第二百六話
「じゃあ、行きましょうか」
朝日の差し込む部屋でミラはそう言った。あんまりにもあんまりな寝相の悪さ……寝相? 噛みつきグセにちょっと本気で頭を叩いた結果、珍しく今朝はスッと起きてくれたのだ……が。お陰でちょっと拗ねたらしくて、こちらを見ようとしない。
「悪かったって。そんなに痛かったか?」
「別に」
つーんとそっぽを向いて、着ていたボロボロのシャツを脱ぎ捨てる。それはお姉さんの……と言いかけた時には、やはり彼女もやっぱり気にしている様で、大事に拾い上げて綺麗に畳んで比較的無事だったクローゼット風の扉の奥へしまい込んだ。そして……
「……っ! か、かっこいい! 今のかっこいい! ずるい!」
「へ? そ、そうかな? ふふーん」
さながらドラマの二枚目俳優の如く、ミラは新品のシャツをバサリと羽織りビシッと袖を通した。なんかこう……あれだな。女の子感は一ミリも感じないけど……最高だな!
「さ、行くわよ」
上機嫌になってドアを開けると、少しだけ吹き込む風にシャツをなびかせて、僕達はまたこの家を後にする。風…………? げっ、こんな所に穴が……隙間風かよ…………
まだ空も白い中で神殿に向かうと、そこにはもうみんな準備万端で待っていた。おはようございまーす。と、元気よく手を振るオックスの声が、まだ霧っぽい朝の空気に反射して僕はようやく旅立ちを実感した。また、戻ってくるさ。胸の内で自分に言い聞かせて、僕は出来る限り笑って少女の手を引いた。
「揃ったね。じゃあ行こうか。今度ばかりは遅れるわけにはいかない。尤も、ユーリもいるんだ。気負い過ぎる必要は無いけれど」
「行きましょう。あの男との決着を、今度こそ」
ぎゅっと拳を握ってミラはそう口にした。決着を——冒険者の街から続くこの無用な因縁に終止符を打つ。僕らはその為にあの街を出たのだから。
「……じゃあ、行ってきます。神官様」
「ああ。くれぐれも気を付けてな。彼女を頼んだぞ、アギト」
見送りに来ていた老爺にも挨拶を済ませて、僕らは神殿に背を向けた。大丈夫。今度こそ、きっと守ってみせる。マーリンさんを先頭に、僕らはそのまま歩き出した。けれど……
「…………行ってこい。待っててやるから」
「っ。うん、ありがとう」
まだやるべきことが残っている。この街でやり残した、たったひとつの準備が。立ち止まってミラの肩を叩くと、彼女もそれを自覚していた様ですぐに踵を返して走って行った。先を歩く二人は振り返らずに手を振ってくれた。僕は……ここで待っていよう。困った時は助け舟を出せる様にしておかないとな。
「——おじいちゃんっ!」
きっとお別れの挨拶なんかじゃない。ようやくその人を家族と呼んでも良いのだ。ようやくその愛情を注いでも良いのだ。だから、ずっと長い間溜め込んでいた寂しさも、苦い思いも全部ここで吐き出せばいい。いいのに……なんともまぁ、強情な。きっとこれは血筋なんだろう。そんなことを、すぐに戻って来たミラの顔に思う。
「もうちょっと色々話すことあっただろ。随分急ぎ足で帰って来やがって」
「いいのよ、すぐに帰ってくるんだから。それに、まだ全部終わったわけじゃない。市長として一人立ちしたら、嫌でも顔を突き合わせることになるんだから」
その目に涙は無く、あるのは勇気と希望に満ちた光だけ。こいつならきっと、下らないわだかまりも全部乗り越えていける。きっとまた、ハークスの家族としてあの老爺と笑いあえる。どうせあの爺さんも素直には受け入れなかったんだろう。自分にはミラの家族を名乗る資格が……とか思って。意固地は遺伝だな。
「終わったかい? じゃあ——」
「はい! 行きましょう!」
杖をつくマーリンさんから号令を掻っ攫って、ミラはあの時と同じ様にアーヴィンを飛び出した。目的地は、まずクリフィア。前回と違うのは、場所と道が分かっていること。今度は日暮れ前には着くだろうと話しながら僕らは…………
「……? おーい、オックス?」
それは街を出てすぐのことだった。いつも元気なオックスが、黙り込んだまま立ち止まってしまったのだ。いつも……と言うのは、今朝だって例外じゃない。一体どうしたのだろうと駆け寄る僕を、マーリンさんは肩を掴んで制止した。
「……マーリンさん? おい、オックスってば。行くぞ? 忘れ物か? 日用品ならこの先で買えば……」
「すいません、オレはここまでっス。短い間っスけどお世話になりました」
オックスはそう言って深く頭を下げた。僕は彼が何を言っているのか分からなかった。ここまで、って……? だって、そんなに荷物いっぱい背負って……
「…………アイツとの決着を見届けらんないのは悔しいっスけど、今のオレじゃ下手打って邪魔しかねないっスから。だから、ここでお別れっス。オレは……ガラガダへ帰ります。本当にお世話になりました」
「……何言って……? オックス? 帰るって…………?」
オックスはもう一度頭を下げ、そのまま僕らに背を向けて歩き出した。ああ、そうだな。ガラガダへ行くなら僕らとは逆方向に…………
「——オックス! なんで……っ。なんでだよ! 強くなる為に教えて欲しいことがあるって。ほら、ミラだけじゃない。今ならマーリンさんもユーリさんもいるんだぞ? それに、あんなに楽しそうにしてたじゃないかよ! なんで……そんないきなり……」
「いきなりでもないさ。彼は強くなりたいと願い、その答えを得た。行こう、アギト。僕らは彼の歩みを阻むべきでは無い」
マーリンさんは僕の肩を更に強く引いてそう言った。答えを得た……? ミラも何も理解出来ていない様で、どんどん遠くなって行くオックスの背中を呆然と見つめていた。
「なんで……っ。答えってなんですか! そんな……だって俺達は……」
僕を留めていたマーリンさんの手を払って、急いでオックスを追いかける。だってまだ……もっと、いろいろ見たいんだ。ミラとだけじゃない、マーリンさんとだけでもない。みんなで……ずっと旅をしてきた仲間と一緒に……
「——アギトさーん! 次会う時は王都っスよーっ! 絶対、強くなってますから! 守られる準備しといて下さいねーっ‼︎」
またグイと襟元を掴まれた。離してくださいと言う間も無く、オックスは霧の中へ消えていった。振り返れば呆れた顔で頭を抱えたマーリンさんと、今にも泣きそうな顔でマーリンさんに事情の説明を求めるミラの姿があった。一体どうして……
「鈍いな、君達は。それからちょっと寂しがりが過ぎるよ。まぁ僕が言えたことじゃないけどさ。彼は答えを得たんだよ。今やるべきことを見つけた。きっともっと強くなって、また君達の前に現れるだろう。一刻が惜しいのさ」
「だから……っ! その答えってなんなんですか! だってアイツは……俺達と一緒に……」
はあああ。と、長い長いため息をついて、マーリンさんは僕の額を小突いた。そして同じ様に彼女の裾を掴んでいたミラにもデコピンをした。
「王都で、って。言われた通りさ。彼は違うルートで向かうだけ、お別れじゃない。答えについては僕からは何も言わない、自分で考えろ。ほら、顔上げて。そんなんだとせっかく、強くなって帰ってきたオックスに失望されるぞ?」
違うルート? 待って、それじゃ何も分からない! 僕らの居ないところで一体何を話したんだ。ちゃんとした答えを求める僕らを他所に、マーリンさんはスタスタと北へと歩を進めた。僕らは訳も分からないまま彼女の後を追いかける。ちゃんと説明をしろ! ミラもそうだ、術師ってのは説明不足が過ぎるんだよ!
「あー、もう! うるさいなぁ! ロマンのかけらも無いのか、君達には! いい加減親離れをしろ! あの子、一番歳下だろう⁉︎」
「だからちゃんと説明してくださいって! 一体アイツと何話したんですか⁉︎ ロマンってなんなんですかーっ‼︎」
その後もマーリンさんが答えをくれることは無かった。もうずっと一緒にいたオックスの姿が無い深い寂しさの中で、僕らは変わらず北へと進む。一人増えて、もう一人増えて。そして、一人減った。最初から考えれば増えて賑やかになっている筈なのに、埋まらない寂しさを抱えたまま。ただ北へ、北へ。
少年と少女の——ううん、僕達の旅はまた始まった。救えなかった人がいる。掬えなかった願いがある。僕らにのしかかるそれらは確かに重苦しいものだが、それでも彼らは前を向く。大切な仲間との別れは、何もこれっきりというわけでは無い。その星はまた交わる。明るい未来は確かにそこにある。ただ、気掛かりがあるとすれば……
「いい加減勘弁してくれよー。ほら、全知全能風の大魔導士マーリンさんのお墨付きなんだからさ」
「やかましいこのポンコツ魔導士! ちゃんと答えろーっ!」
いいや、きっと大丈夫。僕ならやれる。僕らなら……今度こそ————




