第百九十八話
ミラは散々泣いて、泣き疲れて声も出なくなっても泣いて、泣き止んでも僕から離れようとはしなかった。いつかフルトで泣いていた時もこうだった。本当に怖くてたまらなかったんだろう。自分が死んでしまうかもしれないという恐怖、自分が何か別のものに変わってしまうかもしれないという恐怖。僕にはその怖さは分からないけど……慰めてやるくらいは出来るから。
「……ほんと、甘えん坊だな」
「うるさい……ぐす」
ぽんぽんと背中を撫でる度に落ち着いていく彼女がやっと顔を上げたのは、すっかり涙も乾いた後のことだった。頭を撫でてやれば嬉しそうに笑う姿に、少しだけ懐かしさを覚える。さて、と。じゃあ、僕はまだやることがあるから。
「アギトよ。分かっておる。いつもの部屋へ案内しよう」
「…………話が早くて助かります」
たった半歩離れるだけで、行かないでと言わんばかりに寂しそうな顔でミラは手を伸ばして来た。まったく、どれだけ寂しがりなんだ。可愛い奴め。でも……こればっかりは先送りに出来ないことだから。
「すぐに戻るって。お前なぁ、甘えん坊はいいけど、大事なこと忘れてるぞ? 俺達は何も二人で旅してたわけじゃないだろ?」
そう言って頰を撫で、僕は視線をもう一人の仲間に向ける。驚くことも慌てることも無く、オックスは笑ってくれた。本当にいい奴だって、心からこいつには感謝してる。ミラはオックスに甘えるのは恥ずかしいって言うけど、ミラが俺に甘えていられるのは彼のおかげみたいなところもある。回りくどい言い方をやめると、こいつが居ないと僕の精神状態が怪しい。ミラが溺れた時も、多分一人だったらパニックになってたと思うし。
「そうっスよ、水臭い。オレだってミラさんの仲間のつもりっスけど?」
「…………ずびっ。おっぐずぅ……ひぐっ」
ほら、鼻かんで。と、オックスはちり紙をミラに手渡して僕に視線を送った。悪い、頼んだ。と、僕は彼に頭を下げて神官様とマーリンさんと一緒に部屋を出た。それでもわがままを言うミラに、ちゃんとすぐに戻ると伝えて。
いつもの部屋——と、老爺は言った。確かにこの部屋だけは変わらない。入る度に構造が変わる建築法違反も甚だしいこの建物の中で、この場所は確かに変わらない。そんな……ちょっと懐かしい、初めてミラと一緒に訪れたあの部屋へ——地母神様と神官様の部屋へやってきた。
「…………防音は済ませた。アギトよ、もう大丈夫だ。あの子に聞かれる憂いも無い」
「いや、流石。相変わらずなんでもお見通しって感じで。じゃあ……」
ああ、そうだ。僕にはやることがある。やらなきゃいけない、言わなきゃいけないことがある。防音とは本当に気の利く男だ。これから起こることは、アイツにだけは絶対知られたくないからな。じゃあ————
「——ふざけんな——ッ! ふざけんな——ふざけんなふざけんな——ッッ‼︎ アイツは……アイツが本当に欲しかったのは——ッ‼︎」
僕は神官の老爺に駆け寄って、その胸ぐらを掴み上げた。老体は簡単に持ち上がって、無抵抗に僕の怒りを受け止める。ああ、ふざけるな。はらわたが煮えくり返ってしまいそうだ。熱で身体がどうにかなりそうだ。頭の中身が沸いて弾けてしまいそうなくらいの怒りが至る所から溢れてくる。
「——俺じゃないだろ……っ。アイツが本当に欲しかったのは……俺なんかじゃなかったはずだ…………っ! アンタが——ッ! たった一人だけ残ったアイツの家族が…………どうして…………」
「…………すまない、アギトよ。だが……」
その先の答えはもう知っている。以前聞いている、答えは持っている。それでもこんなやりきれない、救いの無い結果なんて受け入れていいわけがないんだ。僕の手から力が抜ける。涙が溢れる。膝を打って、それでも老爺を睨みつけ。僕は目の前の悲しそうな男に八つ当たりを繰り返す。
「分かってるよ——っ! どうしようもなかったのは分かってる。街の為にアイツを犠牲にせざるを得なかった、でもアンタだってそれはしたくなかった。大切な孫にこんな仕打ちをして、平気で居られる奴じゃないのも知ってる。でも……っ!」
もう前が見えないくらい涙が出た。言葉も僕が思っている以上にぐちゃぐちゃになってしまって、ちゃんと届いていないかもしれない。それでも……彼がそんなことを知っていると分かっていても、言わなくちゃ僕が前に進めない気がして。俺は……
「それでも……アイツはアンタに手を取って欲しかったんだよ…………ッ‼︎ 両親は居ない、お姉さんも事故で記憶を失った。記憶の中にだけ存在する家族の愛情を……アンタに…………アイツはたった一人の家族に手を取って欲しかったんだよ………………なのに…………っ」
僕じゃなかった筈なんだ。アイツが本当に求めたのは、事情を知らない難民なんかじゃなかった筈なんだ。アイツは心の底から家族を求めた。ミラは……レヴが手渡した記憶の中にある、暖かくて居心地のいい家族という居場所が欲しかっただけなんだ。アイツは僕に言った。もう家族の様なものだと、いつか体調を崩した僕に言った。あれはアイツなりの精一杯のズルだったんだ。弱っていた僕の看病をして、信頼を得て。アイツは勇気を振り絞ってそう言ったんだ。否定されたらどうしよう、拒まれたらどうしよう、って。きっと不安に思いながら……
「…………俺はお前を許さない。一生、何があっても許さない。たとえアイツがアンタを家族だと——大切な人だと言っても、俺はアンタを恨み続ける。絶対に……絶対に、アンタだけは……っ」
「……ああ、そうしてくれると助かる。すまない、アギト。どうか……ミラを頼んだ」
震える膝に鞭を打って、僕はゆっくり立ち上がった。戻らないと。二人の所へ、大切な家族の所へ……
「……なんて顔してるんだよ。そんな真っ赤な目であの子に会うつもりなら、僕も君を許さないぞ。ほら……目薬さしてやるから、しゃがみなよ」
部屋を出ようと扉に向かう僕の手を、マーリンさんは困った様に笑いながら引き止めた。そんなにぐしゃぐしゃな顔をしていただろうか。目薬……とはなるほど。見慣れた容器があるだろうかなんて僕の疑問に、マーリンさんの鞄から出てきた薬瓶と小さなスポイトが答えをくれる。それで吸い上げてさすのね。はえー……
「ほら、ちゃんとしゃがんで。届かないだろ?」
「……って、自分でやりますから⁉︎ 何ですか目薬プレイって⁉︎」
プレイ……? と、マーリンさんは首を傾げた。いかん、余計なことを口走った。だが……流石にそれはマズイだろう。なにせこのポンコツ魔導士は、ミラと同じで距離感がおかしい。目薬をさそうと思えば、そもそも顔を覗き込まれるわけで。こら、そっぽ向くんじゃない。とか言って顔を掴まれて……もしかしたら、当たってはいけない嬉しいものが身体に触れるかもしれない。そんなことになれば、僕はしばらく動けなくなってしまうんだ。クソポンコツ鈍感間抜け魔導士は着痩せするタイプだって、いつか思い知ってるからな……
「……これ、ちゃんと消毒とか……」
「し・て・あ・る・よ! 当然だろう、僕を何だと思ってるんだ……」
ちょっとだけの不安を払拭して、僕はスポイトで吸い上げた透明な目薬を両目にさした。なるほど、スースーするわけでは無いのね。なんか……じわじわと暖かくなってきた。怖いな……一体どんな効能があるんだろう。
「……うん、もう赤みは引いたね。ほら、笑えよ。作り笑顔じゃバレるぞ? 楽しかったこと思い出して、これから訪れるであろう面白い未来を思い浮かべて。それとも、また勇者様の話でも聞かせてやろうか?」
「いや……あれは……まぁ、楽しいですけど」
マーリンさんに出会う前に知っていたらきっと好きになったであろう物語は、その悲しい結末と本人を先に知ってしまったからどうにも胸が痛くなる。当の本人は平然としてるけど……僕ってやっぱメンタル弱いのかなぁ。
「……それじゃ行こうか。ミラちゃんが待ってる」
「はい。神官様、失礼します」
振り返って老爺に頭を下げて、僕は部屋を後にした。恨むとか許さないって言ったって、アイツの手前あんまり無礼なことしたままではいられない。少し急ぎ足で僕さっきの部屋に向かった。アイツが……ミラが待ってるあの部屋に。
「……っ! アギト!」
こらこら、それはそれでオックスに失礼だぞ。と、つい心の中で思ってしまうくらい嬉しそうに、ミラはドアを開けたばかりの僕に飛びついてきた。オックスはそれを見て、からかうでもなく笑っていてくれた。ほんといい男だよお前は……くそう…………
「……帰るか。もう日も暮れるしな」
「っ! うん!」
おっと、ちっちゃい子みたいだなぁ。なんてからかうと、ミラは顔を真っ赤にして僕の肩を叩いてきた。はっはっは、全然痛くないぞ。どうした、もっと来い……あっ、痛い⁈ 痛い痛い痛い! 調子出てきたじゃないか!
「……二人はどうするんですか? 宿舎は…………もう部屋無いし。と言うか、星見の巫女様をあんなボロ屋にぶち込むのは、流石にユーリさんに申し訳無いし……」
「ちゃんと僕に申し訳無いと言ってくれよ、そこはさ。僕らはここに泊めて貰えることになってる。気遣いには及ばないよ、ありがとう」
そうですか。と、僕はオックスとマーリンさんに別れを告げ、ミラの手を引いて慣れた帰り道を歩いた。ボロボロになった建物の瓦礫を通り過ぎ、すっかり日常を取り戻したらしいアーヴィンの街並みを見ながら。僕らは昔の様に、他愛の無い話をしながら——あの時とは逆に、僕が彼女を引っ張って家に帰った。そして……
「……おかえり、ミラ」
「うん。ただいま、アギト」
張り紙も剥がれて飛んで行ってしまったボロ役所の前で、僕らは手を離した。そして、一歩だけ先に僕はその敷居を越えて振り返る。ああ、もう空が暗くなってきた。もう今日は寝ようか。なんてことを考えながら。僕は、彼女の帰りを迎え入れた。




