第百七十一話
足取りは依然重たいままだった。恐怖からの解放は実感出来ず、頼りになるミラは動けないでいた。魔獣との遭遇はすなわち死に直結しかねない大事であると、全身の鳥肌で強く意識する。それでも僕らは歩き続けた。歩いて歩いて、草原を抜け林を抜け……そして、遂に辿り着いた。
「……ここが……キリエ……」
看板も何もあったものじゃないが、その名前を予感した。例えば強固にそびえ立った砦からであったり、内から聞こえてくる人の賑わいの……そう、喧騒であったり。例えば豪華絢爛な装いをした貴族の様な婦人であったり、或いは建物の陰に隠れる様に竦んでしまっているボロ切れに身を包んだ子供であったり。
ここはキリエ。富む者と富まぬ者とが交わらぬ一枚絵の上の二重構造の街。どうやらそんな僕の感想は間違いでは無さそうだ。
「……まずは病院、だよな。とりあえず大きい建物を探そう。役所を見つけて案内を受ける、ってのはもう馴染んだもんだ」
「大きい建物……っスか。でもここ……」
僕らの眼前に広がるのはビル群……とまではいかないが、巨大建築の群れだった。おそらくは個人の屋敷であろう物から、集合住宅の様なアパートメントの様な——ソレを持たぬ者達をまとめて放り込んでおく為の家の様な物まで。余所者がいきなりこんなことを言うのはどうかとも思うが……いい感じのしない街だ。
僕らは三十分程歩き回ってようやく病院を見つけた。ミラの手当てと寝かせてやれるベッドを。と、頼み込んだのだが……
「金……っ⁈ 金貨十枚⁈ ぼったくり過ぎるだろ⁉︎」
「なんだい、金も無いのにうちに来たってのかい。貧乏人は下の医者にでも掛かりなよ。ばっちぃ服で上がり込まないで欲しいな。うちは上相手の上級な病院なんだからさ」
小柄な医者は嫌味なセリフを吐いて、眼鏡越しに僕を睨みつけた。下とか上とか……予想通り、この街の貧富の格差というものは大きい様だ。こんな医者こっちから願い下げだ。と、僕らは踵を返してその白い箱を飛び出した。本当の事を言えば、この清潔そうな病院でしっかりとした手当てを受けさせてやりたいが……貧乏旅人の僕らにそんな余裕は無い。街行く人々の中から特別裕福であることを見せびらかしている感じの人を避けて聞き込みをして、ようやく僕らは小さなボロ病院へと訪れた。本当に大丈夫だろうかと心配になる、本当の本当にボロの病院へと。
「ごめんください」
「はいはい……怪我かな、病気かな。と言っても、うちに来たってロクな薬は出してやれないけどね……」
顔を覗かせたのは、ボロの白衣に袖を通した老婆だった。寂しそうなその小さな背中に今は頼るほか無い。僕は事情を話して、傷の手当てとベッドを貸して貰えないかと頼み込んだ。
「……あい、じゃあそこに布団敷くから片付けとくれ。悪いねぇ……こんな埃だらけのとこで」
「そこ……って……」
指さされたのは腐って穴の空いた板張りの床だった。ベッドの一つも無いのか、なんて悲嘆している場合じゃない。オックスは可能な限りのゴミと埃とそれから木の棘を取り除いてくれた。ミラを背負ったままで動きにくい僕の代わりに……いいやつだなぁ、本当にお前は。そしてそのままお婆さんを手伝って布団を敷いてくれた。アーヴィンでいつも寝ていた煎餅布団より酷い、綿なんて入っていないんじゃないかってくらいぺらぺらの硬い布団だった。
「……ミラ、ちょっと脱がすぞ。オックス、お前も上着貸してくれ」
いつかもやった様に僕はミラの上着を背中の下に敷いた。枕も無いなんてと思いながら、オックスの服を頭の下に敷いた。僕の服は……ええい、上なら脱いでても大丈夫だろ! 僕は来ていたシャツを脱いでミラのお尻の下に……な、なんかいかがわしいことしてるみたいだな……さっきまで着てた服を女の子の布団にするって…………い、いかん変な扉がっ⁈
「……アギトさん。ちょっとオレ、買い物に行ってくるっス。飲み物とかご飯とか……薬も買えるようならそれも」
「ああ、助かる。ほんと気が効くやつだよ、お前は」
オックスは笑って飛び出して行った。行動力と言い決断力と言い、頼りになるやつだ。さて……僕はどうしよう。どうしようもない、か。
「……ごめん。ごめんな……ミラ…………せっかく頼りにしてくれたのに…………」
少女の小さな手を握って懺悔を繰り返す。また守れなかった。また守られた。足を引っ張るから。と、言い訳を繰り返して、僕はあの場に留まった。ならば彼女を止めるべきだった。ならば彼女を説得すべきだった。彼女一人を危険に飛び込ませるくらいなら、彼女に恨まれてでも阻むべきだったんだ。どうしようも無いと分かっていても後悔は尽きない。
「…………アギ……ト……?」
「——っ! ミラ! 起きたか……良かった……」
握っていた小さな手が、少しだけ握り返してきた。そしてすぐに彼女は意識を取り戻す。まだぼうっとしたまま天井を見つめて……そしてゆっくり僕へと視線を移した。
——どうやって誤魔化そうか——
それはここまで歩きながら考え続けて、結局答えの出なかった命題だ。彼女にレヴの出現を悟られてはいけない。彼女に心配をかけてはいけない。彼女に……あの絶体絶命をどう乗り越えたかをうまく取り繕う上で、その二つを乗り越えなくてはならない。それもこの聡いミラ相手に、だ。下手な嘘などすぐにバレる。余計な心配を増やしてしまうだけだ。
「……あれ……? えっと…………っ⁉︎ ゴートマン! アイツは……エンエズさんも…………私それで…………捕まって………………っ⁈ きゃぁああっ⁉︎」
「ミラっ! 落ち着け、大丈夫だから……もう大丈夫だから……」
僕は取り乱したミラを抱き締めて、なだめる様に頭を撫でた。これで本当に落ち着いてくれるかなんて分からない。でも……コレくらいしか知らないし出来ないし……レヴが言うことが本当なら、ミラも案外これで落ち着いてるみたいだし。恥ずかしいけど……ここは男として、頼りになる男として……
「あっ……アンタ——っ⁉︎ なっ……ななななんで裸のよッ⁉︎ ふっ、服着なさいよーーーッ‼︎」
「……へ? どぇえええっ⁈ ち、違う! これは……これは違う‼︎」
ああ、うん。はい。違わないんですけど……この感じは久しぶりだ。思いっきり平手打ちを食らった頰が熱い。でもね、違うんだよ。そんな……うん、ごめんね。裸の男がいきなり抱き付いてきたら…………うん。ありがとう、通報しないでくれて。ありがとう…………でもね、違うんだよ。僕はお前のことを思ってね、お尻痛いといけないとおもって、ね? あっ…………
「……アギト……っ⁈ なっ、なんでまだ裸なのよ!」
「ちがっ……着るから! すぐ着るから!」
着ても……良いんだろうか…………? この……さっきまで女の子のお尻の下にあった布を纏っても……ごくり。ち、違うぞアギト。この温もりはさっきまで着てた自分の体温だ。この湿り気はミラのじゃない、自分の汗だ。散々歩いてるし。だから……ごくり。いかんいかん! 滅せよ煩悩! 南無三…………汗くっさ……自分の汗だ……やっぱりこれ……
「…………もう。なんなのよ……」
「はは……ごめんごめん」
ちょっぴりの残念と他は全部安堵で埋め尽くして、僕は起き上がったミラの頭を撫でた。良かった。良かった……? それは……彼女が無事だったから? それとも……
『——互いの存在を認知した時、私達は溶けあって消える——』
「……アギト? さっきからアンタ変よ……? どこか痛めたとか……」
「っ! いや……なんでも。安心したら気が抜けて、な」
まだ彼女がいるという安心。彼女がまだ消えていないという……猶予があると言うことへの慢心とさえ。まだ大丈夫。まだ、まだ大丈夫。僕はそうやって多くのものを失ってきた。今回も同じことを……っ。繰り返してはならない。彼女については繰り返すわけにはいかない。言おう。僕のことを……僕の事情を。言ったからってどうにかなるものでも無いが、抱え込み続けて嘘を吐き続けるよりはマシだ。よし、決めた。言うんだ、今ここで——
「…………あのさ、ミラ——」
「……あれ……私…………どうして……」
僕の言葉はぼーっとしたミラの言葉に遮られた。どうして…………? どうしてとは……ああ、そうだ。まずはそこを誤魔化すんだった。えっと……そうだな。嘘をつかない範囲で……ゴートマンが撤退した。エンエズさんはそれに従って、何やら実験は完成したから工房は捨てて構わない、とか言っていた。だけど、念の為ちゃんと研究は燃やしてきた、と。こんな所だろうか。
「ああ、えっと……ゴートマンが突然撤退とか言い出してな。エンエズさんは不服そうだったけど……どうやら力関係はゴートマンが上らしい。もう工房は必要無い、研究は完成したとかなんとか言ってたけど……一応あの小屋は焼いてきた。それで良かったんだよな……?」
「……撤退……? 私をあんなに殺したがってたのに…………ううん、あんな男の行動をいちいち考えても仕方無いか。工房を焼いたのは良い判断だわ。あいつに必要無くても、他の誰かが同じことを始めちゃったら意味が無いもの。ありがとう」
取り繕え……たかな? 多分全部を鵜呑みにするわけでは無いだろうが、僕の言葉の一端でも信じてくれると嬉しい。そしてそれで安心してくれるとなお嬉しい。ミラは笑って僕の頭を撫でた。
「なんだよ、それは俺のだろ。甘えん坊がお姉さんぶるなって」
「なっ、なによ! ふふ……まったく。お疲れ様、また守られたわね。ありがとう、“主人”」
背筋が凍りついた。彼女もまた、自分の発した言葉に笑顔を曇らせて一気に青ざめていった。主人、と。彼女はまるで、彼女では無いかの様な口ぶりで——
「……ミラ…………?」
オックスの声がした。ああ、買い出しから戻ったのか。背後——凄く遠いところで彼の声がした気がした。遠い……遠過ぎるところに、彼女が行ってしまう気がした。