第百七十六話
案外と言うか、あまりにも呆気無く和解を果たしたマーリンさんの計らいで、腹ペコにペコを五つほど追加した様な空腹の僕らは、ご馳走を振舞って貰えることとなった。もちろん……タダでは無いのだけど。発端のやり取りは、固い握手を結んだ時のことだ。
僕は片膝をついていたマーリンさんの体を引っ張り起こした。どこかのチビ助程では無いにしても、見かけ通り華奢な体で彼女は軽やかに立ち上がってみせた。勇者様と共に旅をしていた、と言うだけのことはある。もう随分柔らかく、綺麗になってはいるものの、その手にはマメや傷の跡が無数に残っていた。
「……さて、アギト。早速で悪いが、一つ頼まれてくれるかな?」
「なんなりと。俺に出来る範囲ならなんだってしますよ」
お主も悪よのぅ。なんて悪い笑みを浮かべながら、マーリンさんは顔を寄せてきた。うん……あれだ。さっき彼女を僕と同じと形容したが…………ッ‼︎ お、落ち着けアギト! いかん……ミラとはまた違った女性の甘い香りが…………っ! あどけなさの中に大人の色香を匂わせる柔らかそうな唇がッ‼︎
「うへへ……まずはやっぱりミラちゃんのことを色々知るところから始めようと思うんだ。いろんな表情を……そうだな、まずは嬉しそうに笑う姿がいいなぁ。幸せそうな……無邪気な笑顔がみたいなぁ、じゅるり。緊張してるのか、どうにも表情が硬いっていうか……アギト?」
「わっ……笑ってるところですね? りょ、了解です……分かったんで……その……」
どうしたのさ。と言って、マーリンさんはグイと肩に手を回してさっきよりも近付いてき…………近いっ! い、いかん……触れた部分が柔らかい……っ! サラサラの黒髪が……っ! 綺麗に整った長い睫毛が…………ッ‼︎
「でへへぃ……ミラちゃん、いい匂いしたなぁ。でもちょっとまだ刺激が強過ぎるから、隣に座るくらいから始めるべきだよね……って、聞いてるかい? 大魔導士マーリンさんを前に緊張するのは分かるけどさ、ちゃんと約束は果たしておくれよ? ああ……ミラちゃん。女の子はいいねぇ……ふわふわで……いい匂いがして……まさに萌えだよねぇ……」
それどころじゃ! 無いんですけど! なんだ……どういうことだ。この人までミラと同じ様な距離感で接してくるじゃないか⁉︎ もしかして、この世界ではこのくらいが普通なのか? それとも陽キャはみんなこんななのか⁈ 二の腕に……っ! 二の腕になんか、柔らかいのが…………ッ⁉︎
「…………おーい、聞いてるかい? はぁ、まったく。何がどうしたってんだ。さっきあんな大見得切っておいて、今更怖気付くことも無いだろうに。何に緊張してるんだい」
盛大なおまいうじゃないか! さっきの醜態を忘れたとは言わせないからな⁉︎ 待望だなんだと言いながらミラに迫られてきりもみ飛行したことは、勇者様の物語に書き加えるべき案件だぞ!
「いや……その、近いって言うか……」
「近い……っ! なっ⁉︎ まさか僕が臭いとか言うんじゃないだろうなっ⁉︎ 思いっきり不敬だぞ! そこになおれ!」
じゃあその手を離してそこに直らせてくださいよッッ‼︎ グイグイ来るな……頼むからグイグイ詰め寄らないでください……僕の気持ちは貴女にも分かる筈でしょう…………?
「いえ……その…………ふわふわで……いい匂いで……刺激が強過ぎると言うか…………」
「ふわふわで…………? なんで?」
なんで…………? なんでって……………………なんで? なんでじゃないよ、なんでもだよ。一回引っ叩いてやりたくもあるが……いろんな理由でそれは出来ない。不敬罪で投獄も嫌だけど、そもそもそっちを見れない!
「…………その…………マーリンさん美人なんで……………………その……………………」
「……っ⁈ び、美人……⁉︎ 僕がっ⁈」
とても意外な反応が返ってきて、重ねて意外なことにマーリンさんは飛び退いた。勘弁して欲しい。ミラがくっ付いてくるのを耐えられる様になったのは、慣れと妹感と、それから刺激的なパーツが少ないからだ。だが…………裏を返せば、初対面で妹っぽさも何も無い、着痩せしてるのか分からないが刺激的な柔らかさを持つお姉さん(推定歳下)なんて耐えられる訳がない。童貞とはそう言う生き物だ。
「…………美人…………美人、か。ふふ……それを言われたのは三度目だよ。言い寄ってくる有象無象の戯言を除けば、だけどね」
「マーリンさん…………?」
どこか寂しそうな表情をしていた。何か嫌な思い出でもあったんだろうか。だが、その儚げな表情はとても綺麗で、美人なんて簡単な言葉では言い表せない魅力を感じる。それに対して語彙の足りない僕の頭が美しいと思うよりも早く…………マーリンさんはまた悪代官の顔に戻ってしまった。
「そうかそうか、君は僕に欲情してるのか。これは頂けないなぁ」
「よ——ッ⁉︎ なんて言い方するんですか⁉︎」
僕は慌てて背後を振り返った。よし、聞いてないな。聞こえる距離かは分からないが、ともかくミラの飛び蹴りが無いってことは聞こうとはしてなかった、結果今のやり取りは聞かれていなかった。で、オーケー? オーケーだ、よし。
「さて、でもさ……本人に聞かれるのはマズイし、一応形だけでも密談と言うことにしたいんだよ。嫌われるのだけは本当に…………本当に嫌なんだよ……頼むよ…………」
「切実すぎる……わ、わかりました。でもあんまり近付くのは無しでお願いします……」
分かったよ。と、イタズラっぽく笑って、マーリンさんはまたミラ達に背を向けてひそひそ話を再開した。
「……で、どうなんだい。とびきり可愛い笑顔を見せてくれるのかい?」
「それならお安いご用で。まず、おいしいご飯を用意します」
とりあえず、ミラなんて餌を与えておけば満面の笑みで尻尾振ってるんだ。このオーダーは簡単過ぎる。あと考えられるのは……お風呂とか、犬とか……
と、僕がマーリンさんにミラが喜ぶことを一通り教えたのが今から数十分前の出来事だ。
「っ! 〜〜〜っ‼︎ 〜〜〜〜〜っっ‼︎」
「はいはい、分かったから。分かったから飲み込んでからね。マーリンさんもいるんだから、はしたないことしないの」
要望通り、ミラの幸せそうな食い意地をお披露目することは出来た。本当に幸せそうに食べる姿に、ふと昼間抱いたレヴの言葉への不安を思い出す。彼女は温度を感じられないと言った。だから、もしかしたらミラも五感の一つに欠落があったりしないだろうか、と。それこそ味覚に……こんなに幸せそうに食べていることが演技であったなら、それはどんなに悲しい、寂しいことだろうと不安になったのだ。だから……実はこっそり試してみることにしたんだけど……やめておけば良かったかもしれない。
「〜〜っ! ふぁふぃふぉ! ごくん。アギト! そっちのも取って! その大きい海老も! お肉もっ‼︎」
「はいはい、分かったからあんまりがっつかないの」
見る見るうちに皿の山は積み上がっていく。流石にマーリンさんもドン引きだろうか。初見でこれにびっくりしなかった人は……
「でへ……よく食べるねぇ、ミラちゃん。はあぁ……萌え……」
「はは…………」
さて、今更だが状況を説明すると、僕らは……ええと。僕とマーリンさん、つまり同盟を組んだもの同士で隣り合って座って、ミラを眺める様な格好で食卓に着いているのだ。いや、その隣にいるからオックスも見えるんだけど……多分マーリンさんには見えてないって言うか。三人で旅をする様になってからはいつも隣にいたミラが久々に正面にいると…………なんだろう。この気持ち……これは……
「…………しかし食い過ぎだろコイツ。久しぶりに面と向かって見ると、えも言われぬ恐怖が……」
「良いじゃない、食いしん坊美少女。うへへぇ……」
良いだろうか……? いつも食費が嵩んで大変なんだけど……っ! どうしよう、やはり止めるべきか? 脇目も振らずに貪りつくミラが次に手を伸ばしたのは、僕が仕込みを入れた料理だった。止めるべき…………止めて……………………下手なことして噛みつかれたら嫌だし、黙っておこう。
「〜〜〜っ! っ⁈ ………………ッ〜〜〜〜〜〜〜ッッ⁉︎」
「うわっ⁈ ミラさん⁉︎」
あ、オックスごめん。お前もこっち側に座らせておくべきだった。僕が仕込んだのは激辛ソース。タバスコか何かは知らないが……さっき料理を運んでくれたシェフに頼んで出して貰った調味料だ。辛いのが好きなんですよー、なんて嘘をついてまで仕込んだそれはどうやら効果覿面で…………ごめん。やり過ぎたかもしれない……
「ミラちゃん⁈ どうしたのミラちゃん⁉︎ どうし……痛ぁっ⁉︎ 目が……なんか目に沁み……いたいいたいいたい‼︎」
「ミラさん⁉︎ マーリン様⁉︎ なん……なんだこの匂い……? すごい辛い匂いが……」
これは……この地獄絵図は……っ。僕が作ってしまったのか……こんな惨劇を……っ。パイ包みの料理に仕込んだ所為で匂いに気付けなかったのか、それとも嗅ぐ間も無く口に運んだのか……分からないが、ミラは顔を真っ赤にして悶えていた。そうか…………
「……そっか。味は分かるんだな…………そっか……」
地獄みたいな光景の中、僕は一人安堵していた。そんな僕のつぶやきが耳に届いたのだろう、ミラは鬼の形相で僕の方を睨みつけて飛びかかってきた。
「アーーギーートーーッッ! アンタ一体何…………? 何……泣いてんの……?」
「泣いて……? ああ、違う違う。俺も目に沁みただけだよ。それにしてもすごい匂いだなこれ……げほっ⁉︎ 喉にっ⁉︎」
辛味の元凶が近付いた所為で刺激臭がこっちにまで‼︎ 喉が焼ける! 噛まれた首元がいつもの倍熱い‼︎ しかし泣いてたのか……涙腺ゆるいって言うか、最近涙もろいなぁ。大体コイツ絡みなの、ちょっと腹立たしいんだけど。
「アギト——っ? 何よ……撫でても許さないけど……」
「はは……げほっ。悪かったって。ごめんごめん」
見れば、マーリンさんは目をやられてしまったらしい。オックスもそれに付き添っているうちに巻き込まれてしまったみたいで、だいぶ苦しんでいる。なんだ、毒ガスを吐く魔獣でも出たのかと言う光景だが……いやぁ、本当に申し訳ないことをしましたね。あとでしっかり謝っておこう。首元に噛り付いたミラの頭を撫でながら、のんびりとそんなことを思う。目頭が熱いのは…………これも多分、辛子のせいだ。辛子のせいだから心配しなくて良いぞ。心配……痛い! 心配して! 頚動脈の心配はして‼︎




