第二十二話
あれからおよそ丸一日が経った。二人が買ってきてくれた綺麗なシャツとジーンズを着たまま、僕はベッドの上に座ってボーッと壁を眺めていた。結果は不採用。分かっていたことだ。容姿? 受け答え? 身だしなみ? 性格? 学歴? 職歴? 年齢? 原因として思い当たることが多すぎて何を反省したらいいのかも分からず、今こうやって呆けている。
どこかでコンビニバイトくらいなら受かるだろうとタカを括っていたのかもしれない。家に帰って一時間もすると届いた不採用の電話に、僕は、しょうがない。挫けても仕方ない。分かっていたことだ。と、頭では何度も理解した。いや、もしかしたら理解出来ていないのかもしれない。ただ言い聞かせようとしているだけで、現実を受け入れられていないからこうしてまた立ち止まっているのかもしれない。少しすると玄関の開く音が聞こえた。
「……おかえり」
「ただいま。どうだった?」
疲れた顔の母さんを、きっと浮かない顔で僕は出迎えたろう。僕が首を振るより先に母さんの顔も曇った。けれどすぐに笑って、次があるよ。と、僕の肩を両手で掴んだ。そう、次だ。次に向かわなければいけないのだ。
挫けていてはいけないのだ。
しばらくして兄さんも帰ってきた。随分遅い帰りに母さんも心配していたが、どうやら兄さんも別のことを心配していたらしい。帰ってくるなり僕に結果を尋ね、そして母さんと同じリアクションをした。二人に心配かけるばかりで、僕は本当に変わっているのかと不安に飲み込まれそうになる。
「……ダメだったか。まあ難しいわな」
ごめん。と、小さな声で謝った。きっとそれは謝罪の為じゃないのだろうと、僕はすぐに自己嫌悪に陥った。
「まあ、そんなことだろうとは思ったよ。難しい道だって、分かってたことなんだ。次だ次」
次。また、次だ。そう、次なのだ。見るべきは失敗という過去ではなく挑むべき次。落ち込む自分の心に腹が立つ。そんなことだけは一丁前だな、と。今の今まで何にも挑戦しなかったくせに、一丁前に挫折を味わったつもりでいる。向こうでミラに随分甘やかされていたのだと痛感する。あの全肯定娘はヒキニートには依存性が高すぎる。ほら、こうやって他人の所為にする。たまらず二人の目も気にせず大きなため息をついた。
そんな僕を見かねたのか、兄さんはテーブルの上に散らばったままのチラシを全部まとめてゴミ箱へと叩き捨てた。バサっという音がしてから僕はやっとそれに気が付いて、立ったままこちらを見下ろす兄さんをふと見上げた。
「……もうやめるか?」
「えっ……?」
見たこともない表情だった。聞いたこともない声色だった。さっきミラに随分甘やかされたと考えたが、言わずもがなその何倍も甘やかしてきたのが兄だ。学生だった頃や父さんが倒れた時は確かに怒鳴られたこともあった。だけどこんな、こんなに突き放すような冷たい兄さんは初めて見た。
「別に今じゃなくても良いだろう。自信をつけてからにすれば良い。もう少し涼しくなって、寒くなって、暖かくなって、また暑くなって。ゆっくりやれば良い」
「兄さん…………」
兄さんはそう言い残し、リビングを後にして自分の部屋に消えていった。僕はまた呆けるしか無かった。
だってそうだろう。確かに兄さんからしたら小さな挫折かもしれない。そんなことであんな態度を取っている僕に腹が立ったのかもしれない。でも待ってくれ。僕は諦めていない。また次を頑張れば良い。兄さんだってそう言ったし、僕だってそれは分かってる。まるで僕がもう全部投げ出したみたいじゃないか。それは違う、違うじゃないか。
「アキちゃん……」
こういう所だろう。母さんが不安そうな顔で僕を見つめていた。分かる、分かっている。今の言い訳すら、僕は兄さんに直接言いにも行かない。根本的な所だ。何で二人が帰ってきた時、昨日のように電話一本を入れていなかった? そうだ、今からだって良い。今この時に電話でもWeb応募でもなんでもすれば良い。それが出来ない自分から変わりたくて僕は——
————変われるわ————
気付いた時、僕は兄さんの部屋にいた。きっと母さんはまだ不安な顔をして……いや、不安な顔をさせてしまっているだろう。今兄さんが向ける冷たい視線も、僕が向けさせているのだろう。だから僕はせめてものケジメを、覚悟を二人に見せる必要があったのだと後悔した。
だから僕は、それを見せるために兄さんの前に立った。
「ッ! か——っ⁉︎ 変わる! 絶対! 絶対変わる‼︎ もう……変わりたいなんて言わないから‼︎」
なんて不細工な宣誓だ。我ながら酷い有様に、これは面接も落ちるわけだと思った。言い聞かせたのではない、内側からの感想だ。走ったわけでもないのに息が切れる。胸から首、顔、頭のてっぺんまで熱くなって、反対に手足が冷たくなったのが分かる。ぴりぴりと痺れ始める手足が熱を取り戻すより先に、僕は兄さんの部屋を後にしていつもの場所へと戻ってきた。PCの電源を入れる慣れ親しみすぎた動作に頭もいくらか冷え、勢いのまま開きそうになったAoWを必死で無視して近所のアルバイト募集に片っ端から応募した。変わる、変わる。と、念仏のように唱える姿は、もしかしなくてもかなりヤバイやつに見えるかもしれない。けど、そう思った時にはもう六件の応募が終わっていた。
あとは電話かメールか知らないが面接の日取りを決める連絡が来るのを待つだけだ。二人が買ってきてくれた服をぱっぱと着替えて、僕はいつもの汚らしい姿に戻った。急いで洗濯物のカゴにシャツを気持ち丁寧に突っ込んで、僕はまだ念仏を唱え続けながら布団の中へ戻っていった。晩御飯もシャワーもすっぽかして早く明日が来ることを祈って目を瞑る。
目が覚める時の気だるい感覚があった。いつもならここから本当に覚醒するまでが長いのだが今日は違う。メールを確認するためにPCの電源を入れる。時間が被らないように片っ端から返信する。そして朝食とシャワーを浴びて二人を送り出す。過去最高にバッチリ冴えた目覚めを迎え飛び起きると、そこにPCもスマートフォンも、ましてやアルバイトに応募したという事実さえ無かった。ああ、そうだった。昨日で二日。仮説はどうやら正しいようだ。僕は初めて彼女のモーニングコールより先に目を覚ました。
「アギトー! 起きてるー?」
思いっきり出鼻を挫かれた。やり場のないこのやる気は一体どうすれば…………いや待て。今日は何か大事な用事があったような……………………
「アギト! 起きな……あれ、起きてるじゃない」
「ノック! ノックくらいして!」
いつも以上に過激なモーニングコールが玄関から飛び込んできた。年頃の女の子なんだからもうちょっと気にして欲しい所だ。寝起きはやめるんだ寝起きは。僕は突然の来訪者を、布団に身を隠して迎えた。
「……行くわよ」
さっきまでの喧しさととぼけた顔はすぐに消え、彼女は真剣な表情でそう告げる。現実離れした現実を思い出し、身を震わせた。やる気の持って行き場ならいくらでもあるだろう。背中にかいていた寝汗が一瞬で引いていったのが分かる。僕はこれから彼女と共に戦場に赴く。魔獣の群れと蛇の魔女の撃退。想像も出来ない一大事がバイトの面接の前に入ってしまった。
「……分かってる」
僕はそう返事する。彼女に向けて、自分に向けて覚悟を口にした。いつも肩から提げていた鞄も今日は無く、代わりに彼女から短剣と小さな瓶の入ったポーチを受け取る。きっとこれからいくつも潜り抜けるのであろうミッションに、僕らは勇敢な第一歩を踏み出した。