第百八十六話
日もすっかり落ちて、僕らはまた各々の部屋へと戻っていた。慣れない馬車で疲れたろう。明日もある、明後日もある。それに、アーヴィンに戻ってからのこともある。ゆっくりお休み。と、どこか焦りのあったミラを、マーリンさんは去り際になだめていた。
「……アーヴィンに戻ってから、か。戻ったら……きっと……」
きっと説明しよう。ミラに自分のことを、秋人という怠惰な男の話を。そしてそんな男からの、ありがたくもないだろうけど感謝の言葉を伝えよう。そして今度こそ、市長として立派に働くアイツの支えになろう。
ベッドに横たわるとすぐに、ドアノブが捻られた音がした。ああ、うん。早かったね。というか、もう一人で眠ろうって気無いよね、チャレンジ精神を持とうよ。別にいいけど。
「……無用心じゃない? 鍵も掛けないで……」
「はいはい。じゃあ今度は掛けといてくれ。まったく、朝もちゃんと起きろよ? 変な風に思われるのは、いっつも俺なんだから」
ミラは僕の言葉の真意など分かっていない様で、目を丸くして首を傾げていた。まったく……小悪魔系気取りかお前は。
「…………アギト。ちょっとこっち来て」
こっち? はて、どっち。枕を並べる為にベッドに向けていた視線を、百八十度……百二十度くらいだったかもしれない。斜め後ろを振り返ると、そこにはテーブルを運んでいるミラの姿があった。
「……勝負よ」
「負けず嫌いめ……」
どん。と、肘をテーブルについて、彼女は僕を待ち受ける。ああ、はいはい。腕相撲ね、分かった分かった。そんなに鼻息を荒げなさんな……
「…………まったく、そんなに根に持つこと無いだろ? 実際の所、アレで俺の方が強いなんて思ってないし。大体、あの強化魔術は俺の力じゃないんだし」
「……良いから! もう、はやく!」
わがままか。これで気が済むんならまあ、いくらでも付き合ってやろう。出来れば一回だけだと嬉しいけど。女の子に腕力で負けるのって、中々精神的に堪えるんだぞ? それもお前みたいなちびっ子に……
「…………アンタの手って……意外と大きいわよね……」
「そりゃ、お前のと比べたらな。平均からしたら小さいだろ。少なくとも、オックスとは大人と子供くらいの差が……」
まじまじと僕の手を見つめて、悔しそうにミラはそう言った。流石にお前より手が小さいなんてことあるわけ無いだろ、男なんだし。でも、これまでに出会った男の人は、大体僕より手も体も大きかったからなぁ。ゲンさんなんて、もう爺さんなのに僕よりムキムキだったし。割と小柄な部類なんだろうな、アギトの体は。ちょっと劣等感が……
「……じゃ、やるわよ」
「はいはい。あ、フライングとかズルはダメだぞ? 怪我するから」
そんなことしないわよ! と、怒られてしまった。まぁする必要も無いだろうけど。がっちりと手を握り合って、息を合わせてゆっくりカウントを始める。さん、にぃ、いち……
「——っ!」
「——ぐっ! くっ……?」
流石に瞬発力が違う。カウントが終わった途端、僕の右腕は一気に持っていかれそうになる。が……どういうことだろう。ジリジリと持ち直して、元の位置も通り越して、そして。
「っ…………この……っ」
「ぎぎ……っしゃぁ⁉︎ 勝った! 勝った⁉︎」
息を止め続けて真っ赤になった顔で、ミラは悔しそうに僕を睨みつけていた。あれ? 手を抜いた……わけでは無い……? どういうこと……ああ、そうか。まだ体調が戻って……
「……強化無しじゃアンタにも負けるのね、私って。そりゃ……向いてないわよね……」
「…………ミラ?」
誤解しないで。正真正銘全力、いかさまも魔術も無しでの本気が今のだから。と、ミラは拗ねた様にそっぽを向きながら言った。そう、か。こんなに弱かったんだ、こいつの純粋な筋力って。そっか……
「これで……こんなんでアンタのこと守るだなんて……バカみたいね。ちょっと魔術が得意だからって、天狗になってたのかな……」
さっきのマーリンさんの言葉をまだ引きずっているのか、彼女はすこし寂しそうに俯いてそう言った。うん、でもね。そういうことなら、僕は伝えないといけないことがある。
「……良いんじゃないか? 別に、戦わなくったって」
「…………でも。それじゃ……約束が……」
約束約束って貴女ね。はぁ。と、ひとつため息をついて、僕はミラの頰を両手で挟むように鷲掴んだ。モチモチしてんなぁ、相変わらず。ストレス社会にひと時の癒しを。って、パッケージングして売り出すぞ。
「お前は何になろうとしてるんだよ、まったく。勇者様じゃない、お前は勇者様みたいに危ないことしなくてもいいんだ。お前は市長になって、俺は頑張ってまた秘書にして貰える様になる。お前にちゃんと付いていける様に、俺だって頑張るから。そんでまた、帰ろう。前みたいに、あのボロ屋へ」
ミラは戦わなくったって良いんだ。だって、そもそもの発端である蛇の魔女の討伐も、市長の役割とは到底呼べない物だった。それこそ、ユーリさん達みたいな屈強な騎士に任せておけば良い。彼女はもっと平和で、明るく暖かいあの街で。また街の住民と街の外から逃げてきた人達の為に頑張れば良い。僕はそれを支えて、ちょっと早くに仕事を終えてあの場所で待っている。仕事を頑張ったかわいい妹の帰りを、それこそご飯でも作りながら待っていれば…………あれ、これ逆じゃない? ねえ? なんだかこれ、逆じゃない?
「…………でも……あいつが……ゴートマンは…………っ」
「……あいつとの決着はつけよう、クリフィアできっと。今度こそ、きっちりユーリさん達に身元を引き渡して。そんで……ゆっくり街に帰ろう」
アーヴィンならオックスもすぐに遊びに来られる距離だ。あっと、エルゥさんとの約束もあるんだったっけ。じゃあ一回王都にも遊びに行こう、フルトにも寄ってすれ違わない様に。そんな楽しいことを語って、僕らは大欠伸するまで眠気を忘れて楽しい明日を夢見て笑った。ああ、えっと。そういえば今日は二日目だったな。じゃあ……次に会うのは三日後かな……いや、こいつとしてはすぐ明日の朝のことなんだけど…………
背中に貼り付いたミラの息遣いが寝息に変わったのも朧げなうちに、僕は眠りについた。
少年はとても訝しげだった。無理も無い、彼にとってミラちゃんは最も頼りになる戦士だったのだから。だが……それではいけない。彼女には成さねばならないことがある。過去から決まっていた責務が……いや、こんな言い方は身勝手すぎるかな。でも、それを僕の身勝手だなんて優しふりをするのは、もっともっと卑怯な気もした。
「……いいんだ、これで」
僕は間違ったことはしていない。星見で視た未来はまだ動かない。このままではまだ、彼女が壊れてしまう。だから……僕はどうしても彼を呼び起こさなければならない。そして、今度こそしっかり、最後まで……
「……………………さて。公務は終わり。むふっ…………むふふ…………」
ぱん。と、両手のひらで頰を打って、僕はスイッチを切り替える。この為に……この瞬間の為に僕はユーリを説得してこの部屋を選んだんだ。この……ミラちゃんの隣の部屋を……ぐふふ…………ぐふふふ…………
「じゅる…………今朝はなかなか大変なカウンターを貰ってしまったからね……こうしてしっかりイメージトレーニングから…………」
壁に耳ありマーリンさんあり。金属製の筒を壁に押し当てて僕はミラちゃんの生活音をいただくことにした。ふふ…………ふふふふふ…………対策をしっかり練る為には、情報収集からしっかりと。これは決してやましいことでは無い。やましいことでは、なぁい。あくまでも彼女の為、ミラちゃんの笑顔の為の…………
「…………がちゃ?」
はて、こんな夜更けにどこへ? 負けず嫌いみたいだし、隠れて特訓とかかな。結構強く言い過ぎちゃたかなぁ。でも、ああでも言わないと気付かないだろうし……っと、いけないいけない。女の子が一人でどこへ行くのさ、危ないよ。不審者がついて来ないか見張ってあげないとね。僕はゆっくりと部屋の扉をあけてミラちゃんの動向を見届ける。
「…………はて……あそこって……」
とぼとぼと彼女は別の部屋へと向かった。あそこは……アギトの部屋……? や、やっぱりあの二人……っ! そういうことなら早く言ってよ! ダブルベッド付きの大きなお部屋を用意したのに!
「……怪しいものではー……ありませんよー……ただの大魔導士マーリンさんでーす……」
あたりを警戒しながら僕も彼女が入って言った部屋の前までやってきた。あっ、がちゃっていった。鍵まで掛けて……えっ。やっぱり二人って……ほほう。一言一句聞き逃していけない。僕は急いで耳にドアを…………じゃなかった。ドアに耳を当てた。
「————はやく——」
ドアから遠くにいるのか上手く聞き取れないな。でも魔術の仕掛けはミラちゃんに気取られるし……じれったい。何かを動かした様な音と、その後にミラちゃんが急かしたような……?
「————ンタの——意外と大きいわよね————」
「ッッッ⁉︎ っ⁈ い——っ⁉︎ 一体中で何が——ッッッ‼︎」
大きい! 大きい⁉︎ 男女が一つ屋根の下、それも鍵まで掛けた部屋で夜にすることと言ったら……う、腕相撲だよ、きっと! アギトって意外と手おっきいよね、みたいな! はは、可愛らしい和やかな光景じゃないか! うん! もっと…………もうちょっと情報を……ごくり。
「————お前のと————————オックスとは————————」
オックスも交じってるの⁉︎ 彼は純朴そうに見えたのに……今の若い子は進んでるんだな…………ごくり。いやいやいやいや! あんなに素直で純粋な良い子達なんだ! 邪推はいけない……これはアレだ。オックスの手は俺よりもっと大きいだろ………………オックスのはもっと大きいだろッッッ⁉︎ そ、そういうことなのかい…………そっ、そんなダメだよ! そんな愛の無い……三人でなんて…………ゴクリ。そうか……三人とも仲良いし…………今の子にとって、愛情は特定の一人に向けるものでは無く、みんなで一緒に…………っ!
「はぁ……はぁ……ごくっ。まだ……まだ情報が…………」
「……なっ……何してんっスか……………………?」
時間が数秒止まった気がした。僕としたことが……大魔導士マーリンともあろうものが、まさか気を抜いて背後を取られるとは……やるじゃないかオックス………………
「………………ぶは——っ」
「ちょっ⁈ マーリン様⁉︎」
いけない妄想をしてしまって、僕はそのまま鼻血を吹き出して仰向けに倒れてしまった。ああ……ダメだ。ダメだよ……みんな……そんな…………さんぴ——————
僕はしばらくして自分の部屋で目を覚ました。視界の端に映ったのはユーリでは無く、酷く怪訝な顔をしたオックス少年だった。どうやら彼の中で、大魔導士マーリンは不審者に格下げされてしまった様だ。