第百九十話
目が醒めると……うん、特に何も無かった。というのも、今日はバイトも休みでアラームすらセットされていないからだ。本当に何も無く、ただ自然に目が覚めて。二度寝だけはやめておこうと、ゆっくり布団から重たい体を……物理的に重たい体を引き剥がしたのだ。
「…………さむ。もう半袖の時期は終わりかなぁ」
身震い一つして袖の無い腕をこすり合せる。でもまあ、昼間になれば暑い暑い言い出すんだけどね。うーん、そろそろ秋物の服とか買いに行かないとなぁ。服……うん、あれ? 何か…………忘れているような…………?
「………………っ‼︎ そうだ! お給料!」
そうだ! 昨日は僕の人生初のお給料日だったんだ。はて、えーと……通帳どこへやったかな。とりあえずスマホからでもいくら振り込まれたか分かるのはありがたいよね。なんて呑気に考えながら必死に思い出したパスワードを打ち込むと、そこには給与と銘打たれた、子供の頃に貰ったお小遣いとは文字通り桁違いの額が振り込まれていた。あれ、給料日昨日じゃなかったっけ? なんか三日前くらいには振り込まれてるんだけど……なんでだろ。まぁいいや。
「…………うへへ。いやぁ、働いたって感じがするなぁ。これでパソコン…………は、買えないな、まだ。服とマウスと……あとは二人に何か買ってあげたいなぁ……」
桁違いなんて言っても、大体半月分にも満たない給料だ。それこそ服買ったら半分も残らないくらいの寂しい額ではあるのだが……うん。今は額とかどうでもいいよね! マウスは来月まで我慢しよう。先に二人にプレゼントを…………ああ、母さんに借りたオフ会の時のお金と散髪代返さないとな。あれ……足りてなくない……?
ワクワクしながらも銀行に行くのが億劫…………もとい勇気が足らずに、僕は相変わらずヒロインへの愛が重たいことに定評のあるデンデン氏の小説を読み耽っていた。なんというか……つい最近も勇者と魔術師の冒険譚を聞かされてるから、どうにもそっちに引っ張られて……いや、勇者様は顔も知らないんだけど。ドロシーちゃんがあのポンコツ童貞魔導士の姿で再生される様になってしまった。あっちはちょっとした変態、こっちはオドオド系小動物ヒロインと似ても似つかないんだが…………まぁ、あの人も顔とスタイルは良いからなぁ。い、いかん。何を思い出しておるのだリトルアギトよ。あれはズボンだっただろう、スカートから見えたらなんでも良いのかお前は。節操を持てマイサン。あ、僕は全然、それがズボンだろうがスパッツだろうが興奮するタイプです。しっかり連動してんなぁ。
「……いやいや。ドロシーちゃんはあんな……純情な正統派ヒロインだって。女の子に近付かれて鼻血吹き出すとか……ないない」
ばしばしと顔を叩いて例の魔導士の姿を振り払う。うん……喋らなければ…………なんて不敬な奴だ君は! ってセリフが、容易に脳内再生されてしまうな。休みの日って、割と向こうのことばかり考えてるよね、僕。別に良いけ……良くない! 店がピンチだって言ってただろ!
結局、僕は寝巻きから着替えもせず、ダラダラとお昼過ぎまで小説を読み耽った。やはり量があるな……読み応えがあるともいうけど。でもお腹空いたから、ちょっとここで休憩。謎の少年の正体は気になるけど……どうせドロシーかわいいみたいなシーンばっかりでちゃんと描写されないんだろう。期待してるぞ、デンデン氏。
「さてと、ご飯なんだろうなぁ…………って。いつまでこんなことを……」
リビングに向かうと、そこにはラップのかけられた大皿のゴーヤーチャンプルーが置かれていた。うん……部屋の前に置いてないだけ進歩な気はするけどさ。ちょっとは自分でなんとかするようにしないとな。料理勉強…………これも考え始めてから、もう一月近く経ってんのかぁ。そうだよなぁ、一番最初に思い付いたことだもんなぁ。進歩ねえなぁ、アギトはそこそこ成長したと思うんだけど。いや、あっちも結局あのちびっ子におんぶに抱っこだから……考えるのはよそう。
ぽこん。と、無心でテレビを見ていた僕のスマホが通知を鳴らした。この時間帯にやってるドラマって、多分再放送だよね。どれも僕からしたら初見の目新しいものなんだけど、結構面白いな。アニメしか見てこなかったけど、今度母さんが追ってるドラマを一緒に見てみようかな。ではなく。
「なんだろ……デンデン氏だ。えーと……」
『へールプ! ヘルプですぞーーっ!』
なんだこの要領を得ないDMは。詳しくはFAQをご覧ください。と、そっけない感じで返事をすると、珍しく時間が空いてから返信がきた。んまぁ五分も空かなかったんだけどね。
『Q.新クエストのボスが倒せないのですが、どうしたらいいでしょう。A.ご友人と協力して討伐してください』
ぽろん。という通知音と共に、そんなメッセージが返って来た。新クエスト……? なんの…………? ボーストはもう終わるよな。意外とマルッペさんこと札束の悪鬼が……逆だなこれ。廃課金ユーザーマルッペさんが出戻りして立て直したとか? 流石に個人の課金でそこまでは無理だし、終わるって言ってるゲームにそこまで課金するかな? しそうだなぁ……なんか、今までありがとうの課金だよ! みたいなこと言ってそうだ。
『早くミラちゃんを連れてきてくだちぃ! どろしぃたんソロだとどうしても耐久に問題が!』
続いてやってきた通知にようやく合点がいった。あのゲーム、体験版くせに追加クエストなんて出したのか……豪華だな。どれ、そういうことなら手伝ってやろう。早速ダウンロードだ! 今回は早いといいなぁ。待っててね。と、返信して急いでPCの電源を付ける。なになに、えーと……エクストラハードクエストの体験版をリリースしました、か。見れば、ホーム画面にそんなお知らせが書いてあるじゃないか。エクストラハード! いい響きだ……これだから現代っ子はやめられ…………
「……漆黒の邪竜討伐………………っ」
ぎゅうと胸が痛んだ。関係無い筈だろう。これはゲームで、あっちとは関係ないんだ。このミラはあくまでゲームのキャラクターで……アイツとは違って……だから…………
「…………ごめんデンデン氏……」
ごめん、ダウンロードに一億年かかる。回線は大丈夫そうだから、本体の寿命が近いのかも。と、僕はデンデン氏に嘘を送った。きっと彼はそれが嘘だとすぐに分かるだろう。だって昨日新しいゲーム一緒にやったもの。でも……他の言い訳も思い付かなかった。
『おほぉう……ナンテコッタイ。一億年もの間どろしぃたんが燃やされ続けてしまう……』
ごめん。と、そんなメッセージを映す画面に呟いた。でも……どうしても耐えられそうに無い。全然関係無い、それこそ男のキャラだったならこんなことにはならなかったかもしれないけど。でもどうしても、アイツの姿を模したキャラクターがよりにもよって竜なんかと戦うところなんて……今はとても……っ。返事に困っていた僕の元に、電子音と共にもう一通のメッセージが届いた。やっぱりそれも、デンデン氏からだった。
『なにか、辛いことでもあったのですかな? もし時間があれば、一緒に野菜育てましょうぞ』
「……こいつ……さてはメンヘラツイートしてるアカウントに似たようなことしてるだろ……」
心にも無い暴言を一人呟いて、気付けば僕は笑っていた。あ、声とかは出して無いですよ? ええ。ただただ気持ち悪いニヤケ顔を一人浮かべていただけです。え? 通報? おう、したけりゃしろよ! こっちはもう覚悟決まってんだよ!
似た様な言葉を返信メッセージに乗せて、僕は昨日教えて貰ったファーマーファーザーという農場経営ゲームを起動した。正直このタイトルはどうかと思うけど、やたら細かいところまで拘られたリアル農業シミュレーションとしてニッチな層に人気らしい。正直言って、僕には難しいよこれ。
『アギト氏人参持ってない? 人参。カレーが食べたいでござる』
「売って。人参売って、食べないで。あとこのゲームカレールー無くない? え? あるの?」
二時半ごろからぶっ通しで夜までゲームをするこのデンデンという男の職業は一体なんなんだ。謎が謎を呼ぶ時間を長閑な農場で過ごし、晩御飯の野菜炒めに妙な感慨を覚えながら僕は一日を終えた。うん……バイト無い日は前と変わらない生活してるや。変わろう……休みの日から……変えていこう……っ。目を瞑れば、店の危機だとか、エクストラハードだとか、人参だとか色々思うところと消化不良感が浮かんできたものの、あっさりと眠りに就いた様だ。様だってのは……うん、もうこれも恒例というか。慣れてきたもんだよね。
ああ…………背中暖か……暑いわ。こいつはこれでよく平気な顔して寝てられるな。窓の外は明るいけど、まだ誰もドアを叩いてないあたり寝坊したってことは無いんだろう。まぁ……寝坊しなくて済むかどうかは、今からの僕の頑張りにかかってるんだけど。
「……はぁ。おきろー、バカ娘―。心配でゲームもまともに出来なかったってのに……無防備に間抜け面晒しやがって……」
後頭部にぐいぐいと頭を押し付けてくるミラの体温に妙な安心感を覚えながら、またこちらの一日が始まった。出来ればもう少しスマートに始まって欲しいものだよ、本当に。




