第二百九話
マーリンさんは一歩も退かなかった。目の前の巨大な相手に、悪鬼の様な形相のエンエズさん“だったもの”に、彼女は勇敢に正対し続ける。僕にはそれがひどく恐ろしく、同時に強く憧れを感じるものであった。
「——ァァ————ァアアッ! オマエガ————マグウェラ————ッ」
「生憎だけど人違いだ。もう少し大人しくして貰おう」
杖を大きく掲げて唱えられた言霊は、彼の身を覆い隠す巨大な火柱を喚んだ。魔術の威力だけを見るのならミラよりも……いいや、いつか見たレヴのものよりも遥かに強い。マーリンさんは本当に勇者の仲間、伝説の魔術師だったらしい。疑って申し訳ないなんて謝罪を呑気に考えていられるくらい、戦況は圧倒的だった。
「マーリン様! ご無事ですか!」
「ああ、無事だ! そして離れていろ! お前の方が無事じゃなくなるぞ!」
火柱が収まるとエンエズさんは膝をつき、その体も急激に萎んでいた。後方から声が聞こえたのは、数名の甲冑姿を引き連れたユーリさんが合流した合図だった。彼はマーリンさんには敵わない。増援も来て、勝負あった。と、僕は勝手に思い込んでしまう。
「——ぁぁ…………どうしテだ……っ! まだ……足りなイのか…………ッ!」
「…………エンエズさん……?」
ボソボソと何かを呟いた後、彼はそれまでの威圧する様な咆哮では無い、嘆きや憤りを晴らす様な……悲しげな叫び声をあげた。ミラはなにかを感じ取ったのか、フラフラと彼の方へと吸い寄せられていった。それを危ないと引き止めることすら忘れて、僕も彼の異変に気を取られていた。
「————はて、珍しい事があるものだ。来客同士で揉めるか、それも余の屋敷の目の前で。なんと、いつか見た愚か者の顔まである。ほら見ろ、余の感じた凶兆はすっかりそのまま的中したではないか」
子供の声がした。まだ声変わりもしていない、幼い少年の声。自信に満ちた、威厳あるこの街の長の——僕らに道を指し示してくれた魔術翁の声だった。付き人に笑いかけながら、彼らは北から姿を現した。
「さて、翁を呼ぶ声……いいや。怨嗟の叫びが聞こえたが……知らぬ顔だな。どこぞで怨みを買う様な事は無かったと思うが……其方らの知り合いか? 久しいではないか、ハークスの。それから、ええと……」
「あ、アギトです。どうも、その節は……って、そんな呑気に挨拶してる場合じゃなくてですね⁉︎」
おお、そうだった。と、ケラケラ笑いながら魔術翁ルーヴィモンドはマーリンさんへと近付いていった。興味深そうに見つめながら……そう、例えるなら、物珍しい外国のおもちゃかお菓子を見つけた子供の様な顔だった。
「そこの穴は其方が? まったく、余の街を滅茶苦茶にしてくれるな。その赫いのは其方の知り合い……というのでも無さそうだ。痴話喧嘩で無いなら一体どうしたのだ」
「申し遅れました。私は旅のもので、そこな少年少女の仲間と思っていただければ。そして……この魔人は、クリフィアに害なす者です。一言断りを入れようとご挨拶に伺ったのですが、留守でしたのと、なにぶん火急でしたので。手荒な方法になってしまった事をお許しください」
はは、保護者か。よいよい、アレらに常識は求めん。と、なにやら彼の中での僕らの扱いの悪さをちらりと見せながら、少年はマーリンさんと楽しげに言葉を交わした。そういえばと思い出したのは身分を明かしたくないという彼女の言葉で、魔術翁という立場に畏まりながらも自ら名乗りはしないその姿に少し違和感を覚える。立場的には一つの街の長と国の要人であり、まるで立場が逆転したかの様な光景に少しだけ混乱した。
「ごほん。では、ここより先は余が引き継ごう。コレがクリフィアに仇なすというのなら、その罪科は余が裁かねばなるまいよ」
そう言って少年はノーマンさんから杖を受け取り、それを大きく掲げて言霊を唱えようとした。だが、どういうわけか彼はなにもせずに杖を降ろして、怪訝な顔で背後を振り返った。
「…………待て、とは……一体どういうわけか。先代よ」
「先代…………? まさか……」
僕もミラも彼の言葉と視線の先に目を凝らした。先代、とはつまり……先代の魔術翁。それはいつか彼に紹介された半獣の魔術師で……そう。ミラの目も耳も鼻も——彼女の野生じみた五感をも掻い潜って姿を隠していたあの老人が、あの時と同じ様にいきなりそこに姿を現したのだった。
「…………オヌシ……っ。エンエズか……? エンエズ……なのか……?」
「……ッ! マグ……ウェラァアアア——ッ!」
なんだ、先代の知り合いか? と、少年が尋ねるのとほぼ同時にそれは起き上がった。さっきまで萎んでいた体をまた膨張させながら、怒りの炎を纏う様にその赫い体躯を爛々と輝かせながら——
「————マグウェラァアア——Gyyyahaaaa————ッ!」
それは、今まで地に臥せっていた男の姿では無かった。力強く地面を踏みしめる脚も、怒りに上気した貌も。そして今、天に飛び立とうとする巨大な翼も。全て、さっきまで打ちのめされていた男の姿からは想像出来ないものだった。だが……それでも…………
「魔術翁、退がってください。燃え盛る紫陽花!」
マーリンさんは何かから顔を隠そうとフードを被り、杖をこつんと地面に一度ついて言霊を唱える。さっき見せた超火力の魔術で無くとも、彼は翼を焼き切られて焦げた地面に叩きつけられた。力の差は歴然と言わざるを得ない。それほどにまで、かの大魔導士は強大だったのだ。
「——ガァア……っ! マグウェラ……っ! マグウェラァアアッ!」
「……エンエズ……っ。そうか、そこまで落ちぶれたか……」
先代魔術翁はその獣の顔を悲痛に歪めながら、蠢く魔人へと一歩歩み寄った。知り合い……というには随分な恨まれ様に見える。いったい、エンエズさんと魔術翁……この街とは、どんな関係だというのだろう。
「先代よ。余にも説明が欲しい。なんだ、アレは先代の知り合いであったのか? ならば客人としてもてなさねばならぬところだが……」
「ぐあっ……ぐう…………先代……? どウいう事ダ……っ! マサか……そのガキが…………っ! そンナガキが魔術翁だとデも言うノカッ! 答えろ——マグウェラァア——っ!」
——如何にも。余こそが二代目魔術翁、クリフィアの長である——。胸を張り、堂々と、少年は自らを名乗った。その瞳には、揺るぎない自信といつか見た野心の光が灯っていた。そんな彼の後ろで、先代魔術翁は寂しげに俯いて黙り込んでしまっている。僕にはそれが意外なものに見えた。てっきり、あの老人は悲しさも乗り越えられる強い人物だとばかり思い込んでいたから……
「————フザケルナァア——ッ! フザケるナ——マグウェラ! ドウしテこんナガキが……ッ! ドウシテオレじゃナい! ドウシテオレよリもこンな——」
エンエズさんは怒りの言葉を飲み込んで、ケダモノの様に吠えた。それがなんなのかを僕らはすぐに理解する。空から現れたのは真っ黒な影だった。何頭……というのでは無い。大群で押し寄せてきた魔竜の群れが、僕ら目掛けて降り立ってきたのだ。
「————そうか。話に聞く弟子とは其方の事か。では、余所者に手を出させるのも不躾だろう——」
杖を構えて空を睨みつけていたマーリンさんの袖口を引いて、少年魔術翁はごほんと咳払いをした。そして今度こそ……と、杖を掲げて言霊を口にする。あの時ミラに襲い掛かっていたかもしれなかったそれを——
「————玉響の鉄槌——」
背筋が凍る思いだった。その魔術が、ミラに向けて放たれていたかもしれないということにでは無い。何が起こったのか全く分からなかったのだ。何も分からぬうちに魔竜の体には無数の大穴が空き、空を覆っていた影は全て地面に落ちていた。まるで最初からそうであった様に、穴からは血の一滴すら溢れることも無かった。
「では、断罪を。其方の罪は街を害そうとした事にあらず。この街の未来に気付けなかった、その愚かさに——逃げ出したその過去にこそあり」
「——ガァア! フザけルナァ! ドウしテ……オレが……ッ! オレが一足足らずだったカらか! 火を扱えナい、統括元素を司る者デは無かったカらか! どうシてオレでは無ク、そんなガキなんだ! 答えろ——魔術翁——ッ!」
まずは翼が千切れた。次に脚が、そして片腕が。先代の老人に吠え掛かるエンエズさんを、少年翁は容赦無く断じていった。言霊を唱える度、彼の肉体には無数の小さな穴が空いていった。
「——マグウェラぁあ……っ! 答えてくれ…………先生…………っ!」
最後に残っていた片腕も千切れ落ちた。エンエズさんはもう魔人の姿も保てないのか、焼け爛れて真っ赤になった皮膚は既に人のものである様にも見える。悲痛な叫びが届いたのか、先代は少年の前に躍り出て杖を収めさせた。そして……ゆっくりとその顔を上げて彼の顔を見た。
「…………そうだ。この街においてはそれが全て。お主には翁の責は大き過ぎる」
それは、冷たく切り捨てる言葉では無い様に聞こえた。いつか聞いた少年の言葉、この街の成り立ち。その罪を背負った……いいや、そうするしか出来なかった悲しい男の言葉だったのかもしれない。
「…………では、懺悔の言葉もあるまいよ——」
——最後の一刀を——。少年翁は老人の肩を掴み下がらせて、もう一度天高くその杖を掲げた。だが、次の一撃が繰り出されることは無く、少年は視線をエンエズさんから空へと向けなおした。
「……まだおったか。飛ぶ蜥蜴とは、いやはや面妖な」
その先には一頭の魔竜がいた。さっきの生き残りだろうか、なんてこと考えるまでも無い。僕らにはそれがなんなのかすぐに分かった。そいつはゆっくりと降下して、僕らの前にズシンと重苦しく着地する。
「……どうやら、貴方もダメでしたか。エンエズさん」
帽子を深く被り、男は魔竜の背から降り立った。魔獣のコートをたなびかせながら、ゴートマンが僕らの前に姿を現した。
「……ゴートマン。ちょうどいい、手を貸してくれ。アンタの薬なら、こんなオレでもまた戦える様に出来るだろう。二人ならこんな状況……」
「ええ。ええ、ええ。私も同じ事を考えたでしょう。以心伝心ですね。まるで長年連れ添った悪友の様だ」
ギリっと歯ぎしりの音が聞こえた。見れば、拳を握りしめて唇を噛んでいるミラの姿があった。今すぐにでも飛びかかりたいのだろう。だが、もしそれで捕えられてしまえばマーリンさんと少年翁の足を引っ張ることにもなる。一度として優位に立てたことの無い相手に、彼女は冷静に、慎重に機会を待っているのだ。
「…………ゴートマン! 早くしろ! こうなったら、道連れにしてでもあのガキと魔術翁だけは——」
「——ええ。同意見です。同意見だった……筈なんですけど。ええ……ああ、いえ——」
デルバー。と、男は魔獣をけしかけた。だが、コートから現れた獣の牙は、マーリンさんにも魔術翁にも突き立てられず——すぐ傍にいたエンエズさんの体を貫いた。
「————ゴートマン……?」
「おしまいです。貴方も、もちろん私も。負けたのですよ。もう折れてしまっている。もう立ち直れない。もう……狂う事でしか怒りを保てないのなら、そんな無様を私は許さない」
何をやっている……? そんなことを思う間も無く、その牙はゴートマン自らをも貫いた。そして二人の肉体は末端から灰色に——まるで石灰の様に薄い灰色に固まっていった。
「…………アギト……と、言いましたね。貴方は美しい。ですが……その娘、一体どうするつもりです。見た通り、人には大き過ぎる力を有している。とても美しいとは言えない、惨たらしく改造された哀れなネズミを。貴方は一体どうすると言うのです」
血を流しながら、その口は僕に向けて純粋な言葉を投げかけた。まるで毒気など無い、今までのことが嘘の様に綺麗な目で男は僕に問いかけた。
「どうもしない。俺はコイツと一緒に生きていくだけだ」
「…………ああ、貴方はやはり美しい。ええ。ええ……ええ……」
にこりと優しく微笑んで、ゴートマンはもう固まって動かなくなった体を気にもせず首をマーリンさんの方へと向けた。そして、やはり優しく笑いかけるのだった。
「…………すみません。貴女……どこかで一度…………お会いしませんでしたか……? その綺麗な瞳、見覚えがあるのです」
「…………いいや、人違いだよ。君は僕とは初対面だ、レイガス。ああ、そうだ。ビビアンによろしく頼むよ。約束、守れなくてごめん。きっと同じ所へは行けないから、君から伝えてくれ」
——そうですか——。そう笑って、喉元まで固まった男は、回らない首の代わりに目を魔術翁に向けて最期の言葉を残す為の準備をする。もう、息も苦しいのだろう。血を吐き出すことも飲み込むことも出来ずに、ただ垂れ流しながら溺れた様な声で彼らに呪いを浴びせた。
「……我らの罪は過去にあらず。彼も、私も。私達は間違えてなどいない。ただ……ええ……そうですね、ええ。我々は負けてしまった。少年の美しさに、強さに。敗北こそが私の罪。裁かせなどしませんよ。外道には外道の矜持がある。我らはここに呪いを残す。魔術翁の少年よ、どうか我らを————」
「…………承った。余はきっと成そう。其方らの呪いは確かに受け取った」
僕には男の最後の言葉は聞き取れなかった。魔竜は、固まってしまった主人に寄り添う様にその身を伏せる。そして、二人と一頭は風に吹かれ塵となって、ただ静かに空へと還っていった。




