第十九話
もうすっかり日も暮れた頃、僕は帰ってきた。玄関口で甲斐甲斐しくも待っていてくれたミラの姿に、僕はにやけ顔でただいまと言う。
「……お疲れ様」
遠目に見えた不安げな顔はすぐ安堵にほころんで、いつもの明るい笑顔が出迎える。誇らしげに鞄を抱え、彼女を引っ張るように市民館……僕らの家に入っていった。
部屋の前まで来て彼女は、後で私の部屋に来て。と、そう言うとひったくる様に僕から鞄を受け取って、そのまま部屋に戻っていった。なんだか忙しない様子に、僕は手早く手荷物を部屋に押し込んで隣の部屋のドアを叩く。
「いいわ、入って」
彼女の独特の距離感というか、人懐っこさやボディタッチの多さ。そしてこの無防備さというか、異性として意識されていなさそうなところがまた僕の純情を弄ぶ。彼女からしたらオンボロ仕事部屋に招いている感覚なのだろうか。だが、寝泊まりしているプライベート空間にズケズケと上がりこむ勇気はまだ僕には無い。深く深呼吸して、お邪魔します。と、小声で言ってからドアを開ける。彼女に聞かれるとなんだか馬鹿にされるような気がするから本当に小声で、とにかく自分にだけ言い聞かせた。
「……率直に聞くけど、誰か見つかった?」
パラパラと署名と旧名簿とを見比べながら彼女は尋ねる。手際の良さが幼い外見におよそ似つかわしく無いと感じたが、もうそれも慣れてきた頃だ。彼女がというよりこの街が、この世界が若くして人を成熟させるようだ。街を回っている時にも、立派に働くそれこそ彼女よりも幼い子供を何人も見た。少なくともこの街においては学歴だとか進学だとかは無く、子供のうちから家の手伝いで働いているか、賢者の卵として学習院に入るか賢者に直接弟子入りするかの二つのようだ。
そして彼女は錬金術と魔術を修めた立派な賢者であり、街を束ねる市長として日々働いている。彼女の質問はその市長としてでは無く、一個人としてのものであろう。チラリと視線を寄越した彼女に、僕は首を横に振る。
「そう。そうよね、仕方ないわ」
パタリと手を止め、彼女は安堵した様子でそう言った。そしてまたせっせか手を動かし始める。きっと彼女は、ロイド氏が戦地に赴かず済むことに胸を撫で下ろしたのだろう。彼の脚を見ればそれくらいは僕にも分かる。しかし同時に、彼が引き受けていたとしても同じように喜んでいたとも思える。
「それでも日程は遅らせられないわ。明日の朝、教会でお祈りを済ませたらそのまま出発するわよ」
「……分かった」
彼女のそんな言葉に、僕は頷くしかなかった。老爺にとっての世界、国が僕にとっての彼女であり、彼女にとってはこの街なのだ。危険はなるべく早く、自分の手で摘み取りたいのだろう。
「それじゃあ改めて、お疲れさま。ありがとう、助かったわ」
面と向かってきちんとお礼を言われると、なんだか誇らしいよりもこそばゆい感じがした。そして何より、初めて誰かの為に何かを成したという達成感と満足感が湧いてくる。自分の心臓の音がいつもより軽快に聞こえた気がした。
「それじゃ今日は早めに休みましょうか。私ももう寝るわ」
そう言うと彼女は荷物を乗せたまま机を部屋の端に追いやって、薄っぺらい布団を敷き始める。そういうところだぞ! と、注意したかったが、自分の首が締まるだけなので口を噤んだ。仕方ないから僕はそそくさと退散して自分の部屋に戻る。僕ももう寝よう。寝不足と疲労で眠たい筈だが、明日への不安でよく眠れないような気もする。だから、とにかく今日は少しでも長く休むしか無いのだ。昨晩とは違う風通しのいい、涼しい背中にふと寂しさを覚えながら僕は眠りについた。
久しぶりに夢を見た。そういえば今の行ったり来たりな生活になってから、夢らしい夢を見ていなかったと思い出す。深く暗い、海の底だろうか。体の感覚もなく暗闇を漂っている今を、僕は夢だと認識する。そういえばいつか、同じ様な夢を見た気がした。あの時は確か、とても好みなお淑やかで儚げな女性の声がして……そう、彼女に叩き起こされてあの世界にやってきた時のことだ。もしかしてあの夢の続きだろうか。あるのかもわからない首をひねって辺りを見回した。何も……何も無い。本当に暗いだけで……いや。
「誰か……そこに誰かいるんですか?」
およそ人一人分か、それは闇ではなく影だ。子供の様な大人の様な、夢だからなのか暗い所為なのか分からないが、人が一人そこに立っているような影が出来ている。僕はそれに呼びかけた。
返事は無かった。別にそれがなんでも構わなかったし、それと話がしたかったわけでも無かった。ただ悪戯心と言うべきか、僕はそこに近付いてみようと思った。一歩、また一歩とあやふやだった脚が進む程に鮮明になっていく。それの姿はまだまだハッキリとはしない。もどかしくなって、僕は声をかけて思い切り跳んだ。ぐわっと体は宙に舞い、そのままゆっくりと影の目の前に降りていく。
「……ミラ…………?」
それを彼女だと認識したのは脚が海底に着く直前だった。栗毛を首元で束ね、今よりももっと幼い姿でこちらを黙って見つめている少女を、僕はなんの疑いも無くミラ=ハークスであると認識した。
バチンッとなにかが爆ぜるような感覚がした。海底が破裂して萎んでいく。カビ臭い空気、すえた臭いのする枕。そうか、また戻ってきたのか。体を起こし眼鏡をかける。デジタル時計は午前五時五十分を表していた。
流石にカラクリも少しずつ分かってきた。僕は間違いなく秋人とアギトを交互に繰り返している。今のところ周期は二日ごと。どちらかが夢でどちらかが現実である可能性ももちろん捨て去れない。だが今は、どちらも現実であると思った方がいいだろう。ミラのおかげで僕は変わろうと思えた。母さん達の為に変わろうと思った。それらは互いに良い影響を及ぼしているのだから、無闇に片方を切り捨てることはしなくて良い。
とりあえず朝ごはんを食べよう。六時になって二人が起きてくる頃でもある。僕は信じられない程あっさり起き上がって部屋を出ることができた。
「おはようアキ」
「おはよう、兄さん」
リビングには早起きな兄がいた。今朝はトーストとスクランブルエッグ。それからコンソメスープのようだ。早速朝食にありつこうとテーブルに向かった僕の視界に、数枚のチラシが入りこむ。同時に僕の背中は氷柱で刺された様に冷たく痛んだ。それはアルバイト募集のビラだった。
「お前も大人なんだから、変わるとか俺たちの為とか、それがなにを意味するかは分かるだろう?」
背中に嫌な汗をたっぷりかいているのが分かる。此の期に及んでまだそれを怖いと言うのか。
「別に今すぐどうこうってわけじゃ無い。それでも選択肢は知っておかなきゃどうしようもないだろ」
どうやらこれは兄さんが集めてきたものらしい。それは紛れも無い好意で、僕に甘い兄さんにとって精一杯の厳しさだったのかもしれない。しかし今の僕の頭には、秋人の将来をどうするという余裕は無かった。
「……ごめん兄さん。もう少し、本当にもう少しだけ待って欲しい。先にやらなくちゃいけないことがあるんだ」
それはもうただの言い訳だった。だって僕は、原口秋人は何もしていない。彼女のためにと頑張って、これから危険に身を晒そうとしているのはアギトの方だ。兄さんにとってアギトは関係無い。だからこれは、兄さんから見れば引き伸ばしの言い訳でしか無いのだ。
「……ならちゃんと、そのやらなくちゃいけないことを説明するんだ」
当然の反応だ。今から適当に嘘を取り繕って誤魔化しても兄さんには通じないだろう。それに、そんなのでは何も意味がない。だから僕はアギトのことは伏せて兄さんに、二人に説明することにした。