第百九十六話
——ああ——もしかして僕は、とんでもない失敗をしてしまったんじゃないだろうか。背中と首がすっごい、こう……あ、痛くない。痛くないぞ⁈ 痛くないってことは……うん、余計にマズイってことではないのかな?
「——主人っ⁉︎ なんで——どうして——ッ‼︎」
首元の熱が治まってきた。背中に突き立てられていた牙もどうやら抜けたようだ。ああ、こんなに震えて……何か言ってるっぽいけど、ごめん。あんまりよく聞こえないんだ。
「……少年……一体、何をしているのです……っ」
ああ、お前の声は聞こえるよ。言いたい文句が山ほどあったからな。でも……ごめん。その文句を言ったら多分限界だ。レヴと話をする余裕は無さそうだ。
「……よもや、私に情けをかけたなどと——」
「——煩いんだよ! ちょっと黙ってろ——!」
ああ…………やばい。大声出したら余計に目眩が。あれー……? 今僕、結構頭に血が上ってると思うんだけど。いっぱいいっぱいでおかしくない筈なんだけど……なんだか冷静だな。さては…………走馬灯ってやつですかね、コレ……ではなくて。うん、大丈夫。頭の中はきちんと整理されている。言いたいこと、やりたいことも分かってる。だからそんなに不安げな顔をしないでくれ。僕は…………俺は…………
「……お前なんかに情けなんてあるわけないだろ……っ! お前は……ダリアさんを……っ。ダリアさんだけじゃない、大勢の人を。人殺しだ、悪党だ、最低最悪のクズ野郎だよッ! でも…………」
ぎゅうとレヴの体を抱き締めると、彼女もとても不安げな顔のまま傷口に触れてきた。きっと治療の魔術でもかけてくれているんだろう。必死になって何かを唱えているのは分かる。でも……うん。泣かないで欲しいって、笑って欲しいって思うのはまだ贅沢かな。まぁ、無傷で仲裁出来てたらそう言っても文句は無いんだろうけどさ。でもなくて。
「……お前は人間なんだ……っ。どんなに認めたくないゲス野郎でも、お前だって人間なんだ。だからコイツにお前を殺させない。コイツを……大切な仲間を、お前なんかと同じ人殺しにするわけにはいかない……」
レヴはボロボロと涙を零しながら僕の背中に手を回し始めた。ああ、そっちの手当てもしてくれるの。そういえば、初対面でも怪我の具合を気遣ってくれたな。お前も優しい子なんだな、そっくりだ。うん、だから……
「…………何ですか、それは。そんな綺麗事で一体何を——」
「——そうだよ、綺麗事だよ——っ! ああ、分かってる。コレは俺の自己満足でしかない。コイツに恨まれるかもしれない。でも……それでも。俺はコイツがお前なんかと同じ所に落ちるのを見たくない! 俺が、俺の為に。大切なものが汚れない様に守るんだよ————っ!」
大切なものなんだ。ずっと分かっていた。ずっと思っていた。だから……俺はコイツを——ミラを、レヴを——二人を守りたい。どちらが、ではない。何が何だか分からない以上は、もう全部守るんだ。そう決めたから…………こんな無茶しちゃったのか。まったく……
「…………っ! 待て……っ! 主人! 許可を……戦闘許可を……っ! このままではあの男が…………友達の……仇が……っ」
ぶわ——っと、強い風が吹き付けた。どうやら魔竜をまだ控えさせていたらしい。きっと、ゴートマンはこのまま逃げるのだろう。出来れば止めたい、捕まえてマーリンさんに身元を引き渡して……と、全部解決してしまいたい。でも今は……
「……主人っ! お願いです主人……っ‼︎ 許可を…………ダリアが…………私の…………友達が…………っ」
「……ああ、ごめん。それでも…………」
意識が遠のいていくのが分かる。ゴートマンは逃げてしまったかな? もしそうだとしたら……多分、マーリンさんには考えがあるんだろう。あの人がいて捕まえられないなんてこともあるまい。うん……だから、さ。ああ…………お前…………いつもこんな気分で寝てるのか……
「……許可を! 主人……お願いです……戦闘の…………? 主人…………?」
ああ——あったかい。嗅ぎ慣れた匂いと高めの体温が心地良い。ちょっとうるさいのが難点だけど…………うん……コレはゆっくり眠れそうだ……
僕の意識はそこで一度切れた——
誰かがすすり泣く声が聞こえる。ああ……いや、愚問だったな。いつも聞いていた声じゃないか。でも……いつもとは少し違う。いつもよりちょっと素直でいい子にしている方だ。
「——主人! よかった……目を覚ましたのですね……」
「…………あれぇ。死んだと思ったけどなぁ、僕も」
不謹慎なボケ……いや、ボケたつもりは無いんだけど。そんな僕の発言に、レヴは大粒の涙を流しながら抱き付いてきた。ここは……病院じゃないな。でも、この空気には覚えがある。ここは——神殿だ。
「……まったく、死なせるわけ無いだろう。僕がいるんだぞ。尤も、死に至る様な怪我でも無かったんだけどさ。ミラちゃんは当然として、あの男もどういうわけかブレーキをかけたみたいだね」
「………………絶対死ぬと思ったんだけどなぁ。ちょっと恥ずかしくなってきた……」
死ぬなんて言わないでください! と、レヴはわんわん泣きながら抱き付く力をさらに強める。いやぁ、ははは。申し訳ない、不謹慎ネタは控えますね。
「……っ! じゃ、じゃあダリアさんも……っ」
「…………いや。ごめん……彼女はダメだった…………どうやら、あの魔獣は魔術に反応して体を内側から破壊する術式を埋め込むらしい。君に埋め込まれたソレは、ミラちゃんが破壊してくれたみたいだけどね」
そう、ですか。と、僕は力無く返事する他無かった。ダリアさんとは特別仲が良かったわけでは無い。でも、どうやらレヴとは親しかったらしい。それだけに……罪悪感は大きくなってしまう。
「……申し訳ありません、主人。私の所為で大怪我を……」
「いや、俺も…………ダリアさんの仇だって……分かってたのに……」
レヴは下唇を噛んで首を横に振った。彼女はきっと納得してはいないのだろう。でも、彼女に恨まれてでも僕は阻止したかった。身勝手な僕を許してくれなんて言う気もないけど、どうしてもこれだけは譲れなかった。
「…………それから。髪飾りの件、本当に申し訳ありません。気に入っている様子でしたので身に着けたのですが……かえって混乱を招いてしまった様です。迂闊な行動でした……」
「いや……あれは…………? レヴ……お前…………ミラの記憶……」
少女はコクリと頷いて、それでもまだ私達は溶け合っていない、と。まだ彼女も残っているのだと付け加えた。そして重苦しくその口を開き、また涙を流しながら彼女は僕に嘆願する。
「……お願いです。どうか…………どうか私を愛してあげて欲しいのです。目一杯……主人が注げるだけのありったけの愛情を、あの子に注いであげて欲しいのです」
「…………あの時聞け無かったこと、今なら教えてくれるか……?」
レヴの願いに僕は迷わず頷いた。そして、その上できちんと確認しておかなければならないことがある。ミラの、レヴの。二人の過去について。
「……私は——レヴは、十六年前にハークスの家に実験動物として産まれました。同時に次期当主である実姉、レア様の身を守る近衛として鍛え上げられました」
実験動物という単語に胸が苦しくなった。いつか僕がそう呼ばれた時彼女が激昂したのは、自らがそう呼ばれて青ざめていたのは…………
「ダリアは私の師であり、同時に神殿の……ハークスの守人でした。そして……唯一私を友人と呼んでくれました。私が振るう雷の力も、体術も全て彼女に。当主様を害する全てを屠る為にと仕込まれた力です」
友人の話をする彼女はとても痛ましくて、僕は視線をそらさぬ様にするので精一杯だった。声を震わせながらも話してくれる少女の為に、僕もしっかり向き合わないといけない。その思いだけで僕は逃げ出さずに済んでいるのだろう。
「……事故が……起きたのは…………っ」
「…………すまない、アギトよ。ここからは私が話そう」
がた。と、椅子を引く音が聞こえた。そして老爺と、彼の為に椅子を運ぶマーリンさんの姿が僕の前に現れた。痛めたのであろう足をかばいながらゆっくりと椅子に腰掛けると、老爺はふぅと溜息をついた。レヴはふるふると首を横に振っていたが……やはり彼女にとって辛い出来事の様だ。神官様は目を伏せて、その口から彼女の代わりに続きを語り出す。
「…………事故は六年前。大掛かりな魔術式だった。入念な下準備も、それまでに培った凡ゆる研鑽も意味を成さず、レアは実験に失敗した。ミラは……レヴは、その儀式で生贄になる予定だったのだ」
「——っ! 生……贄…………? それ……どういう……」
レヴを抱き締める手に力が入った。生贄……? 実験動物として——と言っていたが、それでもきっと……友人もいて、家族もいて。魔術の街で見た幼い少女の様に、虐げられたりはしていないのだろう、と。心の何処かで勝手に信じ込んでいた安心が蹴飛ばされる。
「……正確には、レアが代わりに身を差し出した、と言うべきか。彼女はハークス始まって以来の寵児だった。分かっていたのだろう。実験は失敗する、そしてレヴも失う。それを避ける為……彼女はレヴを生かす為に自らを投げ出したのだ」
「…………その実験ってのは…………?」
老爺は深く頷いた。そして……部屋の隅で小さくなっていた地母神様を優しい声で呼び寄せる。ああ、そうか。いつか見たアイツの寂しげな視線の先には……
「……人造神性。地母神を完成させる実験で、レアは事故を起こし記憶の全てと言葉を失った。ハークスは積み上げた智と練り上げた術を失ったのだ」
「——っ! そんな……そんな物みたいな言い方無いだろ……っ」
すまないとだけ頭を下げて、老爺は話を続ける。その表情はレヴに引けを取らないくらい苦しそうなものだった。彼も……レアさんのことはきっと……
「……そうしてハークスは混乱に陥った。二人の両親はすでに他界しておってな、レアを失った我々の目の前に現れたのは家の存続問題。だが……レヴは所詮実験動物として扱われる。跡取りの候補になど上がりもせず、ただ空席になった市長の席に飾りとして置かれるようになった」
そうか……そうしてミラはこのアーヴィンの市長として…………? なにか……おかしい……? 引っかかることが……
「…………ああ、レヴの存在は秘匿され続けてきた。お主も住民に聞いただろう幼い頃のミラなど、誰も見たことは無いのだよ」
「……そんな…………じゃあ、みんなはなんで……」
頭が痺れた。脳が、そしてそこに繋がる全部の神経が。背骨が、胸が、腹が、手脚や指先まで——何もかもが、その先の言葉を聞きたく無いと——拒絶すべきだと、意識を断ち切ろうとする。けれど……っ。
「………………簡単じゃよ。不憫な娘がいるから、今までいた市長として……レア=ハークスとして接してやってくれ。と、御触れを出したのだよ。他でも無い、私がな」
レヴの手がどんどん冷たくなっていくのが分かった。じゃあ……なにか? アイツはみんなに受け入れて貰おうと必死で頑張っていたのに…………この街は…………彼女をお姉さんの代替品として、勝手に受け入れてしまったっていうのか……?
「…………ミラが我々の元に現れたのはその頃のことだ。それについては……私からは語れぬ」
そう言って老爺は深く頭を下げた。ご静聴ありがとうございました……なんて意味なわけも無い。きっとそれは、レヴへの謝罪なのだろう。ガチガチと歯を鳴らしながら、少女はゆっくりと体を起こして僕から離れていく。そして……
「…………はい。ミラ=ハークスとは私が……レヴが人々に受け入れて貰う為に作った人格です。人らしく振る舞う為に……幼いレア様を模して作り上げた、模造品なのです」
レヴは涙を堪えながら、僕の手を握って話し始めた。




