第百九十五話
——違う————
慣れた街、慣れた道のりを思い切り駆け抜ける。バチバチとスパークする自分の髪が頰に触れる度、私はその痛みに思い切り奥歯を噛みしめる。
————違う——————
あの男があの人を知っているわけがない。あの人はもういない。もう……お姉ちゃんは……っ。
「——違う……違う違う——っ! そんなわけ……」
お姉ちゃん——。私のお姉ちゃん。たった一人の、私の大切な姉妹。唯一残された私の思い出が、あの人の姿をビリビリに引き裂いてしまう。違う、違うと何度叫んでも不安も恐怖も晴れない。
——————違う——私は————
商店街を抜け、帰る筈だった家も無視して私は走り続けた。いつの間にかこんなに荒れていたのか……と、欠けたタイルに蹴つまずく度に、過去の己の無力を呪う。アレはお姉ちゃんを知らない、知るわけがない。あの人はもういない。あの人は……私が…………
「————違う——っ‼︎」
あげた顔のひらけた視界の先に、神殿の屋根が見える。本来見える筈は無い、来訪を拒む不侵の結界が機能していない。少なくとも私以上の——神殿の守人以上の術師が来ている。あの男ではない、あの男だけではない。でも……彼でもない。彼ですら守人にはまだ及ぶわけも——
「——っ! お姉ちゃん!」
倒壊した建物を飛び越え、私はようやくその景色を目の当たりにした。半壊した神殿と、そして地母神様を庇う様になにかを睨みつける神官様。よかった……間に合ったんだ。私は間に合ったのだ。まだ二人は————
「————ダリア——————」
声が聞こえる。叫び声だ。ひどく動揺した……悲しい声だ。これを私は知っている。彼女は私だ。私の……あるべき姿だ。
私はこの感情を知っている。悲しみでも憤りでもない。あるべきではない、ひどく重苦しい悪い感情だ。私が……私だけが抱くべき感情だ。
「——おや、早かったですね。いや————遅かった、ですねぇ——」
私はその感情を知らない。悲しみでも憤りでもある。あって然るべき、ひどく重苦しい悪い感情だ。彼女に抱かせてはならない感情だ。
私はそれを知らない。私は彼女だ。私が思い描いた理想の————
「——————」
——ああ——私はこれを待っていた。ずっと——ずっとずっとずっと————
彼の声が聞こえた気がした。大切な人の温かい声だ。ああ、でも。もうその声も聞こえない。私は消える。私が消える。私は————
「————起きて、人造神性————」
————もう——いいや————
ミラが僕達の視界から消えたのは、ほんの一瞬のことだった。雷魔術が使えるようになった、かどうかは今はどうでもいい。問題なのは……
「……お姉ちゃん……? アイツのお姉さんは……確か……」
事故で亡くなった、と。ミラを庇って……だからアイツはお姉さんの代わりにと、市長の役割を果たそうと必死で——
「——アギト! なにをボサッとしてるんだ! 急いで追いかけるよ! 君なら分かるだろう! 彼女がこの街で、真っ先に護ろうとする場所だ!」
「ッ! は、はい!」
まだ体のビリビリは残っている。まだ走れる。まだ追いつける……間に合う。僕は一目散に走り出した。街のみんなを追い越して、見慣れた商店街を抜け、帰るべき場所も無視して——
「——ミラ——っ」
見えない筈の屋根が見える。あの時辿り着けなかった場所がそこにある。何度も足を運んだ、彼女の因縁がそこにはある。ずっと思っていた、考えていた不信の答えがきっとそこにある。僕はそれが怖かった。
「…………絶対に………………俺が…………っ」
どんな酷いことでも構わない、どんな悲しいことでも構わない。ただ……彼女が無事であればそれで——
倒壊した建物を迂回して僕らはようやく顔を上げる。そして彼女の背中と、その先に地母神様を抱き締めている神官様を見つけた。どうやら間に合ったようだ。僕は……彼女はきっと間に合って、そして————
「——ミラ…………?」
ああ、僕はこの感情を知っている。胸の奥の方から昇ってくる吐き気と、頭のてっぺんから降り注いでくる鈍痛をよく知っている。彼女に味合わせたくない感情だ。
僕はこの人を知っている。いつか彼女のことで怒ってくれた女性だ。きっと彼女のことを案じてくれる人なのだと、不器用ながらもその優しさを彼女に向けてくれる人なのだと。彼女にとっても、きっと大切な人なのだと。
「……ダリアさん…………?」
僕はその人を知らない。その人が彼女とどんな関係であったのかを知らない。彼女とその人の過去を、思い出を知らない。
僕はその感情を知らない。足先から凍り付いていく様な——指先から煮えていく様なその苦痛を知らない。彼女が今味わっているのであろう、その感情を僕は————
起きろ、人造神性。かつて口にした言霊を耳にした。彼女はもういない。彼女がもういない。そこにいるのは————
「————あぁ——ああぁ————ッ! ぁああああ————ッッ‼︎」
それは雷鳴の様に轟き、空を割った。僕はそれを知っている。僕はその男を知っている。僕は彼女を知っている。僕は————何も——————
「……ミラ…………っ!」
彼女の姿がまた僕の視界から消えた。バリバリと空気を震わせる稲光とともに、気付けば彼女はゴートマンに飛び掛かっていた。知っている。それも知っている。彼女の肉体の限界を無視した荒技だ。それがどれだけ危険かも、僕は知っているんだ。
「……ッ! この——っ! ハークスの娘! どこまでもカンに触る……っ! 一体どこまで外道に堕ちるつもりだ——人間風情が——っ!」
「————ぁあ————あああぁ——————ッ」
叫び声をあげながら、彼女は男に何度も飛び掛かる。ゴートマンはその度に吹き飛ばされ、転げ回って傷を作っていく。きっとこのまま死んでしまうのだろう。マントに擬態させていた魔獣を防御に使っても、もう今の彼女には痛みに対する躊躇すら無い。彼女には温度が無い。彼女には痛みが無い。彼女には——レヴには————
「ぐっ……この——っ! 来なさい!」
パチン——と、男が指を鳴らすと、空を覆っていた有翼の黒雲が無数に降り立った。魔竜はその昏い目で少女を見つめる。だが……それも僕は知っている。
「————篠突く雷霆————」
空に浮かんでいた魔竜は、その怒りに撃ち落とされる。地を這っていた魔竜は、もうただの一度も空を見上げることも許されない。彼女を中心に、稲妻は周囲の悪意を容赦無く貫いた。文字通り翼を無くし、身を焼かれた魔竜達は、のたうつことも無く崩れ去った。
「——アギト! これは一体どういうことだっ⁉︎ なんで……ミラちゃんは一体……っ⁉︎」
呆然と立ち尽くす僕の肩を掴んで、マーリンさんはそう叫んだ。そうか、彼女は知らないんだ。いいや、僕だって知ってるわけでは無い。ただ……見たことがあるから…………
「…………っ! 地母神様……神官様! アンタなら……アンタなら知ってるんだろ……っ! ミラは……レヴは…………一体…………っ」
全てを尋ねなければならない。彼女の全てを……でなければ彼女は……っ。時間が無い。と、僕は急いで老爺に駆け寄って、その肩を掴んで体を揺すった。それでも、全てが夢であればいい。全て不穏な妄想であってくれれば……と、こんな時にまで考えてしまう自分がいた。
「……このままでは…………くっ。第一級管理権行使! 人造神性よ! 戦闘を即刻中止せよ!」
老爺は僕のことをはねのけ、一歩前にずいと躍り出た。そして少女に命令を下す。第一級管理権——と、彼は口にした。いつか彼女が僕に教えてくれた第三よりきっと上位の……ハークスの人間だけが持っているのであろう特別な権利を。彼女を兵器として扱うための鍵を……っ。だが…………
「……っ。暴走しておる……っ⁈ 管理権で縛れない……じゃと……?」
「暴走…………っ! ミラっ!」
ああ、分かっていた。全部繋がったんだ。全部……アイツは…………————
「……っ————デルバーッ‼︎」
「————九頭の————」
僕はそれを許さない。許してはいけない。だから立ち上がらないといけない。走らないといけない。もう……二度と、一人で待ってなどいるわけにはいかない。だから————
「————やめてくれぇ——————ッ‼︎」
首元に熱した鉄を押し当てられている様な痛みが走った。背中に無数の槍を突き立てられている様な息苦しさが襲った。僕は——
「————主人————?」
——気付けば僕は——彼女の前に立ちはだかっていた。




