第二百三十九話
じゃあ晩御飯の時間になったら持ってくるから、大人しくしてるんだよ。そんなお節介なお姉さんじみたことを言ってマーリンさんは部屋を後にした。まったく困ったものだ。さっきまで内側から胸にチクチク刺さっていたものの殆どをこそぎ落とされてしまった気分だ。もしかしたら、僕が至るべきものというのは、彼女の様な大きくて暖かい、包容力のあるミラの居場所なのかもしれない。さて、それはそれとして………………
「…………………………おっっ……ッ⁉︎ おぱっ……おっっ……おおおおおっ⁉︎ おぱっ⁈ おっ……おおおおおおおおぉおぉおおッッッ⁉︎」
なんてものを残していくんだ! そりゃ心の棘とか一撃粉砕だよ! クリティカルだもの! まだこう……ほんのりと温かみが残っている。甘い匂いと優しい吐息が鮮明に焼き付いている。そしてなにより…………お………………おっぱいが——ッ! ものすごい質量をもった柔らかい物体がッッ!
「…………熱が上がるってんだ…………うう……なんであんなに無防備なんだあの人…………」
自分の胸のあたりに押し付けられた柔らか過ぎる感触が忘れられない。忘れてたまるものか。一生使ってやる……何にとは言わんが…………
熱が上がったままではよくない。もう一度来た時に恥ずかしい姿を見せるわけにはいかない。色々理由はあれど、ともかく僕は冷静さを取り戻した。ふう。
「……むしろ悪い結果になる気がして来た…………これが賢者…………」
ええ、賢者ですよ、そりゃあ大魔導士だものね。ではなく。一人取り残されると心が落ち着かない、悶々とした気分が続いてしまう。いつもならそんなの考える暇も無いくらいミラが甘えてくるんだけど……今日に限ってアイツはいない。いや、そればかりは仕方ないことだ、明日ちゃんと謝らないと。窓からミラの入院してる病院を眺めていると、こんこんとドアを叩く音がした。それと同時に、ちょっとだけ良い匂いが流れ込んでくる。やったぁ! 晩御飯………………ごほん、マーリンさんだ。
「アギト、ご飯だぞ。入るよー」
そう言って間髪入れずにマーリンさんは片手にお盆を持って現れた。もしもこう…………あれだよ。アレしてたらどうするんだ。男の子の部屋に入る時はちゃんと返事を待ってくださいお願いします。
「ちょっとは元気になったかな? 元気になっただろう。なんたって僕が直々に果物を剥いて上げたんだから、元気になってないと許さないぞ」
「ええ…………お陰様で元気いっぱいでしたよ」
なんで過去形なのさ、なんてマーリンさんは笑った。ちょっとだけ考えたくないことだけど…………その………………バレてないよね……? そしてこっちは分かっていたことなのだが、気まず過ぎて顔を見れない。罪悪感がすごい! なにこれ新手のプレイ⁉︎
「……早く元気になって、仲直りしてくれよ。君達が喧嘩してるとこ見てたらさ、なんだかすごく嫌な気分になったんだ。二人ともお互いが大切なのに、それがすれ違ったままなんて寂しいじゃないか。僕は悲劇は嫌いなんだ」
「悲劇…………ですか」
そう。と、小さく頷いて、マーリンさんはさっきと同じ様にベッドの側へ椅子を運んで腰かけた。あの………………自動的に見上げる角度になってしまって申し訳ない。その…………………………おお、すげえ。とか、思ってしまって申し訳ない! 落ち着けリトルアギト! 思い出すんじゃない!
「……僕達の冒険譚は、結局のところは悲劇さ。でも、書物として伝わっているものはどちらかと言えば喜劇であるように綴られている。勇者を失った戦士と魔術師は、王様の元でまた新たな勇者を探し始めた。かの勇者の意思は引き継がれたのだ。なんて、ね。無理矢理にでも前向きな終わり方にしたかったんだろうよ」
僕達の冒険はこれからだ! に似た様なものか。ただ、これは打ち切られたフィクションでは無い。現実に起きていた厳しく辛い戦いを元にした、たった今にまで繋がっている物語。ミラやオックスがマーリンさんに初めて会った時から抱いていた違和感。物語を知っている人間からすればその旅は華々しくて過激で、高揚感を刺激する文字通り浪漫溢れる冒険譚だったのだ。誰もが——目の前に対峙したあの二人ですら、そのすぐ後ろにある綴られなかった悲劇に気付かないくらいに。
「僕らの旅が悲しい終わりを迎えたから、君達にはそうはなって欲しくない。お姉さんのわがままを聞いてくれるとうれしいな」
「…………はい。俺も……この旅が悲しいものになるのは嫌ですから」
よしよし、素直ないい子だね。なんて頭を撫でられぎゅうと抱き着かれた。やめてッ! らめぇっ! 今はらめぇえっ‼︎
「…………………………ち、違うんです…………その……本当に…………」
「ぅお……おう。ご、ごめん。気が利かなかったね……そうだね、君も男の子だからね。いや……ごめんごめん…………」
殺してッッ! こんな恥ずかしい僕ならいっそ殺してくれッッ! とても優しい、暖かい眼差しで微笑まれ謝られ、もう僕のこの気持ちをどこへ持って行ったら良いのか分からない。お願いだから……せめて怒って…………
「……ごほん。それだけ元気なら問題ないだろう。僕は明日の準備があるから、君は早く寝るんだよ」
「うう…………もうお嫁にいけない…………」
その時はミラちゃんにお願いしよう。なんて言って、マーリンさんは颯爽と出ていった。なんてことをしてくれたんだ……うう…………
パチリと目が覚めた。気分は…………曇天。向こうとこちらでは精神的にはリンクしているものの、肉体的な繋がりはない。つまり……
「…………くっ…………思い出せるのに……思い出せない………………っ!」
間違いなくあの感触は頭に残っている。だが……だが直接触れた肉体は、今ここには無い。昨晩ほど鮮明な記憶としては残っていない。だが…………それでも視覚情報だとか思い出補正だとかで実用性は高いままだ。なんの話だ朝っぱらから…………
「……よし」
切り替えろ。頭の中でそう呟いた。ここ数日ショックな事件が続き過ぎた。兄さんは倒れるし、アイツとは喧嘩するし。ショッキング過ぎるナイスバディの衝撃が、もう本当に些細なもやもやを全部吹き飛ばしていったけど。うっかり口を滑らせようものなら、またあの馬鹿に噛まれるだろうなぁ。用心しておかな……じゃなくて! 切り替えろってんです!
「……っ」
すくっと立ち上がって部屋を出る。出ようとする。ドアノブに手をかける。かけようとする。かけられない。ぎゅうと胸が締め付けられたみたいだった。その先でまた……悲しいこと、嫌なことが起きてしまうんじゃないか、って。そんな暗い気分になる。
「これが本当のトラウマってやつか……」
兄さんは大丈夫。昨日、あんなに塩分を控えていた。薬も飲んでいた。そもそも退院した時点でお医者さんから大丈夫と言われている様なものだ。だから大丈夫。兄さんは……兄さんは……? じゃあ……もっとやつれて、ずっと体が悪かった母さんは…………?
「…………っ! 母さん……っ」
根拠の無い恐怖に背中を押されてガチャリとドアを開けた。何にもぶつからない、何も無い。大丈夫、大丈夫だ。大丈夫だから——
「おはよう、アキちゃん」
「お、起きたか、アキ。早く準備手伝え、酷使するとまた倒れるぞ」
リビングに向かえば二人が笑って出迎えてくれた。大丈夫だ。もう、何も悪いことは起きてない。だから大丈夫。ところで……
「……兄さん。そのジョークはガチで笑えないから。僕がやるから座って…………ああ、座りっぱなしも良くないんだっけ? えーと……そこで足踏みしてて」
「はっはっは。なかなか言うようになったなぁ、アキ。お前の言う通り、通勤前後に少し歩くようにしようかな」
そう言って兄さんはリビングを出て行って、朝ごはんの支度が出来る頃には随分懐かしい小型ウォーキングマシン……足踏みマシン? を引っ張り出してきた。それ……子供の頃、母さんが買ったやつだよね……?
「これから毎朝これやってるから、ご飯の準備はアキがやってくれ」
「うわっ……どさくさに紛れて全部押し付けるつもりだ…………まあ、別に良いけど」
良い弟を持ったよなんて笑いながら、兄さんは僕らと並んで食卓に着いた。うん、何も問題無い。心のチクチクももう感じない。だから……大丈夫だ。いただきますと三人揃って手を合わせて、僕らはまた平和な日常の朝を迎えたのだった。
迎えたのだった、なんて。呑気かましてる場合では無いと、この時の僕は思いもしなかった。




