第百九十三話
ギィギィと聞き覚えのある鳴き声が遠くで聞こえる。わいわいしていた車内は、話し疲れて眠ってしまったミラを起こさない様にとすっかり静まり返っていた。
「…………ほら、見えてきた。アレには君も覚えがあるだろう」
そう言ってマーリンさんが指差したオレンジの空の先には、空に漂っているのではないかとさえ錯覚させる巨大な砦が見える。こっち側……東側からだとこんな風に見えるのだな。なんてことを思っても、感想を共有出来ないのは少しだけ寂しい気もした。
「……本当に二日で着いちゃったよ…………馬車って速いんだなぁ……」
「あはは。君達は随分遠回りをしたみたいだから仕方ないよ。でも……うん、西の海を経由したのはいい経験になったんじゃないかな? 勿論、良くない思いもしたみたいだけどさ」
ガタガタ、ガタン。と、馬車は街を遠くに見つけた所で停まってしまった。はて、目的地はすぐそこなのだから、後は歩いて行こう……的な? 馬車を着けておく場所が無いからとか。或いは、あの閉鎖的な街にあまり大仰に入るのは止した方がいいとか、そんな理由?
「……アギト、ちょっとミラちゃんを起こして貰っていいかな? 可愛い寝顔は惜しいけど、ここらで見納めだ。街に入る前にやらなければならないことがある」
「やらなければ……? 分かりました。おーい、ねぼすけ。起きろー」
起きろー。と、手が届かない位置にいるミラの体を自分の体ごと揺すると、何やら逆効果だったらしく気持ちよさそうに丸くなってしまった。自分ごとだと激しくは揺すれないからなぁ。ゆったりした動きが逆に眠気を呼んでしまったのか。さて、それはいいとして……
「…………ね、ねぇねぇオックス! この子達はいつもこうなのかい⁈ いっつもこんな…………ぼほぉっ——」
「マーリン様…………ほら、タオル鼻に当ててください。アギトさんも、いい加減にしてくださいよー、いつもいつも……」
見せもんちゃうわい! というかオックスはもうそろそろ慣れろ! いつもみたいに首元まで登ってくるだけの余力が無かったのか、ミラは僕の背中にもたれる様な格好で抱き付いていた。その所為で微妙に手が届きにくいったらありゃしない……
「んん…………ふわぁ……あれ、私寝ちゃって……?」
「おう、寝る気満々でくっついてきたくせに。なんて白々しい」
主にマーリンさんの騒がしさで目が覚めたのか、ミラはぐしぐしと目をこすりながらゆっくり僕から離れていった。こんなんでも夜は夜でたっぷり寝るんだよな……朝も全然起きないし。一体一日のうちどれだけ眠れば気がすむんだ。
「お、起きたね……ごめん、もうちょっとだけ待っててね……」
オックスの介抱を受けながら、マーリンさんは下を向いたままミラにそう伝えた。外がすっかり赤くなっていることと、見覚えのある砦……それから、彼女にとっては嗅ぎ覚えのある匂いだとか、魔術痕だとかもあるんだろうな。馬車の窓から体を乗り出して、懐かしい景色に一気にテンションが上がっていくのが目に見えた。
「……久しぶりだな。もうアーヴィンもすぐそこってことだよな、これ」
「そうね……うん。今なら道も分かってるし、一日で辿り着ける距離でしょうね」
お行儀が悪いぞ。なんて思う間も無く、ミラは窓からするりと外に出ていった。こんな小さい穴からよくもまぁ……イタチみたいな奴だなお前は。こちら側とは反対側に先代の結界が、そして南へ向かえば故郷がある。ここは魔術師の隠れ里。かつてその滅びの宣告を目の当たりにした街、クリフィアが僕らの目と鼻の先にあった。
「……よし、折角だから外で風でも浴びながら話をしようか」
マーリンさんはそう言って、タオルを持ったまま馬車から出て行った。やらなければならないこと、というのの説明だろう。オックスも後に続いて降りて行った。もちろん僕も。
「さて、まず前提を話しておく。星見で見た未来というのは、原則的に変化しない。人の手による介入を許さず、映した結果を招くようになっている」
「……変化しない、ですか。それって今回の件で例えたら、ミラをアーヴィンに連れて行かなかったら……なんてことをしてもですか?」
そうだ。と、マーリンさんは頷いた。ミラにとって良くないことと言うのがアーヴィンで起こるのならば、アーヴィンに連れて行かなければ問題無いのでは? と思うのだが、どうにも違うらしい。何故だ……
「ミラちゃんが二度とアーヴィンを訪れない未来が存在しないというのが一因だろう。どんなに時間が掛かっても、いつかはその出来事と鉢合わせる。だから、今回は先回りをしてなんとか未然に防ごうというわけだ」
「……なるほ…………ど? あの、たった今未来は変わらないって……言わなかったですっけ?」
そう、未来は変わらない。どんな道を辿ってでもその結果を出す。収束するんだ、原則的には。と、マーリンさんは僕の問いに答えをくれる。その上で何かある、と言うのだろうか。僕らは黙って彼女の言葉の続きを待った。
「……未来を変えるに値する力を持った存在、とでも呼べるものがこの世にはある。ブレイクスルーとでも言おうか。壁をぶち破るだけの力を持った存在が——未来をもひっくり返す力を持った者がいるんだ。もったいぶらずに言うのなら、例えばその“未来”を見通して干渉するだけの力を持った魔導士、とかね」
それって……と、口にしかけたところで、マーリンさんの目つきが変わった。どうやら本題はここからの様だ。
「……僕が直接関わったなら、個人に訪れる未来くらいは多少捻じ曲げられる。だが、それは僕に限らない。世界への影響力が強い人間であれば、無意識に起こしうることでもあるんだ。そこで、だ。僕達は今回、クリフィアへひっそりと入る。決して魔術翁に干渉してはいけない」
「……魔術翁に……?」
魔術翁ルーヴィモンド。僕らにとってみれば恩人でもある。一宿一飯の、ではない。道を指し示してくれた、旅の行き先を照らしてくれたという大きな恩だ。確かに先に言われなければ、付き人のノーマンさんにもお世話になっているのだし、挨拶に向かっていただろう。だが……あの少年に未来を捻じ曲げる力が…………
「尤も、必ずしもと言うわけではない。可能性があるとすれば彼だろうという話だ。何が何でもこの未来は変えなければならない。その為に、不確定要素をなるべく排除したいんだ。僕がどの程度干渉すれば、どの程度のズレが生まれるのか。それは多少予想出来ても、僕以上の魔術師が関与した結果の未来は分からないからね」
「………………僕以上の? マーリンさん…………以上の魔術師⁈」
あれ、そんなに驚くことかな? と、とぼけた顔でマーリンさんは慄く僕とミラに笑いかける。いや……まぁ、すごい少年なのは知ってるけど……
「現翁と直接会ったことは無いけどね。彼についての予兆は、むかーしクリフィアに来た時に感じていたんだ。この街の未来を変えるだけの運命を——強い因果を持った長が現れるって。個人では無く、街という大きな単位の未来を動かしてしまえるだけの引力。この国で一番優秀な魔術師の一人だろう、現翁ルーヴィモンド少年は。だからこそ、今回は彼との接触を避ける」
そうだったのか……もしかして、歴史の偉人って奴がそれらに当てはまるんだろうか? ナポレオンとか、豊臣秀吉とか……歴史の勉強しておくんだった……全然名前思い浮かばないや……
「と言うわけで、僕らはこのまま歩いて街へと入り宿を取る。街はずれにある安いボロい宿で一晩過ごしたら、夜明け前に僕ら四人だけで出発する。ユーリ達を残していけば、ゴートマンとやらが来ても大丈夫だろう」
「ぼろ…………うぐぐ、クリフィアで宿を取るなら、二人にお願いしてご馳走付きの最高級ホテルで寝泊まり出来ると思ったのに……」
業突く張りだなぁ、君達は。と言われて横を見ると、同じ様にうんざりした表情のミラと目が合った。お前も同じことを思ったか……そうか……
「……て、ことで。ちょっとユーリを説得してくるよ…………はぁ、黙って出発してやろうかなぁ、めんどくさい…………」
めんどくさいって貴女ね……あんまりユーリさんにストレスかけないであげてよ。とぼとぼ歩く背中を見送ると、ほんの少しして、あっさり許可が出た。なんて言葉と共に、意外そうな顔をしてマーリンさんは帰って来た。なんだかんだユーリさんもマーリンさんのことを信頼しているんだろう。馬車はそのまま街の外に停めたまま、僕らは懐かしい暗い街の中へと入っていった。人の気配を感じない、閉じこもってしまったままの魔術師の街で、僕らは本当にボロい宿で一晩を明かすことになった。アーヴィンの自宅よりはマシだけどさ……




