第二百三話
この先何度見ても、きっと同じ感想を抱くのだろう。お風呂上がりのミラはこう……ボリュームが減って寂しい感じになる。毛髪の話です、決してボリューム感の無い体の話ではありません。何と表すべきか、こう…………
「……洗われた犬みたいだよな、ほんと」
「何だかわかんないけどバカにしてんでしょ? 噛むわよ?」
ほら、そう言いうとこだぞ。なんて言う間も無く、ミラは容赦無く首に噛み付いてきた。何だってお前は的確に人体の弱点を狙ってくるんだ! 痛い痛い! 悪かったって!
「…………今更だけど、アンタ何で無抵抗に噛まれてるの? 痛いんじゃないの?」
「引き剥がそうとするともっと強く噛むじゃないか! 離して貰えるまで大人しくしてる方が痛くないんだよ、経験で分かってるんだよ。何回噛まれたと思ってんだ」
そんなに噛んでるかなぁ。なんて肩口を甘噛みしながらミラはとぼけた。甘噛みはまあいい、人前でなければ問題無い。無いわけじゃ無い。でもまぁ、命の危機は感じないからよしとする。でも、本気の奴はもう本当に痛いから、その上一度噛み付くと簡単には離さないから落ち着くのを待つ他無いんだ。これはもう、フルトで学んだライフハックの一つだろう。なんて無駄な知識だ……
せっかくお風呂に入ったのに、もうべちゃべちゃなんだけど。と、愚痴を言っても知らんぷりなミラを連れて神殿へと訪れた。目的は多いが、まずはダリアさんにちゃんと謝らないといけない。墓前に着く頃には、高かったミラのテンションも地に落ちていた。
「……やっぱり辛いよな。でも、ちゃんと挨拶はしないと……」
「…………ううん、そうじゃないの。そうじゃないんだけど…………」
そうじゃない? どうじゃないんだ? と、僕はしょんぼりしたミラに問う。どこからどう見ても辛そうで、正直連れてきたことを後悔しそうなくらいなんだが……
「ダリアは私の友達だった。いつも世話をしてくれて、いろんなことを教えてくれて。それに……二人きりの時は、私のことをミラって呼んでくれた。市長としてじゃない、友達として振舞ってくれた。でもね……」
ぎゅうとズボンの裾を掴んだ手が震えていた。ミラにドレスを着せてくれたのも、きっと彼女だった。いつかミラも年頃だからドレスに憧れがあるんだろうと思ったが、もしかしたら彼女との会話の時間を楽しみにしていたのかもしれない。
「……私は偽物だから。ダリアがお話をしたかったのは、私じゃない私。でも……私も友達が欲しくて……ダリアの優しさにつけ込んで…………」
「それは違う……と、思うぞ。うん……そんなに詳しくは分かんないけどさ。一回、すごい剣幕で怒られたことがあったんだ、お前のことで。あれは確かに……ミラの為に怒っている様に見えた。ダリアさんは多分、お前が本物だとか偽物だとか……そんな区別みたいなことはしてなかった。と、思う。俺の勝手な憶測だけどさ」
そうかな。と、困った顔で笑う彼女の頭を撫でて、僕はもう一度ダリアさんに頭を下げた。アーヴィンを出てからずっと、それこそ最初にクリフィアに辿り着くまでにもかなりの無茶をさせた。そこからもずっと危ない目に遭わせてばかりだった。きっとあの人はレヴもミラも愛してくれていたから、この話を出来たなら怒ってくれただろう。そのことへの感謝と、心からの謝罪を。
「私ね、泣けなかったの。アンタやオックスが無事だった時みたいには涙が出なかった。私の内側からもっと凄い、悲しいって感情が出てきてね。ああ——私じゃないんだ——って。ダリアの為に悲しむ権利は私には無いんだって、それに譲ったの。だから……ここへ来ても変わらないって…………思ったんだけど………………っ」
「そんなわけ無いだろ。お前はお前なんだから。そうやって泣けるくらいには、お前になってからも仲良くしてくれたんだな、ダリアさんは」
ボロボロと涙をこぼしながらミラは膝をついた。それがレヴの記憶によるものなのか、それとも短い間でもミラとして接した暖かさによるものなのかは、きっと本人にも分からない。分かっているのはただ、今の僕達は悲しいという感情を持っていることだけだった。
「……オックスとマーリンさんに会いに行こう。ダリアさんもあんまり泣き顔ばっかりは見たく無いだろ。帰りにちゃんと、もう一回お別れ言いに来よう」
「うん。ふふ……なんか、随分頼もしく感じるわね。アギトのくせに」
おう、お兄ちゃんだからな。と、もう一度頭を撫でて、僕は神殿の中へと顔を向けた。ミラはもう一度頭を下げてから慌てて付いて来た。
「おはようオックス。マーリンさんも」
「おはようござい……な、何したんスか朝っぱらから……」
俺が泣かせたわけじゃ無いわい! と、開口一番絶好調なオックスにツッコミを入れると、もうミラも笑っていた。もしも何かを察して和ませようと計算尽くでボケたのだとしたら…………この男はもう十四歳では無い。多分人生三周目くらいだろう。
「おはよう二人とも。よく眠れたかな? ご飯はまだだろう、よかったら一緒に————っぶはぁっ!」
「ああっ。迂闊に近づくから……」
ミラにとって、マーリンさんは多分信頼出来る人物なのだろうな。そして何より、甘えても良さそうな人物でもあるのだろう。まあ、今のこいつに見境は無いからな。下手に近付いたマーリンさんは、甘えてもいいものだと勘違いしたミラに抱き着かれて一撃KOされた。お風呂上がりで昨日までと匂いも違うからね……しょうがないことだけど、相変わらず威厳もへったくれもないな。ミラの中の甘えてもいい基準がなんなのかは分からないが、マーリンさんには飛びついちゃダメだってちゃんと躾けないといけない…………
「朝から賑やかだな。体は大丈夫かな、アギトよ」
「神官様。ええ、お陰様で」
騒がしくて申し訳ない。謝りたい気持ちは一度置いておいて、別の扉から姿を現した神官様に挨拶をする。この神殿、昨日とも形違うんだけど……これは一体どうなっているの? とは聞いてもいいものだろうか?
「巫女様。少しよろしいでしょうか?」
「ふぐうぅ……良いよ、すぐに行こう」
先に食べてて。と、マーリンさんは神官様とどこかへ向かってしまった。恐らくは昨日も使ったいつものあの部屋だろう。なにか僕らに聞かれてはまずい大切な話があるんだろうか。まぁ、あれでもマーリンさんは国の偉い人だからな。
「…………こうして三人で飯食うのすら久しぶりに感じるよ。マーリンさんに出会ってからそんなに経ってない筈なのにな」
「そうっスねぇ。最後にこうして一緒にご飯食べたのは……」
「えーと、あれ。キリエではもうマーリン様と一緒だったものね。えーっと……街の名前が出てこないわね。ほら、徹夜で歩いた後に…………っ!」
言いかけてミラはフォークを落としてしまった。そして慌てて立ち上がって、こうしている場合じゃない! と、マーリンさん達の後を追いかけて部屋を出て行ってしまった。どうしている場合じゃないんだろうか……なんてことは僕らもすぐに思い出した。
「ゴートマン…………それにエンエズさんも…………っ」
徹夜で歩く羽目になった原因であるあの男。アイツの所為で僕らはアーヴィンまで帰ってくる羽目にもなったし、ダリアさんだって……っ。僕もオックスも慌ててミラの後を追おうと席を立つと、すぐにミラは帰って来た。
「どっ……早いな、どうしたんだ? ゴートマンのことでマーリンさんに相談に行ったんじゃ…………」
「うん……なんだけど…………」
けど? 言い淀んだミラはそのまま視線を背後に向け、そして…………奥から現れたマーリンさんと一羽のフクロウに聞いてくれと言わんばかりの顔をした。普通のサイズのフクロウだ、可愛い! ってなって本題を忘れたとかでは無さそうでよかったよ。
「うん、君達の聞きたいことは分かってる。この子はフィーネ。ザックに似てるから王都で買ったんだ。頭が良くて、そして飛ぶのが速い。魔獣の群れ相手だって余裕で逃げ切れる、僕の頼もしい連絡係さ」
「いや、フクロウについて聞きたいんじゃないです」
あれぇっ⁉︎ と、わざとらしいオーバーなリアクションをとった辺り、きっと何が言いたいかは分かっているのだろう。なぜ勿体つけるのだ、この場面で……そこの野良犬に噛まれても知らんぞ…………
「ごほん。分かってる。フィーネはユーリに預けておいたんだよ、前もってね。そして今朝、手紙が届いた。未だ魔竜、及び危険人物の出現は確認されていない。警戒状態を維持している、とね。レイガスはまだ、クリフィアには姿を現していないらしい」
レイガス……? と、僕らは聞きなれない名前に一様に首を傾げた。ああ。と、一人頷くと、マーリンさんは少し寂しそうな顔をして、フィーネと呼んだフクロウの眉間のあたりを指の腹で撫でた。
「……レイガス=ローフィー。ゴートマンと君達が呼ぶ男の本当の名前だ。彼については僕も一度会ったことがある。ある意味、彼も僕らが旅の間に救えなかったものの一つだ」
「っ。アイツと会ったことがある……? 救えなかったって…………?」
詳しくは言えない。と、マーリンさんは首を振って僕の詮索を拒んだ。だが、何か悪いイメージを持っている風には見えなくて、それがあの男の悪行とのギャップを生んで……どうにも腑に落ちない。
「……あの男は必ずクリフィアに現れる。もう一晩休んで、明朝出発しよう。彼との決着を見届けなければ、君も枕を高くして眠れないだろう?」
「……それは星見で……?」
ああ。と、今度は首を縦に振った。だが、それ以上は何も。あの男との決着、か。そうだ……フルトの冒険者のみんなを、エンエズさんを、ダリアさんを。何よりミラをあんな目に遭わせたあの男だけは放っては置けない。今はそのことは忘れてしっかり休んで。と、マーリンさんは言うが…………僕は…………




