第百七十八話
ごそごそ、もぞもぞ。そんな擬音を伴ってそいつはやってきた。布団に隙間風と一緒に入り込んでくるそれの正体は…………もう今更何も驚くことは無いな。
「おい」
「ひゃぁうっ⁉︎ お、起きてたの……?」
ゴロンと寝がえりをうてば、そこには随分可愛らしい寝巻きに着替えたミラの姿が……………………ッ‼︎
「——ッ! ちょっ……ちょっと待ったっ!」
これは……誰だ……っ⁈ 確かに外見はミラそのものだ。レヴでも無い、いつもの間抜け顔なミラだ。だが……僕はそれが誰なのか分からない。大きな——大き過ぎる違和感がある。服装の話じゃない、それはもうとても似合ってるし愛くるしいことこの上無いので、間違いなくマーリンさんの趣味だ。そうだ、マーリンさん…………マーリンさんだ!
「……アギト……?」
「す、ストップ! ゆっくり慣らしていこう……ゆっくりだぞ……」
違和感の正体はさっきも嗅いだ……さっき嗅いだのは香辛料の痛い匂いだな。ではなくて、その前。ミラから発せられる香りがいつもと違う。そりゃあそうだ、だっていつもと違う石鹸使ってるんだもの。安宿のボロ風呂や水浴びではありえない、甘くて柔らかい…………ああ、そうだ。やっぱりマーリンさんからしてた匂いだ……っ!
「こ、これはいかん。やっと慣れてきたってのに……」
お風呂に入って間も無いのだろう。さっきの言葉を投げ返すようだが、随分ホカホカに仕上がった温い体がジリジリと寄ってくる。湯冷めするから自分の部屋に直行してそのまま眠ってよ! と、突き放すのはちょいと忍びないんだけど。だが……いかん。こんなチビ助が色っぽく見える……
「…………ねぇ、アギト……その……」
そんな僕に態度を見てか、彼女は少しだけ俯いてしおらしくしてみせる。やめろ! 折角……折角妹として割り切ろうとしてるんだから! こっちの都合も考えてよ!
「…………昼間はごめん。危ない思いもさせたし……その後も。取り乱してごめん。無茶させてごめん。心配してくれたのに、噛み付いてごめん。ごめんね……」
そう言ってミラはそのまま体を起こした。ごめん、なんて言われても……それはこっちのセリフなんだ。僕は無意識のうちに、布団から出て行くミラの手を掴んでいた。
「……謝んなよ、そんなことで。俺だって……また守られた。また一人で危ないところへ行かせた。俺が謝んなくちゃいけないのに……さっき、マーリン様に会う前。お前が無事に現れた時、すごくホッとした。ホッとして……そんなの全部忘れて……」
「…………ありがとう。じゃあ、さ。一個だけ、わがまま聞いてくれる……?」
なんでも聞いてやる。そう言って僕は少女の体を覆うように布団を被せた。無抵抗にミラはそのまま倒れこんで、小さく丸まって。そして、掴んでいた僕の手を握り返した。
「……思いっきり抱き締めて。そうしたら……眠れる気がするから……」
「っ⁈ それは……っ! お前……」
暗くて見落としていた……のだと信じたい。思いも寄らぬ匂いに目を合わせられなかったからだと、そうであって欲しいと願う。今更になって、その唇が紫に染まって震えていることに気が付くなんて。大丈夫なんかじゃなかったんだ。こいつの中で、病院で目を覚ました時に抱いた不安も恐怖も……なんの問題も解決しちゃいなかったんだ。
「…………記憶が。意識が飛んじゃうの……っ。初めの頃は、ただ寝ボケてただけだって。気絶してたからだって、そう思ってた。でも…………」
僕の視線は無意識に自分のポーチへと向かう。あの髪飾りが、ミラにとって決定的な証拠になってしまったのだ。レヴという、自分も知らないもう一つの自分の存在に。意識を食い取られてしまうという恐怖感の正体に辿り着いてしまう証拠に。
彼女は言った。気付いた時に溶け合って消えてしまう、と。僕はいったいどちらに残って欲しいと考えるのだろう。当然ミラが消えるなんて嫌だ、でも…………
「大丈夫。怖くなったらいくらでもこうしてやるから。アーヴィンに帰ろう。みんなが待ってる。帰って、今度こそ立派な市長になって……」
ぎゅうと抱き締めて、僕は震える少女の頭を撫でた。僕に何が出来るだろう。マーリンさんは、ミラに良くないことが起こると言った。そしてそれを避ける為、アーヴィンに帰るのだと。もしかしてマーリンさんが見た未来と言うのは……コイツが……っ。ミラとレヴが互いに気付いて、溶け合って消えてしまう瞬間なのだろうか。もしそうなら……その瞬間を、コイツは不安と恐怖で埋め尽くされた状態で迎えるということなのだろうか……? 考えれば考えるほど胸が痛くなる。バクバクとこめかみの辺りの血管が早い脈を打つのが分かった。
「……アギト……? 大丈夫……? 脈早いし……顔色も……」
「っ。だ、大丈夫だって。嗅ぎ慣れない匂いだからちょっと戸惑ってるだけだよ」
なにそれ。と、彼女は笑って僕の背中を撫でた。こんな時くらいお姉さんぶらずに甘えて欲しいものだが……もうこれもコイツの性分なんだろう。しばらく頭を撫でているとミラは気持ちよさそうに寝息を立て始めた。僕も眠ろう。明日は早いと言っていた。それにここから先、アーヴィンに向かうまでの間は……どんなことがあってもコイツを…………
目を覚ますとミラは居なかった。慌てて飛び起きて、ベッドの周りに落ちていないか確かめても何も無い。部屋を飛び出してミラの部屋に入っても、誰も——何も無かった。
「……ミラ……?」
僕は大急ぎでマーリンさんを探した。オックスでもいい、誰でも……あいつの行方を知っている人なら……っ‼︎
「——貴女は…………っ」
長い長い廊下の曲がり角で、僕は懐かしい顔と鉢合わせた。ふわふわした甘い匂いを漂わせながら、着慣れないのだろうドレスに煩わしそうにしてその人は立っていた。
『…………ぁ——』
「……地母神様…………っ」
ああ、なるほど。これは夢だ。あの人が街から、神殿から出るわけが無い。あの街の象徴である地母神が、危険な旅をしてまでこんなところにまで来るわけが無い。だからこれは——
びくっと体が跳ねて、手元にいたミラの体をいつも以上に容赦無く強く抱き締めてしまった。起きてしまっただろうか。と、恐る恐る様子を窺うと、どうやら杞憂……どころか、随分気持ちよさそうにしているではないか。そうか……ちょっとキツいくらいが好みですか。ではなくて。
「…………っ」
脈がまた早まっているのが分かった。あれは僕の不安と恐怖の元凶なのだろう。ミラとアーヴィン。ミラと地母神様。ミラに何かあったら……僕は…………




