第二百三十六話
ふとフルトでの朝を思い出す。あの時はもっともっと早く、それこそ日の出と共に行動を始めたくらいだった。だが今はもうオックスもいない、ミラを甘やかすことに特化したフォーメーションだ。こいつが寝坊すればするだけ時間は遅くなる。そういうわけで、あの時に比べて一時間も二時間も遅い時間に僕らは役所に訪れていた。だが……それでもフルト程は混み合っていない。それが良いことか悪いことかは……まあ、人それぞれと言えよう。
「よし、じゃあ今日もバッチリクエストこなしていこうか。午前中に、少し行った先の砂地で大蠍の討伐。午後は様子を見ながら軽めの依頼を受けて、ちょっとでも小銭を稼ごう。明日には出発するから、買い物も終わらせておかないと、だ」
マーリンさんはそう言って、まだ寝ぼけ眼を擦っているミラの頭を撫でた。あ、今はやめた方がいいです。寝ます、それ。もうほんと、簡単に出来てるんで。
「大蠍……なんていうか、虫型が多いですね。昨日はカマキリだったし……」
「魔獣も元になった生き物がいるからね。ゴートマンの様な例外を除けば、地脈から溢れたマナに侵食されて変異したものが魔獣と呼ばれるようになるんだ。その地脈をおかしくしているのが魔王というわけで、どうしても倒さなくっちゃならない相手というわけでもある」
地脈……とな。そもそもとして魔力だの錬金術だの、聞き慣れない単語の多いこの世界に今更疑問を抱くことも無いのだが、魔王というのは大地に……というかこの国、この世界そのものに影響を及ぼす程の力があるってのか? それ……本当に倒せるんですかね…………
「ほらほら、ミラちゃん。シャキッとして。えへへぇい……かぁわいいなぁ…………」
マーリンさんに肩を掴まれ、ミラはようやく丸まっていた背中を伸ばして歩き始めた。そんなミラも街の外に出る頃にはしゃんとして、魔獣の住処に近付いた頃にはもうすっかり勇士の顔付きに変わっていた。切り替えが早いのか遅いのか判断に困る。だが……大丈夫だろう。いつもの頼りになるミラの背中がそこにはあって、後ろにはこれまた頼もしいマーリンさんがいて。それに僕だって、もう頼りにならないへなちょこじゃないんだ。
「アギト。その……一個だけ。マーリン様の真似事じゃないけど、私からもアンタに課題を出すわ」
「課題……? おう、いいけど。なんだよ」
ぎゅっと手を握ってミラは俯いて黙り込んだ。そしてゆっくりと顔を上げると、その課題というのを口にする。だが……それを僕は知っている。それは……
「…………魔弾の使用制限よ。一日に一発まで、それ以上は使わないで。材料もタダじゃないし、私の魔力も補充に回し過ぎたら節約の意味が無い。マーリン様に手伝って頂いて作ったものなんだから、大事に使いなさいって話よ」
「…………おう」
ミラは嘘をついた。それがどういう嘘なのかまでは分からない。使用制限自体が嘘……というよりも、苦肉の策である可能性。何発使ってでも生き残れと言いたいが、今の自分の魔力と懐事情的に苦しいからそうせざるを得ないという線。もしくは、その材料費や魔力の話が嘘という可能性。危険だから少しでも僕が慎重に動く様にとに牽制をかけているのか。或いは…………うん、どうだろう。マーリンさんに良いところをアピールしたいからお前は引っ込んでいろ、なんて……考えるだろうか。
「とにかく、一発だけよ。一日一発、本当に必要と思った時だけ。たとえ外したとしても、もう二発目は無し。その後にどんな脅威が現れたとしても、よ」
「わ、分かったよ。いやに念を押すな……」
当然でしょ! と、不機嫌そうに胸を小突いてミラはまた前を向いてずんずんと進み始めた。予備があるという余裕を無くして、僕に危機感を持たせる為なんて可能性もあるな、これ。だが……たった一発と分かっているなら、それはそれでやりようもある。そもそも僕はこの魔弾を複数回当てられた試しがないんだ、決める時は一撃で決めなくちゃならないってことくらい理解している。
大蠍の住処……ということで訪れた砂地は、乾燥しているというよりもむしろ湿っぽい、泥地という趣だった。まあ、砂の中に生息する魚型もいたんだ。住処と元になっていそうな生き物とは案外関係無いのかもしれない。もしくは、他の地形へ移動出来る様に進化したものが魔獣と言われるとか。
「…………蠍と言うより蟻地獄ね。アギト、大人しくしてなさい。これじゃ囮も何も無いでしょ」
しばらく進むと大きなすり鉢状の穴が見えてきた。なるほど、これはたしかに蟻地獄だ。蠍とは…………? 見れば中央になにやら大きな……うん、蠍だ。先日のカマキリと同じくらいの縮尺まで引き伸ばされた大きな蠍が、これまた大きなハサミを大きく開いてこちらを威嚇しているのが分かった。複数の生き物の特徴が見られるのも魔獣の特徴と言われれば、納得出来なくは無い。不本意だが。
「さて、ミラちゃん。見たところ、この穴は完全にアレのテリトリーと言えよう。いかな君でも、この踏ん張りの効かない急坂では脱出も難しい。近付く手立ては殆ど無いけど、どうするのかな?」
「はい。結局のところは虫……生き物ですから。ここから遠隔術式で焼いてしまおうかと」
なるほど、そりゃ僕の出番は無さそうだ。退がってなさいと僕とマーリンさんを遠ざけて、ミラは穴の淵に立って魔力を練り上げ始める。え? なんでそんなのが分かるのかって? こう……手をかざして目を瞑ってたらそりゃもう……そういう感じのことしてるかなー、って。
「————三又の槍灼・壊っ!」
ぶわっと熱気が押し寄せた。ミラの言霊とともに現れた火球は、真っ直ぐに穴の中央に向かってその矛先を伸ばし始める。そして、ぶつかる直線に穂先を三つに分け、大蠍の爪と胴体をそれぞれ貫こうと襲い掛かった。だが……
「……うう。あんな雑魚相手に火力不足だなんて…………」
「…………ダメ、か。やっぱり、遠距離に強力な攻撃を出来る程の式はまだ組み上げられて無いみたいだね」
ぼりぼりと後頭部を掻いて、マーリンさんはミラの元へとゆっくり歩み寄っていった。選手交代、というワケだろうか? それとも何かアドバイスを? というか、こういう時こそ魔弾の出番なのでは? 言いたいことは色々あったが、今はマーリンさんとミラを信じて——
————僕が守るんだ——————
突然ぎゅうと胸が締め付けられた。嫌な予感がする。そう、本当になんの根拠も無いただの予感。二人の魔術師を信じてだとか、言いつけを守ってだとか、そんなことが突然頭から抜け落ちてしまった感覚があった。鼓動が迅る。体が冷たくなる。そして、その予感がなんであるのかを理解せぬまま、僕の体は動き始めていた。
「————ミラ——ッ!」
「——? アギ————ッ⁉︎」
ザァッと音を立てて足場は崩れ始めた。そう、もっと早くに気づけた筈だ。それこそミラやマーリンさんなら僕よりももっと早くに。この依頼を受けて、この場所に訪れて。蟻地獄の様だとそれを揶揄した時には気付いていて然るべきだった。ああ、間抜け過ぎる。一体何があったって言うんだ、二人に。まるでその可能性に気付けないなんて、普段ならありえない。二人なら僕なんかより先に、こうなってしまう前に気付けた筈なのに——ッ!
マーリンさんの背中を追い越した。一歩、もう一歩。ああ、くそ。どうして今日はこんなにも足が遅いんだ。強化の掛かっていない自分の体の重さにうんざりしている暇は無い。届く。まだ届く。絶対に届かせる。僕が——
「——俺が守るんだ————」
届いた手でミラの腕を掴んだ。そしてそのままマーリンさんの方へと投げ飛ばす。足元は間も無く崩れ切って、僕はそのまま穴の淵から斜面へと転げ落ちていった。そうだ、そんなわけが無いんだ。これが討伐依頼を出される理由が足りていなかったんだ。轍も見えない、この先に何があるわけでも無い。なんでも無いただの特大の蟻地獄が討伐対象なんてあり得るわけが無い。
「——アギトッ! くそっ! 大馬鹿か僕は! 揺蕩う雷霆!」
倒さなくてはならないだけの理由が——危険性がこいつにはある。近付いたら危ないというだけなら立ち入り禁止にするだけだ。そうでは無い、討伐という依頼の理由がそこにはあったんだ。
「ッ! くそっっ! 踏ん張れない……登れない…………っ!」
顔を出したのは、目の前にいた蠍のふた周りは大きいであろう別の個体だった。番いだろうか、親だろうか。そんなのはどうでもいい。これは……この魔獣は、地中を移動して人々を飲み込むからこそ討伐なんて大仰な依頼を出されていたんだ!
「この……っ! 揺蕩う雷霆・壊!」
ミラの言霊が聞こえた。だが、姿は見えない。もう穴の中腹まで落ちてしまっただろうか。落ちる瞬間、マーリンさんに掛けて貰った強化も意味を成さない、そもそもとして足をついて立っていられない。まるで底なし沼の様な、ぬるぬると滑る足元にせっかくの膂力も役に立たないのだ。となれば……目の前に現れた二頭の魔獣を相手に……僕が…………
「————待って! 待つんだミラちゃん!」
上方からバチバチというスパークとマーリンさんの声が聞こえた。そしてすぐに足元に小さな影が現れる。あのバカ……せっかく放り出したのに…………っ!
「伏せてアギト! 三又の槍灼ッ!」
さっきとは比較にならない熱気が暴風のように吹き上がった。轟々と渦を巻く火球は、さっきよりも圧倒的な高火力で大蠍二頭を飲み込んだ。べちゃっ——という湿った音と共にミラが目の前に着地する頃には、魔獣の姿は跡形も無く消えていた。聞き慣れた、それでいて忘れていた言霊。ミラが持っていた本来の魔術に、魔獣は————
「——まだだっ! 二人とも早く!」
それは音も無く訪れた。三頭目……っ⁈ いいや、違う! それらは跡形も無く焼けてしまったんじゃなかった。地面をこれだけ陥没させるだけの穿孔力。それに、自らのテリトリーという地の利。僕らはそれを失念していた。
「————アギト——っ⁉︎」
思い切り突き飛ばされた。そしてすぐ、真っ赤な血しぶきが上がった。僕を蹴飛ばしたミラの脚から派手に飛び散ったそれに、僕は状況を理解した。魔獣はミラの本気の攻撃を躱し、あろうことか彼女の生命線である脚に怪我を負わせたのだった。




