第二十一話
どれだけ時間が経ったろうか。気苦しさからふと僕は時計に視線をやった。午前九時四十分。二人が家を出てからまだ一時間も経っていない。時間の進みの異様な遅さに苦痛を感じながら、それでも必死に足掻こうと僕は空の検索フォームの前でひたすら唸り声を上げる。
頑張り方がわからない。これは必然であり、秋人にとって最大の罰なのかもしれない。彼女の為に頑張った。彼女の指示に従って、彼女の目的の為に、彼女と一緒に。勘違いをしていた。彼女の為なら頑張れるのだと、僕は得てしまったほんの僅かな達成感に自分を見失っていた。そもそもの問題として、こちらの世界で彼女の為になることというのが難しい。体を鍛えても、かつて見栄で買った参考書を読み進めても、たとえ霊験あらたかな御利益満点の御守りを買ってこようと向こうの世界では関係無い。それと同時に、向こうでの努力や成果もこちらには関係無い。
僕はどこかで今の生活を“通常の倍の時間を何かに費やすことが出来る”ものだと思っていた。そうではない。これはそうではないのだ。これは“通常の倍の時間を何かに費やさなければならない”ものなのだ。そしてそれぞれは独立していて、片方での努力や成果の殆どは互いに持ち込めない。言うなれば、全く別ハードで別々のゲームを交互に進めている状態。昨日どんなに経験値を積んだとして、別ゲーの電源を入れればまた一からレアアイテムを探さなければならない。
兄さんの言葉を思い出した。なんて皮肉だろうか。秋人がどれだけ頑張ってもアギトの為にならない。誰かの為どころか自分のことすら助けてやれないじゃないか。
「……ああ、くっそぉ……」
一人呟いて、遣る瀬無さをこだまさせる。ゲームを起動してしまうという最悪の結果だけは避けられたが、僕は結局いつも通りベッドの上で横たわったまま一日を終えようとしていた。
目を瞑るとどうしたって彼女の——彼女と歩いたアーヴィンの景色が思い浮かぶ。まるで子供の頃クリスマスイブの夜が待ち遠しくて、毎日おもちゃ屋のチラシを眺めていた時のよ様な……いや、そんなに綺麗なものじゃないだろう。もっと汚くて……逃避に近い感情だ、これは。
きっと明日も同じだ。少なくとも今日をあと半日と明日を丸々残して、僕は手持ち無沙汰から時間の消費方法を模索し始めることになった。僕以外いないこの家のこの部屋で、何かから身を隠す様に僕は布団を被ってうずくまる。
——彼女にはこんな姿を見せたくないな——
そんな声が聞こえた気がして飛び起きた。僕が無意識に口走ったのだろうか。いや、それが幻聴でも構わない。僕はここに至ってようやく自分の本心を理解した。掛け布団を急いで取っ払うと僕の足はリビングまで駆け出していた。
「簡単なことだったんだ……」
今朝見たチラシに片っ端から目を通す。コンビニ、ファミレス、新聞配達、ビラ配り。いっぱいある。迅る心臓を落ち着かせようと何度も深呼吸をしながら、それぞれの電話番号を指でなぞって確認していく。
僕は変わりたいと願った。きっときっかけは自分とは全く違う自分になって、見栄や過去から解放されて、それでも懲りずにミラと言う可憐な少女の前で格好をつけていたいと思ってしまったからだ。まだ格好つけられる、まだいくらでもやり直せる。多少難易度を下げてのやり直しに心を躍らせた。
それでも何も変わらないと、難易度なんて関係無いと挫けた先で彼女に救われて。今度は勇気を出した先で二人に背中を押してもらった。
僕は僕で頑張れば、きっと僕の為になる。だって、今こうやって——
「……も、もしもし。あの、アルバイト募集のチラシを見たんですが……」
変わった。変われたんだ。向こうで頑張った成果はちゃんと出ている。経験値やアイテムは持ち込めなくても、培ったノウハウや操作スキルを活かせるように。彼女から貰ったもので、今ここでも頑張れる。
何でもよかった。だから一番上になっていたコンビニの募集に電話をかけた。笑いがこみ上げてくる。なんだ、たったこれだけのこと。たったこれだけのことに僕はあんなに怯えていたのか。電話口に明日の午後二時に面接をする約束を取り付け、僕は一人小さくガッツポーズをした。変わっている、変われる。どんなに間抜けだと言われても、手遅れでも構わない。彼女に格好悪いところを見せない為に、僕は二人の為の頑張るを頑張るんだ。
さて、折角面接まで漕ぎ着けたのだ。いつものくたびれたスウェットで行くわけにもいくまい。せめて身だしなみくらいは整えて……
「……そうだった…………」
タンスを開けて愕然とした。スウェット、ジャージ、かろうじて袖は通る体操服。なんだこれは、地獄か。地獄だろう。三十路引きこもりのタンスの中に外行きの服なんて入っているわけもない。これは紛う事無きこの家の地獄だ。ならば服を買いに行こうか。無理だ。文字通り“服を買いに行く服が無い”し、根本的にお金が無い。更に言えば免許も車も無いし、服屋の場所も知らない。早速詰んだ。今出来る努力はもう無い。半ば不貞寝に近い格好で、僕は布団の中で母さんの帰りを待った。ああ、なんて情けない。今の姿こそ彼女には見せたく無いものだ。
あまりの手持ち無沙汰についつい日課も捗って、その度に少女の顔がチラついては罪悪感に苛まれ……そして午後五時。いつもより遅くに玄関の開く音がした。
「ただいま」
母さんの声を聞く頃には僕は二人の元に駆け寄っていた。そう二人。玄関に立っていたのは大荷物を手にした母さんと兄さんだった。
「おかえり。どうしたのそれ」
兄さんは荷物を置くと僕の手を引いて風呂場まで引きずっていった。
「頑張るって言ったろ。だから母さんと待ち合わせて色々買ってきたんだ。だがその前に……」
そうして辿り着いた脱衣所に乱雑に投げ込まれた僕を指差して、兄さんはしかめっ面で声高らかに宣言した。
「まずは清潔感からだ! 正直言って大分キツイ‼︎」
「もうちょっと包もう⁉︎ オブラートに包んで言おう⁉︎」
流石にショックが大きい。まぁ以前も浴槽を一撃でK.Oした実績のある、おそらく僕の中で意図せず最も積み上げられた部分だ。ある程度は予想できた事だけになおさら認めたくなかった。
「汗臭いとかそーいうんだけじゃ無い。もうお前も俺も戦わなくちゃならない臭いが出てるんだ。子供の頃とは違う、全然消えない厄介なのが」
語気を強めて兄さんは悲しそうに拳を震わせた。ああ、そうか。あちらではミラの距離の近さに麻痺していたが、僕は立派なおっさんになってしまったのだ。まぁ立派なのは腹周りくらいなのだが。つまり、僕が今こちらで戦うべきは“加齢臭”という強大な悪鬼。兄さんの言う、大分キツイ臭いを振りまく姿で彼女の前に現れなくてよかったと切に思う。
「だからまずは洗え! 俺が使ってる皮脂を分解するボディソープの強力なやつを買ってきた。それとボディオイル、洗顔、シャンプー。あと角質落としとフェイスパックと……」
「兄さんストップ。もうそれ以上は本当に泣く」
買って来過ぎだろう、幾ら何でも。たしかに枕が臭くて起きることも増えてきたけど、家族からしてもそんなに臭いの? もう本当に泣く一歩手前なんだけど。
「よし、悪かった。じゃあ何はともあれ風呂に入れ。それじゃあバイトの面接も受けられんしな」
「えっ?」
兄さんの言葉に僕は固まった。そしてもう一度頭の中で兄さんの言葉を再生する。バイトの面接も受けられん……程に臭い僕。に、面接を許可した電話先の男性コンビニ店長。滝の様に汗が流れ出す。
「お昼に電話しちゃった……コンビニのバイト募集……」
「……今と夜と、明日の朝と行く直前に風呂に入れ。なんとかなる」
随分間の空いた後に辛辣なアドバイスを頂く。え、そんな? 本気の本気で僕そんな…………?