第百七十九話
さて、どうしようか。早くも慣れてきたミラの匂いに心落ち着かせているうちに、発生した新たな問題が立ちはだかる。この問題とは随分長いこと戦ってきたし、その度に苦しめられもした。そして、未だに答えの見つかっていない一つの難所だ。
「……でも寝坊とか出来ないよな……マーリンさんもいるわけだし……」
問題とは目の前の眠り姫……もとい冬眠中の穴熊。恒例といえば恒例の、どうやってミラを起こそうかという問題だ。いつもの様に背負って出て行くか? そんなことをしてみろ、オックスはもうどうしようも無いとしても、また新たな誤解を生むじゃないか。なんとか説得してその誤解だけは避けたとして……今度はもっと大きな問題にぶち当たる。
一緒に寝たんじゃなければ“勝手に部屋に忍び込んで、眠ってる女の子を布団から引っ張り出してきた男”になってしまうじゃないか、僕は。それはまずい。非常にまずい。それならまだミラとの間柄を疑われた方がマシだ。実害は無いし、ちょっと虚しくなるだけでまんざらでも無いし。だが……そっちの誤解は本当にまずい。最悪人として扱われなくなってしまうんじゃないだろうか……?
「……むにゃ……ぐぅ……」
「この……呑気に寝ぼけやがってお前は……」
さて本当にどうしよう。ええと……マーリンさんに可愛い寝顔を見せたくて連れてきました! とか……これだ。それなら少なくともマーリンさんは疑わない。疑わないってことは無いな、でも納得はしてくれるだろう。賄賂であるとアピールすることで、僕がミラに変な下心を抱いていないと遠回しに伝えることも出来る。完璧だ、パーフェクツな作戦だこれは。頭でもおかしくなったか、冷静に考えろ。
「…………ミラ……」
名前を呼んで頭を撫でる。いつもいつもやっていたことで、エルゥさんの所為でちょっと変に意識したこともあったけど……もうとっくに当たり前になっている日常。こういうとこだよなぁ。と、不意にため息をつきたくもなるがしょうがない。
「アギトー。ちょっと良いかなー? 入るよー」
「どぇええ————ッッッ⁉︎ ど——ッ⁉︎ ちょっ——ちょーっと待ってくださいッ⁉︎」
どんどんとドアを叩く音とともにマーリンさんの声がした。そう、問題のマーリンさんの声だ。オックスなら、またっスか……場所考えてくださいよ。とか、冷たいこと言われて終わりなんだが……マーリンさんはマズイ! なんども言うけど、この状態をあの人に見られるのは良くない! 言い訳出来ない、だって僕の部屋にコイツいるんだもの!
「えー、しょうがないなぁ。じゅーう、きゅーう……」
「ちょっと……子供か! しばらく待ってください! 今暫し……」
ど、どうする……っ? 布団の中に押し込むか……? いや、それじゃいくらなんでも膨らみでバレるだろ、漫画じゃないんだから。ベッドの反対側に転がしとくか……? 寒いって起きるかもしれない、って言うか大体窓際に回られたら見えるじゃないか。どどどどうする……っ⁈
「ごー、よー……ぜろ! はい、入るからねーっ!」
「せめてあと四つくらい数えて! 子供じゃないんだからっっ‼︎」
ああ、無慈悲な。マーリンさんんはドアを開けて意気揚々と部屋に飛び込んできた。そう……側から見るとまるで愛の巣のような状況のこの部屋に……
「…………ほえぁっ……」
「……こ、これは……違くてですね。コイツ意外と臆病だから、マーリンさんが言った良くないことってのが怖くなっちゃって……それで……」
無理がある。いや、実際コイツは別件で不安になってここに来たんだけど……それでもそうはならんでしょうみたいな。マーリンさんは見る見るうちに無表情になって、固まって動かなくなって……そして……
「…………ブハッ……」
「マ、マーリンさぁーーーんッ⁉︎」
鼻血を吹き出してそのまま仰向けに倒れていった。いかん! 童貞には刺激が強すぎた! 案外ミラの寝顔が可愛過ぎて……みたいな可能性もあったりする? 男嫌いと言っていたし、その可能性も大いにあるな……
「……ふわ……んん…………うるさい……アギトぉ…………逃げないでよ……」
「起きてーっ! ミラちゃん起きて! 大惨事! 今大惨事だから!」
グリグリと甘えるのをやめないちびっこを、全力で揺さぶって叩き起こす。不機嫌になられても……と、いつもは避ける手段だが、この際そんな呑気なこと言ってる場合じゃない。なんとかコイツからも弁明を……
「ぐふっ……そ、そうか……君達、そんな関係だったのか…………」
「マーリンさん⁈ あ、いや……違うんで……鼻血! 一回鼻血拭いて! タオルタオル……」
ゆっくり起き上がったマーリンさんは、血で真っ赤になった顔で僕らの方を睨んでいた。ち、違うんです! コイツは抱き枕がないと眠れないだけで……今度マーリンさんにお貸ししますんで! っていうかもういっそ差し上げますので‼︎
「……むにゃ……んん……っ⁉︎ ま、マーリン様っ‼︎ す、すみません! 寝坊しまし……きゃあ! 血が……あわわわわ」
おおおお落ち着け! お前までパニクるな! いろんなものに引っかかりながらミラは大慌てでマーリンさんに駆け寄った。んだけど……それはまぁ逆効果だと思うんだよな。
「マーリン様っ! ええとタオルタオル……ああっ、上向かないでください! 下向いて……今拭くものお持ちしますので……」
「ミラちゃ——ッ‼︎ おひゅぃっ……近っ……ミラちゃん近い…………ボハッ」
ミラは接近し過ぎたのだ。まったく、僕と同じ感覚で接するから……お前はもう少し人との距離感をだな……なんて考える間も無く、マーリンさんはまた倒れてしまった。目も当てられない大惨事が目の前で繰り広げられる。いかん……僕もめまいがしてきた……これどうやって収拾つけるんだ……?
ミラを可能な限り遠ざけて、僕はマーリンさんの看病(?)に精を出した。迂闊なことをすると僕もマーリンさんと同じ轍を踏みかねない危険な仕事だ、一瞬も気は抜けない。しかし、なんでこの人はこんなラフな格好なんだろう……昨日のドレス姿とは打って変わって、薄手のワンピースに身を包んだ姿に…………あっ…………
「……うう、ひどい目にあった……アギト? なに……どうしたのさ、いきなり蹲って……」
「いえ……なんでも……」
僕は大変なことをしてしまったかもしれない。もうちょっと……もうちょっと……っ。と、助平心丸出しでマーリンさんの胸元を凝視している時に気付いてしまった。この世界に……下着の、つまり……ブラジャーの概念はあるんだろうか…………と。その…………もしこう…………そういうことなら、今マーリンさんは…………などと考えてしまったのだ。つまりはそういうことだ、言わせんな恥ずかしい。本当に恥ずかしい人間です……僕は……
「……もう大丈夫。いや……朝から中々刺激的なもの見せてくれるじゃないか」
「いえ、マーリンさんも……あ、いや……なんでも……」
鼻血は止まったのかゆっくり立ち上がるマーリンさんと、まだしばらく立ち上がれそうにない僕は、何やらお姫様と従者みたいな、なんだか僕がマーリンさんに傅いた様な格好になって話をする。まぁ主にミラの話だけど……
「…………え? ところでなんだけど……やっぱりその……ええっ? 君達もしかしてそういう関係なのかい……っ⁈ ねぇねぇ!」
「うぐっ……このうっとおしい感じ……なんだか覚えがあるぞ…………」
鬱陶しいとは何さ、不敬だぞ。なんてニヤニヤしたまま詰め寄るマーリンさんに、エルゥさんの姿がダブる。お花畑な桃色恋愛脳、流行ってんのか……? しかも今度は立場のある偉い人だから尚更タチが悪い。エルゥさんに比べて御しやすそうなのは良いんだけど……
「……ふへへ……そうか、うんうん。若い男女が二人で旅に出たんだもんね……いやいや、結構結構。ふひひ…………萌えだよねぇ……」
なんて気持ち悪い笑い方するんだ。折角美人なのに…………って、萌え……? そんなネットスラングなんで知ってんだ。もしかしてこの人……僕と同じで転生してきた現代人じゃないだろうな……? ちょっと情報が古いのは……やっぱりこう、転生してイケメン勇者と冒険するみたいなそんな展開を辿ったから、情報が更新されていないとかで。
「……っと、いけないいけない。アギトに用があるんだった。ミラちゃんの姿が見当たらなくってね。ノックしても返事が無いもんだから、その……べ、べつに寝顔を拝見しようとしたわけじゃないからね⁈ 心配だったから様子を見に部屋に入ったら居なくって……どこか心当たりは………………あ、ごめん。血を流し過ぎて頭に酸素回って無いや。顔洗ってくるよ……」
「……うちのチビ助がお騒がせしました……」
そうか、ミラを探して僕を頼ったのか。うん、予想は見事に的中してしまったね、しなくて良い方向にだけど。マーリンさんは顔を洗うと言ってそそくさと部屋を出ていった。さて、僕らも支度しないとな。アーヴィンに帰る、となれば…………また何日かかるな……? 途中何度も路銀を稼いだり……魔獣と戦ったり……動けなくなったミラを背負ったり。ここまで来るのにもかなりの時間を要したわけだ、しっかり準備しておかないといけないな。そんな覚悟が的外れな物になるとは、この時の僕は考えもしなかった。いや……ミラが前に言ってたんだけどさ……




