第百九十七話
少女は声を震わせながら話す。それはきっと自身の辛さからではない。きっと彼女は……
「本来、私に名前はありません。レア様への捧げ物である事から、ただ形式的に“レヴ”と呼称されるに過ぎません。ミラという名を作り、人格を作り。ハークスの姓を与える事で街に溶け込む為の要素を詰め込んだものが、主人の知る少女の本質です。私では……人として欠落の多過ぎる私では、レア様の様に振る舞う事は叶いませんでしたから」
ぎゅうと僕の手を握り、顔を青くして震えていても、レヴは説明をやめなかった。説明、と。本当にそう感じてしまうくらい淡々と、自分のことであるというのに、まるで他人事の様な口振りに握り返す手に力が入る。こんなにも苦しそうなのに、それでも尚彼女はミラの様に感情的に振る舞うことが出来ないのだ。
「本当に大きな失敗でした。私は彼女に記憶の全てを残しました。自身がなんであるのか、どうするべきなのか、何を求められているのか。そうでなければ、私の目的と乖離した行動をとってしまうかもしれないと思ったから。ですが……良かれと思って残した思い出が彼女を縛り付けてしまったのです」
「思い出……?」
こくん。と、力無く頷いて、少女は更に強く僕の手を握り、そして懺悔でもするかの様にそのまま俯いて涙をこぼす。ぼろぼろと泣きながら僕の胸にその頭を預けて、許してくださいと彼女に請う様に後悔を口にした。
「…………彼女は愛情を知っています。実験動物としてですが、私はハークスの家で育てられ愛されてきました。レア様はこんな私でも妹として接してくださいました。ダリアは私を厳しく育てる反面、優しく友人として振舞ってくれました。彼女は…………ミラは、それを記録として、情報としてだけ知っている。もう二度と……いえ。唯の一度も自分が授かる事の無い愛情という物を、知ってしまったが故にずっと焦がれてしまったのです」
涙でぐしゃぐしゃにした顔を上げ、レヴは悲痛な面持ちで訴えかける。ミラを愛して欲しい。持てる限りの愛情を注いで欲しい。それは彼女から自分への心からの懺悔なのだろうか。どうか……と、自らでは無くもう一人の少女を救って欲しいと嘆願する彼女に、僕は大きな寂しさを覚えた。
「……私はもう眠りに就きます。そして…………もう二度と、目覚めることは無いでしょう。次に目覚めた時は、貴方の隣で笑ういつもの少女に戻っている筈です。主人……どうか——どうか私を…………」
「分かった。アイツのことは任せろ」
もう泣かないで、とは言えなかった。それでもレヴは笑って……そして、目を瞑ってそのまま眠りに就いた。もう二度と目覚めることは無い……というのがどういう意味、意図なのかは分からない。でも……彼女もまたミラだと言うのなら。ミラ=ハークス=レヴとして、僕は彼女を…………
「……神官様。その……ダリアさんは何処に……?」
「ダリアは既に埋葬した。ああ、分かっているとも。あの時からの約束だ。私は君に…………」
少女をそっとベッドに寝かせ、僕は神官様と彼を補佐するマーリンさんと共に、ダリアさんの墓前へと向かった。何を言ったらいいかも分からないまま、ただ——もう、日が傾いているのだな——と、自分が眠っていた時間の長さに辟易しながら立ち尽くした。謝らなければならないことがあった筈なのに。
「…………もういいのか?」
「はい。ダリアさんには、アイツと一緒にもう一度挨拶に来ます。旅の話をして……それからちゃんと謝ります。いっぱい危ない目に遭わせちゃいましたから」
それはただの逃避だったのかもしれない。でも……それ以上に、早くアイツの無事を確かめたい。まったく、いつもいつも待つばかりで気が滅入る。もう一度部屋に戻ると、そこには体を起こしてこちらを睨んでいる少女の姿があった。
「……体は平気か? お前も結構無茶してたっぽかったけど」
返事は無かった。部屋に残っていたオックスに視線をやっても首を振るばかり。どうやら彼女は、オックスにもまだ口を聞いていないみたいだ。真っ先に僕が話を出来たと、好意的に解釈しておこうかな、今は。
「俺のことなら心配するなって。マーリンさんは流石だよな。もう痛いとこなんて全然無いんだ。ただのポンコツじゃ無かったんだなぁ」
ぎゅうとシーツを握り締めたのが分かった。なにかを我慢して、怒りよりも悲しみを優先するいつものアイツの姿がそこにはあった様な気がした。なにも言わず、ただ僕を睨みつけるばかりの彼女に……俺は…………
「……なんだ、腹でも減ったのか? ま、あれだけ派手に魔力使ったしな。本当に食い意地のはったやつだなぁミラは——」
「——いい加減にして。全部…………全部聞いたんでしょう? この街で、この場所で。アレが出て来たってのに何の説明も無いなんてあるわけが無い。私はミラ=ハークスじゃない。アンタの知ってる女はここにはいない」
ぎりっと奥歯を噛みながらミラはそう言った。そっか……と、僕はただ黙り込むしか無かった。でも……僕は彼女に歩み寄ることにした。
「……来ないで! 私はアンタの仲間じゃない。アンタの上司でも、友達でも、家族でもない。アンタは騙されたのよ。都合よく使われて……あんな危ない旅に付き合わされて。終いには大怪我して。いい加減気付きなさいよ!」
「……そっか。でも……俺はミラを仲間だと思ってるよ。ミラの秘書だし、友達だし。妹が危ない旅に出るってんなら、付いて行かないお兄ちゃんはいないんだぞ?」
ミラは目を見開いて怒りを露わに——ああ、この表現はちょっと違う。怒りを表情で作り出した。態度で、言葉で。いつもこうしていたんだろうか。どうだろう……そんなに器用な奴とは思えなかったけど。
「ほら! それが騙されてるってのよ! アンタは本当に簡単だった。ちょっと頼れば張り切るし、褒めれば調子に乗るし。甘えたら甘えた分だけ甘やかしてくれた。なんでも私の意のままに動いてくれた。ありがとう! でもごめんね! もう、アンタには飽いちゃったのよ。だから私の前から居なくなって! そんな甘ったるい言葉かけないでよ! 鬱陶しいのよ!」
「うわ、傷つくなぁ。でも……ミラに騙される程馬鹿じゃないぞ、俺も。ミラは本当に甘えん坊だからなぁ。それに頑固者で、本当に意地っ張りだ。今だって意地になってる。それに嘘が下手。いつもいつもすぐにバレる嘘をつく。早口になったり鼻の穴が膨らんだりする癖、気付いてるか?」
ミラはそんな僕の言葉に慌てて鼻と口を手で覆い隠した。そんな癖は無い、全くの嘘だ。嘘をつく時は、決まってバツが悪そうに俯いたり、黙り込んだり。それから今みたいに突き放した態度をとる。面白いからこのまま様子を見ようか。
「……私は偽物なのよ。お姉ちゃんの偽物の、その更に偽物。ハークスの飼ってる実験動物の偽物。代理市長の偽物。もうそんな名前で呼ぶのやめてよ! そんな奴いない、存在しないんだから!」
「ミラはいるよ。道端で倒れてた俺を起こして、行くアテがないからって自分の住んでる宿舎の部屋を貸してくれた、凄くいい奴だよ」
だから——っ! と、ミラは語気を荒げて僕に食ってかかった。一歩寄る度に、来るな——と、手で払う仕草をしながら。
「それは嘘よ! 演技に決まってるでしょ? アンタを手篭めにする為に、単純そうな奴が寝てたから手駒にしようと声をかけたのよ!」
「そっかぁ……じゃあ、俺が秘書になるって言った時に嬉しそうにしてたのは?」
それも演技! と、素っ気なく答えるミラを、僕は少し意地悪く追い詰めることにした。まぁ……変な誤解ならもう沢山されてるし、今更もういいや。って、開き直れたのは……多分レヴのおかげだ。
「……旅に付いて行かないって勘違いした時、焦ってたのも?」
「当たり前でしょ⁉︎ 演技よ演技、そうすればアンタは嫌でも付いてくるって分かってたから! 荷物持ちが欲しかったのよ!」
荷物持ち、か。そうか……あの時は荷物持ち兼寝具だと思ってたけど……ふふふ。そうか……あの時からそれなりに頼りにしてくれてたのか。
「じゃあボルツで逸れた時、泣きながら俺のこと探してたのは?」
「なっ⁈ 泣いてないわよ! アレは! その……色々買い物したかったから…………荷物持ちよ! 荷物持ち!」
ほんとレパートリー無いなぁ。まぁ、この見た目で詐欺師も真っ青な口八丁なんてされたら、人間不信になる自信あるけどさ。
「……いつもいつも、一人じゃ眠れないって甘えてくるのは?」
「なっっ⁉︎ は、はぁっ⁉︎ わ、私がいつアンタに甘え…………っ! え、演技よ! そうすればアンタ、私がアンタを頼りにしてるって勘違いするでしょ? 張り切らせる為の餌よ!」
おっと、引っかからなかったか。でも……外野の目の色が変わってきたな。心配そうな顔しろ、オックス。鼻血はもう少し我慢して、マーリンさん。あの……違うんですよ……神官さん。
「じゃあじゃあ、いつもゴロゴロ擦り寄ってきて、頭撫でてー、って顔するのは? 随分甘えた声でじゃれついてくるのとか、抱き着いてくるのは?」
「ちょっ! ちょっと! そんなことしてないじゃない‼︎ 適当なこと言わないでよ! 何がしたいのよアンタ! 不当に私の評価を下げるようなことしないでよ! ねえオックス! アンタからも何か……? オックス……? マーリン様も……どうして目を逸らすの…………?」
そりゃぁ……事実だからだよ。ついにボロを出したな、ふっふっふ。それに僕が気付いたのは、エルゥさんの所為………………おかげだからな。ミラはどうせ無意識にやってるんだろうと何となく思ってたさ。狙ってやってたんならそれはそれで……なんかそういう対象として見られてたってことで、どっちに転んでも美味しい作戦だ。
「……ほら、やっぱり甘えん坊は演技じゃないじゃないか。まったく……手のかかる妹だなぁ、ミラは」
「ち、違う! 全部演技! 偽物よ! だって…………だって……私は偽物なんだから……っ。偽物が何したって……」
もうあっち行けと言う余裕も無いみたいで、遂に僕はミラの側まで辿り着いた。うん、やっぱりチビスケだな。それにこんなに目を赤くして。今にも泣きそうじゃないか、まったく……
「…………クリフィアで人の不幸に泣いたのも。ボーロヌイで海に感動したのも。フルトで別れを寂しいって言ったのも。全部……全部嘘だったなんて。そんなのあるわけないだろ」
ゆっくり、力強く。僕はミラを抱き締めた。こんなに震えて、一人で抱え込んでいたんだな。相談出来ることでも無い、しょうがないことだったのかもしれないけど……やっぱり頼って貰えなかったことが寂しい。だから……
「ミラはここにいる。偽物じゃない、ミラ=ハークスがここにいる。約束しただろ、お前はここに帰ってくるんだって。ここに帰ってくれば……それはお前だよ、ミラ」
「…………でも……私は…………っ」
まだ言うか。と、ボロボロ泣き出したミラの頰をいつものように両手で挟み込む。いつも間抜けな顔で怒っているミラが今日は泣いていて、僕の手の温度が恋しいと、逃がさないと言わんばかりに手を掴んできた。
「……そーやってウジウジ悩んでるのもミラだろ? 泣き虫もミラ、甘えん坊もミラ。全部演技なら、それはそれで舞台俳優のミラがいるんだろ。お前はお前だよ、鬱陶しいな。何を難しく考えてるんだ」
「鬱陶しい…………っ? アンタ…………ぐすっ。バカアギト……っ。ひっく、人が…………人が真剣に……悩んでるのに…………ぐす」
はいはい。と、僕はもう一度ミラを抱き締めて、子供をあやすみたいに頭と背中を撫でてやった。うんうん、ほら甘えん坊だ。怒るでも無く、わんわん泣いて抱き着いてきたミラに僕は心の底から安堵する。
「おかえり、ミラ」
「……っ! うん……っ。ただいまっ!」
ミラ=ハークスはここにいる。僕の大切な仲間は、家族は。ちゃんとここにいると、僕はこれからも声を大にして言い続けよう。もう二度と、彼女が自分を見失わない為に。




