい。
「……失礼しました。アーヴィンから来ました、市長のミラ=ハークスです。この度はゲン老人に依頼があって訪ねた所存です」
表情をなんとか取り繕い、ミラは毅然とした態度でそう言った。するとさっきまでハナクソをほじっていた男も、体を起こして僕達と向かい合うよう座り直して……おい、さっきのハナクソどこやった。ティッシュとか無いけどお前何処へ……
「これは失礼。ええ、私がゲンです。よろしく、ハークス殿」
そう言って男は背筋を伸ばして右手を差し出した。仮にも隣町からやってきた役人に対する姿勢としては遅すぎる気もするが妥当だろう。彼女も彼を見直したのか今度は心からの敬意を払った普段見せる真剣な表情だ。
「はい、よろしくお願いします」
そう言っって彼女は男の手を取っ————
「ミラ待っ………………!」
男の表情が崩れる。してやられた、この男は友好的な関係を作ろうと言う気などさらさらない。悪どい、下卑た表情で笑う男とは対照にミラの顔から血の気が引いてどんどん青白くなって行く。
「ふっくっくっく……悪く思いなさんな」
この男……! 食ってかかろうとした矢先男とミラのうわべだけの握手は解かれ、その手の間には粘性の強い糸が引いていた。ミラの顔はどんどん青ざめて、手のひらを見る頃には全身に鳥肌を立てて震えていた。
「〜〜〜〜ッッ⁉︎ ぃやぁぁああああああ‼︎」
野郎やりやがった! 初対面の、それも立場ある人間の、しかも女の子の掌にハナクソなすり付けやがったッッッ‼︎ 前代未聞過ぎる挑発にミラは慌てて部屋の壁に手のひらを擦り付け、必死に男のハナクソを除去した。くそう、なぜだ! なんかちょっと興奮するぞ!
「ぐっはっはっはっ! 後五年したら出直しな! そんな貧相ななりのガキを抱く趣味は無いんでな!」
どこまでも悪びれない……と、男の方を睨みつけているとバギャッという聞き覚えのないというか、聞こえてはいけない音が聞こえてきた。足下を見ると踏み砕かれたさっきのバケツが転がっていた。
「ぐはっはっはっは……あ? それなんで壊れ——」
「——ブッ殺す——ッ!」
そこに修羅は立っていた。立ち昇る闘気、迸る殺気。僕がその羅刹を視界に捉えていられたのは、ほんのわずかな時間だっ…………待って⁉︎ 殺しちゃ困るんだけど⁉︎
「——ッラアァッッッ‼︎」
魔獣に放ったのよりも鋭く、重いであろう一撃が男の頭めがけて繰り出された様なだ。様だ、というのは……申し訳ない。僕の目では追えなかった為に、こう表すしかないのだ。それが頭めがけて、文字通り必殺の一撃を繰り出したとわかったのは、その男が顔の横で彼女の渾身の回し蹴りを受け止めていたからだ。