第百七十二話
主人。彼女は僕をそう呼ぶ。それは第三級管理権がどうのとか、ともかく自らを兵器として認識した上でその使用者、管理者としてそう呼称する。そう、だと思う。
「…………私……何を…………」
彼女は違う。彼女は僕を貴方と呼び、アンタと呼び、アギトと名を呼んだ。それは見知らぬ来訪者として歓迎し、やがて親しい友人として……秘書として。薄い壁越しに共に過ごした仲間として、旅の道連れとしてそう呼称した。その筈だった。
「……ミラ……? お前…………っ‼︎」
ああ、大間抜けか僕は——っ。彼女にこのことがバレぬようにと——ミラにレヴのことがバレぬようにとオックスに釘を刺したくせに、どうしてこんな簡単な見落としをしたんだ。似合っていたから? 存外嬉しそうだったから? 違う、どれも違う。単純に気が回らなかったんだ。レヴの無垢な人格に絆されたからなんて理由でミラを蔑ろにしていいわけがない。だからそれはただの……ただのうっかりの筈で……
「…………これ……あれ……? 私…………あいつらに…………」
ミラは頭を抱えてしまった。自分の言動の異常に、記憶の整理をつける為に。頭に、髪に触れてしまった。髪に……髪飾りに触れてしまった。取り除いておかなければいけなかったレヴの痕跡に…………っ。
「ミラ……それは…………その……っ」
大事そうに握り締めていたから俺が着けたんだ。そんな言い訳が通じるだろうか。何をも疑いかねない混乱状態の今のミラに、そんな陳腐な嘘が通じるだろうか。いいや、彼女は賢い子だからきっと——きっとその嘘に気付いた上で、笑って合わせてくれるのだろう。そうなればもう、この問題に僕らが手を出すことは出来なくなる。彼女が自分の内で消化するのを待つしか出来なくなってしまう。髪飾りを外したミラの顔は、信じられない程怯えて青ざめてしまっていた。
「…………また…………また……だ。また……記憶が…………」
「っ……その…………」
かける言葉などあるわけも無い。ただどうしようも無く震える少女を宥めようと、ただこの状況から自分が逃げる為に僕は彼女の肩に手を伸ばした。ミラは…………怯えた顔のままで僕の方を振り返った。
「……嫌だ…………」
「…………ミラ……?」
初めて見る感情かもしれない。いつかクリフィアで打ちのめされた時よりも暗く、いつかフルトで死を覚悟した時よりも凍りついた目で。彼女は泣くこともせずにただ虚ろに僕を見つめていた。
「…………アギト…………ねぇ……アギト……?」
彼女はもう興味無いと言わんばかりに髪飾りを床に落としてしまった。あんなに嬉しそうにしていたのに、あんなに大事そうに握りしめていたのに。もうどうでもいいと、一瞥されることも無くそれは舞い落ちた。
「……アギト。ほら……いつもみたいに撫でて……? いつもみたいに…………私を……」
「…………ミ……ラ……?」
彼女は僕の手を握って頰をすり寄せた。いつもの様に、と。レヴの言葉が脳裏を過る。彼女にとってそれは何か重要な意味があるのだと、そう言われたのではないか、と。親指に触れた涙に僕はそんなことを思ってしまった。
「————嫌だ——っ‼︎ 嫌だ嫌だ——嫌だ——ッ‼︎ もう……もう何も…………」
「お、落ち着けミラっ! 大丈夫だ……幾らでも撫でてやるから——」
僕の体はあっさりと押し倒された。少女の姿を映していた筈の視界は黒ずんだ天井だけを切り取って、自分の上に震えているミラの体があるのを理解したのは彼女がまた叫びだしてからだった。
「アギト——っ! 私に触れて——っ! 私を呼んで私を愛して————ッ‼︎ 誰のとこにも行かないで……っ」
いつもとは違う。いつも通り——体重を預ける様に彼女は僕に抱き付いて啜り泣いた。いつもとは違って、いつも通りに彼女は振舞っている様だった。それに僕は違和感を感じて……いつも通りに見えることが余計に違って見えた。
「……アンタは私の…………私だけの居場所でいて……っ。嘘でも…………いいから…………」
消え入る様な声でミラは懇願する。震えるその体を僕はいつも通り——いつもとは違って、抱き締められなかった。頭を撫でて慰めるだけのことが出来なくて、小さな体を抱き寄せるなんてことも出来なくて。いつも通り、わがままで甘えん坊な彼女を受け入れたのに……っ。いつもの様に振る舞えないのは、その違和感が原因なんだろうか。それとも…………っ。
理由なんて、考えている時間は与えられなかった。
「アギトさん……その…………」
「……オックス……っ⁈ アンタ……達は…………っ!」
もう遠くなんかじゃない、すぐ側で聞こえたオックスの声に振り返ると、そこには見覚えのある鎧姿が大勢あった。長身のオックスを見下ろす様に並んだ数人の騎士達は、胸に揃いの紋章を携えてピリピリとした空気を漂わせる。
「ミラ=ハークス。勅令により貴殿を連行する」
冷たい目をしているのが兜越しにも分かった。あの時と同じだ。動けない彼女を一人連行すると、アーヴィンに押しかけて来たあの時と同じ。無慈悲で冷酷な、その甲冑と同じ冷え切った銀色の言葉だった。
「っ! 待って……待ってくれ! こいつは怪我してるんだ! 今は精神的にも参ってる……っ。落ち着いたら連れて行く。だから少し待ってくれ!」
「ならぬ。これは巫女様の命である。もう一度言う。ハークスを連行する、そこを退きたまえ」
あの時と同じ。あの時と全く同じだ。だが唯一、絶望的に違うことがある。ここが屋内であること。そして、この空間の中にあの時助け舟を出してくれた優しい騎士の姿がないことだ。ユーリさんに助けられなかったら、きっと僕はあそこで死んでいた。それと同じ状況が——絶体絶命の状況がユーリさん無しで繰り返されている。でも……
「——っ! ダメだ! 絶対にダメだ——っ! こいつは渡さない……っ! ミラは絶対に渡さない——ッ‼︎」
「…………そうか」
オックスは周りにいた騎士に取り押さえられてしまった。ここの医者であるおばあさんも、どうやら建物から追い出されてしまったらしい。誰も阻むものは無い。白刃は薄っすら射していた陽の光を浴びて部屋の中を暗く照らした。怖かった。死ぬのは当たり前に怖いし、目の前で剣を振りかぶっている大男は死神に見えた。それでも逃げ出さなかったのは、自分が知らぬ間にミラを抱き締めていることに気付いたからだ。僕は……ああ、僕は……ミラを守りたいんだった。それを思い出したから……
「——やめてっ! 分かりました、命令に従います。彼に手を出さないでください」
それはさっきまで恐怖に震えていた声ではなかった。視線を剣から腕の中へ向けると、そこにはいつものミラの姿があった。
「……ありがとう。でも、それでアンタが傷付くのは見たくない。約束、アンタは私が守るんだから。一日で二回も破れないじゃない」
「…………っ。お前…………でも……」
大丈夫。と、彼女は微笑んで僕の頭を撫でた。涙の跡はまだ残ったまま、目も赤く腫らしたまま彼女は毅然とした態度で立ち上がった。あの時背いた命令に従う為に。その身を差し出す為に。
「ついて来い」
「っ! ミラ! 俺も……っ! 俺も行く! 連れて行けっ! 俺は…………俺はそいつの——っ!」
追いかけようとした僕とオックスはたちまち取り押さえられてしまった。押さえつけられた低い視点から僕は彼女の背中を追った。大きくて頼りになるそのちいさな背中を、僕はどうすることも出来ずに見送ってしまった。僕らが解放されたのは、ミラを連れた騎士達がすっかり見当たらなくなってしまった後のことだった。
僕らは遅れて帰って行った騎士を——要は僕らを取り押さえる役目をしていた騎士を尾行したが、彼らは街の外に出て停めてあった馬車の中に入って行ってしまった。どうやら魔獣の警戒の為に外の見張りをする部隊もいるみたいで、彼らもその一員だったのだろう。或いは馬車の見張りだろうか。とにかく、僕らはミラを探す手掛かりを失ったのだった。
「…………くそ……っ! どうして……なんであいつが……」
「アギトさん……今日はもう遅いっス。一度宿をとって作戦を練りましょう」
もしもこれが徴兵の為と言うのなら、そんな理不尽な話は無い。彼女はただ、人より魔術や錬金術に詳しいというだけなのだ。ただそれだけの十五の少女を、どうしてこの国は兵なんかにしてしまうんだ。徴兵で無いとしたら、一体どうして? 考えても答えなんて出ない。沈んで行く夕日を睨みつけながら僕らは立ち尽くしていた。それに気付くまでは。
「…………あれ? アギトさん……その、こんな時に言うのもなんなんスけど……お金ってミラさんが……」
「……………………っ‼︎ そうだ…………そうだよオックス! よく気付いてくれた!」
オックスは何も分かっていない様子だった。それは別に構わない。僕らは急いでおばあさんの病院へと走る。まだ店仕舞いしていないだろうか。いいや、閉まっていたってこじ開ける!
「おばあさんっ! おばあさん、落し物……あいつの落としてったもの何かなかったですか?」
「ひぃっ……し、知らないっ! 私は何も拾ってない……っ!」
ああ、もう! 分かってるよ! ここはボロ病院で、この街はきっと物価が高いんだ。ロクな収入も無い貧困層はより貧しく、金を溢れ返らせている富裕層はより富むように出来ているんだろう。見たら分かる。だから、何か拾ったならいちいち返している余裕なんて無いんだ。それが金貨の入った財布だとしたらなおさら。
「〜〜っ! お金はいい! 全部あげる! 迷惑料だ、全額置いて行く! だから……財布とお金以外のものは返してくれ!」
「へぇっ⁈ あ、アギトさん、何言って……っ⁈」
おばあさんは疑っていた。当然だ、この街の貧しい人からすればそんなのはあり得ない。きっと迫害されたりなんてこともあるんだろう。ここに来るまでに見た子供達がそれを物語っている。子供が物陰に隠れる理由なんて、何かから逃げるため以外に無いだろう。僕は必死に説得した。絶対に警官に突き出すようなことはしない、絶対に暴力を振るうよなことはしない、と。何度も頭を下げて、ようやくおばあさんは立て付けの悪い引き出しから見覚えのある袋とボロボロの髪飾りを取り出した。
「…………っ! これだ……ありがとう、おばあさん! お世話になりました!」
「あっ、ちょっとアギトさん! どこ行くんスか⁉︎」
髪飾りを自分のポーチにねじ込んで僕はまた飛び出した。手掛かりは握りしめた財布、これ一つ。いや、そもそもこれで本当に辿り着けるのかも分からない。だが…………今はこれに頼るほかないんだ。
「待ってくださいってば…………? アギトさん?」
「…………術師は——魔術に携わった人間は、魔術痕を見ることが出来る。それは……別に特別なことじゃなく、そう…………クリフィアで迫害されていた、実験動物として扱われていた人も同じだった」
袋にはもう何も入っていないけど。でも、これはあいつがずっと身につけていたものだ。髪飾りと違って、ずっと。ずーっと大切に持ち歩いていたものだ。なら……
「……オックス。お前にも魔術痕、見えるんだよな」
「魔術痕……っ言っても、俺にはその差なんてよく分からなくて……」
それでも良い。いいや、それでも問題無いからアイツはこれを残したんだ。助けて欲しいわけじゃないのかもしれない。僕ら二人だけではこの街で生きることも、この街を出ることも出来ないから助け舟を出しているつもりなのかも知れない。生意気な奴だから多分そうだ。
「この袋に魔術痕は付いてるか……?」
「えぇー……? まぁ……確かに……色々ごちゃごちゃとは付いてるっスけど。でもこんなの見たって……」
最後まで説明を聞けぇい! と、僕はオックスの怪我しなかった方の脇腹を弱めに小突いた。
「そのごちゃごちゃした魔術痕! 特定の属性の魔術を使ったって感じじゃない、意図的に混ぜこぜになった属性の痕、見えないか……? 地面とか手すりとか、アイツが通ったであろう場所に」
「……っ! ある……っス! 確かに点々と……ぐちゃぐちゃな痕跡が続いてるっス!」
よし。と、僕らは走り出した。相変わらず僕は役に立ってないけど…………んまぁ今はそんなのどうだって良いんだよ! オックスの目を頼りに、僕らは街灯と月明かりに照らされ始めた街を急ぐ。




